プロローグ
◇
冷え切った撮影スタジオの空気に、ストロボの光だけが鋭く突き刺さる。
「はい、いいよ。今の視線、すごくいい!」
カメラマンの歓声が上がるたび、私は反射的に口角を上げる。カメラの中に映る自分は、完璧な人形だ。トレンドのドレスを纏い、最高級のメイクを施され、誰もが憧れる『モデルの私』。
けれど、その仮面の下にある心は、三年前のあの日からずっと、凍りついたまま時が止まっている。
休憩に入った楽屋で、震える手でスマホを開く。
SNSのトレンドには、今日も彼の名があった。
『世界を魅了する天才パティシエ レン・スメラギ、新作は紫のアネモネをあしらった芸術的な一皿』
記事の写真は、パリの柔らかな光の中で、かつての少年が大人びた色香を纏って笑っているものだった。彼の指先には、砂糖細工で繊細に象られた紫のアネモネが乗っている。
世間はそれを「天才の気まぐれなこだわり」と称賛し、彼は瞬く間に世界中の女性を虜にしていった。
けれど、私には分かっている。
あれは、彼が高校の家庭科室で、私のために焼いてくれたクッキーに描いてくれたものと同じだ。
―あれは、パリへ旅立つあの日、空港の喧騒の中で交わした最後の約束―
『迎えに来るから、絶対待っててよ』
出発ゲートに向かう彼の背中を、今も鮮明に覚えている。振り向いた時のあの真っ直ぐな瞳は、高校の家庭科室で、私が初めて焼いたタルトを彼が「美味しい」と笑ってくれた、あの時と同じ顔をしていた。
けれど、今の彼はどうだろう。
華やかな女性関係の噂に、途切れることのないスキャンダル。世界中の女性を虜にするプレイボーイとしての姿ばかりが、メディアを賑わせている。
あの日、私に向けられた瞳と、今の画面の中の笑顔。
重なるはずのない二つの姿に、私の心は今日もかき乱されている。
私の手に持ったスマホの画面には、地球の裏側で美女に囲まれて笑う彼の姿。
「……嘘つき」
誰にも聞こえない声で呟いた瞬間、楽屋のドアが控えめに開いた。現れたのは、親友であり今を時めく歌姫のレイナだ。
「また、そんな顔して……」
彼女は私の手元のスマホと、私の顔を交互に見ると、ふうと小さくため息を落とした。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
今の私には、言葉にすれば壊れてしまうような思い出が多すぎることを、私以上に彼女が知っているからだ。
私は鏡の中の自分から目を逸らした。カメラの前で見せる笑顔も、彼を信じているという強がりも、全部、自分を守るための鎧だ。
画面の中の、砂糖でできたアネモネ。
(あなたは今、誰のためにその甘いプレートを作っているの?)
私は画面越しに、指先でその小さな花をなぞる。
いつか彼が帰ってきたら、この呪いを溶かして、私は彼の手からその花を受け取ることはできるのかな?
(──その時まで、私はまだ、人形のままなのかもしれない)
スタジオへ戻るための、冷たい扉を開ける。
次のシャッターが切られるたびに、私の『待つ』という思いは、少しずつ、けれど確実に擦り減っていく。
今の彼は、世界中の美食家を唸らせる若きパティシエだ。
対して私は、誰にでも消費されるだけの流行のモデル。
鏡に映る私は、最高級のドレスを着て、完璧に作り込まれたメイクをしている。けれど、あの日、家庭科室で彼が褒めてくれた「素の私」は、とっくにどこかへ置いてきてしまったみたいだ。
私はスマホの奥に保存された、色褪せた紫のアネモネの写真を眺める。
(──あなたを信じて待つ。)
その言葉が呪いのように、私の喉元にへばりついて離れない。
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