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◇
放課後の家庭科室。隠れてメイクの練習をしていた私が、オーブンの前で作業する少年を見つけたとき、心臓が跳ね上がった。
彼は、料理界の名門の跡取りとして噂されるレンだった。
海外留学が決まっていて、将来を確約された「エリート候補生」。
芸能科でも彼に近づくことは一種のステータスだとさえ言われていた。当然、私も彼のことは知っていた。遠くから眺めるだけの、無機質な偶像。
けれど、今目の前にいる彼は、制服を汚してバターと砂糖の匂いを纏い、不格好にオーブンと格闘していた。私がポーチを落とした音で、彼は振り返る。その瞬間、私はモデルとして鍛えた『完璧な表情』で取り繕おうとした。
「……君、芸能科の……」
彼は私の顔をじっと見つめた。その瞳には、噂で聞くような傲慢さや、周囲が作り上げた「セレブ候補」の影なんて微塵もなかった。ただ、一人の少年として純粋に、私の顔の表面にある仮面を見抜くような視線を向けていた。
「……君、自分を飾るのがすごく上手いんだね。モデルとして隙がなくて、まるで完成された芸術品みたいだ」
彼は感心したようにそう言うと、ふっと少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、さっき驚いた時の君の方が、ずっと瑞々しくて綺麗だった。……そんなにたくさんの色を重ねなくても、君の素顔はもう、十分すぎるほど完成してるんだから。俺には、その飾っていない君の方がずっと魅力的だと思うよ」
その言葉は、私の胸の奥で小さな火種となる。
鏡の前で自分を塗り固めることしか知らなかった私に、彼は初めて「そのままの姿」に価値があることを教えてくれたのだ。
◇
放課後の家庭科室。いつも通り、レン先輩はオーブンの前で何かに集中していた。
私が扉を開けると、先輩は弾かれたように振り返った。さっきまでの彼とは違う、少しだけ力の抜けた、無防備な表情で。
「……あ。また会ったね」
「こんばんは、レン先輩。……今日は、何を焼いているんですか?」
「新作。……なんだけど、見ての通り。焼き色が不揃いで、甘さも中途半端な失敗作だよ」
先輩はそう言って、トレイに乗った不格好なクッキーを一つ、私の手のひらに載せた。
口に運ぶと、たしかに少しだけ火の通りが甘い気がした。けれど、濃厚なバターの香りは、お店で売っているものよりもずっと温かかった。
「おいしいですよ?」
私が素直に伝えると、先輩はどこか驚いたように目を見開いたあと、ふっと目元を細めた。
「……君がそう言ってくれると、不思議と失敗した気がしないな。」
「そうでしょうか。……レン先輩の作るものだから、そう感じるだけかもしれません」
私たちはそのまま、並んでオーブンの前の椅子に座った。
先輩が作るお菓子の話、私が雑誌の撮影で無理して笑った話。ここでは鏡を覗き込む必要も、完璧な仮面を被る必要もない。
レン先輩は私の髪に少しついた粉を、何気ない仕草で払った。その指先が頬にかすかに触れて、心臓が跳ねる。
「……君は、笑っている顔が一番綺麗だよ。撮影の時の完璧な表情より、今の方がずっといい」
「……私も、レン先輩の作るお菓子が一番好きです。たとえ誰がなんて言おうと、私にとってはこれが一番ですから」
私たちは二人で、少し焦げた匂いのする家庭科室で小さく笑った。
◇
自習中の教室は、退屈な静寂に支配されていた。
窓の外、グラウンドにはカメラに囲まれて走る彼女の姿がある。
「おい、見ろよ。あれ、また雑誌載ってた子だろ? ……まあ、あんな綺麗な顔して、中身は空っぽの人形みたいなんだろうけど」
隣の男子の言葉に、レンは顔色一つ変えずにペンを動かし続けた。
いつもなら気にも留めないノイズだ。けれど、今はその言葉の一つひとつが、まるで鋭い針のように脳内に刺さる。
(中身が空っぽ? ……何も知らないくせに)
感情を悟られないよう、完璧に計算された「穏やかな優等生」の仮面を被り直す。
けれど、握りしめたシャープペンシルの芯が、カチリと音を立てて折れた。
(これ以上、彼女を無神経な言葉の標的にさらすのはごめんだ。)
俺は隣の席の男子を振り返り、作り込まれた柔らかな微笑みを向けた。
「……悪い、少し眩しくて。カーテン閉めるね?」
返事を待たずに閉められたカーテンの向こう側に、彼女の姿はもう見えない。
教室内は相変わらず静かな自習時間に戻った。けれど、隠してしまった彼女の残像を脳裏で反芻し、俺は奥歯を噛み締める。
(早く、あの家庭科室へ行きたい。砂糖の甘い匂いで、この苛立ちも、この隠しきれない独占欲も、すべて溶かしてしまいたい。)
◇
移動教室の途中、廊下の窓から隣の棟をふと見上げた。
人だかりができている。その中心にいたのは、レン先輩だった。
クラスの女子たちが頬を紅潮させて彼を取り囲んでいる。彼はいつものように、作り物めいた爽やかな笑顔で、彼女たちの言葉をあしらっていた。
「ねえ、レンくんってば! 今度の放課後、空いてない?」
そんな声が、ここまで聞こえてくる気がした。
私は反射的に立ち止まり、彼を凝視してしまった。鏡の中の『モデルの私』は、どんな視線にも動じない完璧な仮面を被っているはずなのに。
けれど、彼が彼女たちの問いかけに少しだけ困ったように、けれど優しく笑うのを見て、胸の奥がチクリと痛んだ。
(――知ってる。あれは彼の『社交用の顔』だって。)
本当の彼は、家庭科室で不器用に笑う、少し照れ屋で熱い少年だってこと。
それでも、彼が彼女たちの輪の中にいるのを見ると、どうしようもなく疎外感が込み上げる。
私たちが共有しているのは、焦げたクッキーの味と、誰にも言えない秘密の夢だけ。その境界線は、あまりにも脆くて儚い。
私は視線を逸らし、わざとらしく上履きの音を響かせてその場を去った。
◇
トレイの上には、見るからに焦げ付いたフィナンシェが並んでいる。
私は彼が、それを一つずつ丁寧に手にとり、焼き色の付き具合を確認していく様子を黙って見つめていた。
「……レン先輩は怖くないんですか?」
「何が?」
「失敗すること。先輩はエリートだし、一度のミスも許されない立場でしょう? なのに、どうしてそんなに平気で新しいことに挑めるんですか。私だったら……失敗して『あの子はダメだ』って思われるのが怖くて、絶対にできないわ」
彼は作業の手を止め、私を振り返った。その瞳には、私の知らない強さがあった。
「失敗? ……俺にとってそれは、失敗じゃなくて『試行』だよ。これ以上焼いたらダメだという場所を見つけただけ。そんなデータも取らずに、ただ誰かの顔色を窺って、借り物の『完璧』を演じる方が、俺にはずっとリスクがあるように見えるけど」
借り物の『完璧』。
その言葉は、私の胸の奥深くまで突き刺さった。
私はずっと、誰かに褒められるための表情を鏡の中で練習していただけだ。それがモデルとしての成功だと思い込んでいた。
でも、先輩は違う。彼は自分の手で『正解』を創り出そうとしている。
――怖いのは、失敗することじゃない。
――誰かの物差しで測られるだけの、空っぽな人形のままでいることだ。
彼は作業の手を止め、トレイに残った焦げたクッキーを一つ摘み上げた。
「俺さ、いつか世界中の舌を虜にするパティシエになりたいんだ」
何気ない口調だった。けれど、その瞳には嘘のない熱が宿っていた。
「俺の作るお菓子を一口食べれば、誰だってすぐに分かるようにしたい。名前を確認するまでもなく、『あ、これがあの人の味だ』って、世界中の誰もが確信してしまうような、そんな圧倒的な個性を刻み込みたいんだ」
その真っ直ぐな言葉に、胸が締め付けられるような羨ましさを覚えた。彼には、迷いのない目的地がある。
「……いいな。私には、そんなふうに『これだ』って言い切れるものがない」
私は小さく呟いた。
「モデルのお仕事は楽しいし、やりがいも感じてる。でも、いつも誰かの期待に応えることに必死で……私が本当に何になりたいのか、分からなくなる時があるんです」
レン先輩は私の言葉を聞くと、慈しむような眼差しで私を見つめた。
「誰かに求められることを選ぶのは、決して悪いことじゃないよ。ただ……君のそれは、誰かが勝手に描いた『君の理想図』を演じているだけに見えるよ。一度その殻を壊してみればいい」
「壊す、ですか?」
「ああ。失敗を恐れて形を整える前に、自分が本当に表現したいものを焼き付けるんだ。君の本当の輝きは、そんな薄っぺらい枠の中に収まるようなものじゃないでしょ?」
彼の言葉が、氷の張っていた私の心を溶かしていく。
怖いのは、失敗することじゃない。誰かの物差しで測られるだけの、空っぽな人形のままでいることだ。
「……私も、先輩みたいになりたいな……」
口から出たのは、自分でも驚くほど芯の通った声だった。
「誰かに振り返られるためじゃなくて……一番輝く場所で、私の名前を刻みたい。モデルとしての自分自身を完成させるために」
彼はその時、今日一番――いや、出会ってから一番楽しそうに笑った。
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