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家庭科室でレン先輩に「殻を壊せ」と告げられてから、私の中の何かが決定的に変わった。
鏡の前で自分を塗り固める時、私はもう、誰かの期待をなぞるような薄っぺらい表情は作らない。撮影現場でスポットライトを浴びるたび、私は自分という存在をその場に焼き付ける感覚を覚えた。
それは、レン先輩が語っていた「圧倒的な個性を刻み込む」ことと、本質は同じだ。
「……すごいね、今日の君の視線。何か、今までと全然違う。魂が宿ったみたいだ」
カメラマンの感嘆の声を聞きながら、私は確信する。私は今、自分自身を生きている。
その高揚感を報告したくて、私はいつも以上に、レン先輩のいる家庭科室へと向かう回数が増えていた。
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一方、レン先輩もまた、料理界という巨大な荒波の中で異彩を放ち始めていた。
彼が名門の跡取りという肩書きをかなぐり捨てて作った新作――『初秋の果実と焦がしバターのタルト』は、若手コンクールで異例の評価を受けた。甘さだけでなく、微かな苦味と複雑な食感を同居させたその味は、審査員たちに衝撃を与えたという。
私たちは放課後の家庭科室で、その戦果を報告し合うのが日課となっていた。
「……レン先輩のタルト、食べた人が『あれは、作った少年の内面そのものだ』って言ってましたね」
「内面? ……焦げたバターと、中途半端な焼き色かな」
「ううん。迷いのない、熱い情熱だと思いますよ」
先輩は、私の言葉に少しだけ照れくさそうに笑う。
ここでの時間は、どんな撮影現場よりも、どんな華やかなパーティーよりも、ずっと濃密で心地よかった。私たちは、誰かに評価されるためではなく、ただお互いの「自分らしさ」を認め合うために、ここにいる。
けれど、私たちの活動が評価されればされるほど、私たちは「ただの高校生」ではいられなくなっていく。
私のスマホには撮影依頼の通知が鳴り止まず、レン先輩の元には、海外留学の準備を急かす事務所からの連絡が頻繁に入るようになった。
「ごめん、今日の放課後は試作する時間が取れそうになくて」
最近のレン先輩からのLINEは、いつもそんな謝罪で終わる。
私もまた、都心での撮影から戻るのが深夜になる日が増えていた。家庭科室で互いの戦果を報告し合っていたあの穏やかな時間は、かつて遠い国の出来事だったかのように、急速に過去のものとなっていく。
学校の屋上で、冷たい風に当たりながら私は空を見上げた。
互いに夢へ近づいているはずなのに、なぜかこの胸には冷たい穴が開いたような感覚がある。
(……ねえ、レン先輩。私たちは今、成功の階段を登っているの? それとも、ただお互いから遠ざかっているだけなの?)
ふと視線を落とすと、下の階の中庭に、関係者らしきスーツの大人たちと話すレン先輩の姿が見えた。
彼らは先輩を囲み、何やら熱心に書類を見せている。留学という、もうすぐやってくる現実の予兆。彼はもう、あの家庭科室でバターの香りにまみれていた「夢を追う少年」ではなく、世界を相手にする「プロのパティシエ」としての顔つきになっていた。
その横顔はあまりに凛々しくて、そして私から遠い。
私は小さく溜息をつき、スマホの画面を消した。
レン先輩の留学まで、あとわずか。
私たちが登っている階段は、いつか交差するのか、それともこのまま平行線のままどこまでも続いていくのか。
その答えを知るのが怖くて、私は今日も、鏡の前で完璧なモデルの表情を演じ続けることしかできなかった
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出国ゲートへ向かうレン先輩の隣を歩く、私の足取りは、いつになく重かった。
人混みの中で立ち止まったレン先輩は、振り返りざまに、私の胸元に小さな紫のアネモネを一輪添えた。
「……レン先輩」
喉まで出かかった言葉があった。
(――あなたのことが好きです。このまま、行かないでほしい。)
そんなことを言えば、この脆い境界線が壊れてしまう。それでも、このまま離れ離れになるのが怖くて、私は震える声で何かを言いかけようとした。
「……ねえ、レン先輩。私、どうしても伝えておきたいことが……」
けれど、レン先輩は私の唇に人差し指を添えて、その先を遮る。
彼の瞳は、家庭科室で見たときと同じように真っ直ぐで、でも今はそれよりもずっと、私を捕らえて離さない熱を帯びていた。
「分かってるよ、言わないで……」
彼の低い声が、ロビーの喧騒を消し去る。
「……全部、俺が帰ってきてから聞かせて。その時、一番ふさわしい場所で、俺から君に話したいことがあるんだ」
彼は私の手を握り、アネモネの花ごと、強く、強く包み込んだ。
「絶対に迎えに来るから。だから、信じて待っていてほしい」
紫のアネモネが持つ『あなたを信じて待つ』という言葉を、彼はあえて自分の誓いとして私に託した。
それは別れなんかじゃない。未来の再会を確信させる、未来への約束だ。
「……約束、ですよ。レン先輩」
私は涙をこらえ、精一杯の笑顔を作った。
レン先輩がゲートの向こうへ消えていく。その背中は、どんなに遠くへ行っても、いつか必ず帰ってくる場所を指し示しているように見えた。
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