137 下り道
岩屋根の奥の方に、荷を背負った牛獣人が横向きになってぎりぎり通れる、上へ通じる隙間が空いていた。
まだ雨水に濡れているそこを順番に通過してゆく。
「は、はやく、早く行け!」
後方に感じるものから逃れようと、客たちはそこへ押しかける。
体力のある者は小走りすらする。案内人もそれを止めない。自分たち自身が急ぎ足。
怪我人のゴーチェを乗せた亜馬、オラースに続いて、カルナリアも岩の隙間に入りこんだ。
ごつごつした岩をいくつも乗り越えて登ってゆく道の、左右をはさむ濡れた岩壁の先が明るくなってきた。そこが峠で、そこからは下りなのだろう。
「…………!」
狭いところを抜けて、峠に立つと、それまでとまったく違う光景が広がっていた。
予想外のものだった。
鏡のような、きらめく水面が眼下にある。
湖だ。
それほど大きなものではないが、山また山というところをずっと移動し続けてくると、平らな、広い空間というだけでも新鮮であり、感動的だった。
湖の周辺にはそれなりの広さの平地があり、やわらかな草の色に覆われている。
人が住めるのではないか。
いや、実際……。
「村がありませんか?」
「あるな。村だよな、あれ」
ゴーチェが同意してくれた。
いくつか、家らしいものが見える。
湖の縁にも、船着き場のような、住居のようなものが。
船もつながれているようだ。
グライルには人は定住できないとの話だったが……!
「休めるが、長くは住めない」
案内人が自分の胸を軽く叩きつつ教えてくれた。
彼は話しかけてくる者だ。今の仕草はそれ。
「以前、住みつこうという集団がやってきて、ここを紹介した。何百人も来て、木を伐り、石を切り出し、家を建て、畑を作り、年を越した。子供も生まれた。
……だが、三年目に、全滅した」
「……魔獣ですか? それとも血を流してしまって?」
「獣というか……運が悪かった。石人が来てしまった」
「石人?」
「石でできた、人の形をしたものだ。大きくて、人の力では止められず、砕けず、すべて踏みつぶされる。下界ではゴーレムとかいうそうだが」
「はい、聞いたことがあります。石の、魔導人形ですか……」
「グライルの中を、集団で動き回っている。山も越える、水も渡る。何かをするでもなく、とにかくただひたすら動き続けるだけで、意志があるのか、目的があるのか、何もわからん。調べようとくっついていった魔導師が、三年間追いかけ続けたが、何もわからなかったそうだ」
「…………」
「で、それに踏みつぶされた死体に、血吸蟻が寄ってきてしまった。以来、あそこはあいつらの群生地だ。絶対に血を流してはいけない」
「ひぃっ……!」
フィンに聞かされた、血に群がってくる小さな虫のことだろう。
だが地形的に、どうしても通らなければならない場所だとのこと。
雨あがりの、濡れた山中を下ってゆく。
案内人たちは、持ち歩く長い棒の先に油脂の多い樹皮を巻きつけ、火を灯した。
色濃い煙が隊列のあちこちから上がる。
臭いは強いが、先頭がどのあたりにいて、この先どちらへ行くのかがよくわかってありがたい。
基本的に西へ向かっているので、午後の陽光がほぼ正面から射しこんでくれて、足元がよく見えることも助けになった。
「うおっ!」
「気をつけろ!」
時々足を滑らせた者の声が上がる。
幸い、怪我人は出ていないようだ。
先行する案内人たちが、危ない所にロープを張ってくれているので、時にはそれをつかんで降りてゆく。
カルナリアも両手の杖をあれこれ使いつつ、慎重に足を運び続けた。
最初に山を下ったのは――熊に追いかけられた時だったと思い出す。
渓流で色々な目に遭わされたあと、フィンと一緒にさらに下っていった。
「………………」
顔の右面にかゆみをおぼえる。
あれは本当にひどかった。
かゆさで気絶することがあるなんて。
それをやってきたご主人さまは、今…………。
「っ!」
ぞわっとなる感覚をおぼえた。
通り抜けてきたあの岩の隙間から、恐ろしい何かがこちら側にやってきた。
そのことが肌でわかった。
わかってしまった。
「わあああっ!」
後方で悲鳴があがった。
同じものを感じ取った者が、慌ててしまったらしい。
曲がりくねる山道をまっすぐ突っ切って、大きな体が、尻で滑り落ちてきた。
「こら。あなたが転んでどうするんですか」
ファラが叱り、杖でぽかりと叩いた。
セルイの護衛の片方だ。ジスランだったか。
なまじ腕が立つので、フィンのあの気配を敏感に受け止めてしまったのだろう。
幸い怪我はせずにすんだ。
「気持ちはわかるけど、事情を理解してるあなたが慌てちゃだめでしょう? 落ちつきなさい。この子を巻きこんだら、本当にあれが来ちゃいますよ!?」
相手が変わると口調が変化し、メガネの下の目は鋭くなり、威厳すら漂わせる。
ずっとこのままなら大抵の男は言いなりにできるだろうになあとカルナリアは客観的に考えた。
「スライム!」
今度は前で、声があがった。
危険な粘体生物が現れたのだろう。
「全員、止まれ!」
「火!」
「急げ!」
煙をあげる棒が案内人たちの手から手へ渡ってゆき、出現したらしいあたりに集まった。
どうやら片づけられたらしく、移動再開の指示が出る。
降りてゆくと、その場にさしかかった。
どろりとした、緑色の半透明なものが、山道の上に張りだした木の枝から重たくしたたり落ちている。
垂れるだけで、動くことはない。死んでいる。
そのほとんど液体状の体は、あの臭い煙でたっぷり燻されつつ焼かれたのだろう、黒ずんだものがたっぷりとこびりついていた。
亜馬は不快そうにいななき、体を揺すって、それに近づかないように迂回する。
「さわっちゃだめっすよ」
好奇心を刺激されたのを見透かされ、ファラに杖で止められた。
「上から落ちてきて、獲物を包んで食べるやつっす。溶かす汁を表面ににじませるんで、死んでても、触ると肌溶けて、火傷みたいになるっすよ。動きはそんなに速くないし、中にある核を火で焼けば簡単に退治できるんすけど……気づくの遅れて、包みこまれたら、えらいことになるっす」
「これが…………」
つんつんして感触を確かめてみたかったが、忠告に従い、やめておいた。
棒で軽くつつくだけにしておく。ねばっとしていた。
「体じゅう鎧でがっつり固めた騎士に、育てておいたこいつをぶっかけるってのは、まあ割とある攻撃方法っすね。大抵のお城で準備してるっすよ」
確かに、重装騎士の方が、これに包みこまれた時はまずいことになるだろう。
「ただ…………肉じゃなくて、植物の、繊維を溶かして食べるのもいてっすね……それをぶっかけると、服だけが……ぐふふ……」
「…………!」
一瞬、想像してしまって、甘美な気持ちも芽生えてしまって、慌てて打ち消して険しい顔をした。
「レンカ。そこの変態に、何かやってやれますか?」
「まかせろ」
「あ、だめっす、それは、ああ、うちの鬼上司をみっともない格好にしてやるためにひそかに培養してたなんて絶対に知られちゃいけないことっす白状したからやめてほしいっす許してああいけない私がいたいけな相手の手でいけないことに、厳しく責められるのもこれはこれで!」
やはりこの人物には常時眠り薬を服用させておく必要があるのではないかと、カルナリアは真剣に考えこんだ。
休憩できそうなところがあったのにまったく休むことは許されず、一行はひたすら下降し続けた。
疲れてきた先の者と、まだ体力のある者が入り混じり、追い抜くことも見られるようになってきた。
「すまん」
「いや……」
亜馬に乗ったままのゴーチェと、自分の足でひたすら歩くオラースに、目に見えて疲労の差が出てきた。
しかしそれ以上に、まずい相手がいた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……まだか、早く、村で、休ませろ……」
「無理はなさらず、ゆっくり動いてください。危険はありませんから、転ばないことを最優先に」
モンリークと、筆頭従者のアルバン。
接触したくなかったのだが、疲労して動きが鈍った彼らは他の者たちに次々と追い抜かれてゆき…………前の方にいたのに、とうとうカルナリアたちの目の前に来てしまったのだった。
「あー、やっぱ、こうなったっすね……治しはしたんすけど、体力かなり奪われたのは事実っすから……というか、あんだけのことされたのに、もうここまで歩けてること自体を喜んでほしいもんっすけどねえ……」
レンカがあからさまに戦闘態勢に入り。
案内人が何か合図を出して、先に下っていった戦闘担当者たちが数人戻ってきた。
「おお、ゴーチェではないか!」
気づかれた。
「足の具合はどうだ? ん? 薬も塗ってもらったそうだし、かなり回復してきているのではないか?」
歩けるようになったのなら亜馬を譲れ、と暗に言っている。
「だめっすよ。ゾルカンさんに怒られるっす」
同じく亜馬にまたがるファラが声をかけた。
モンリークの顔が一瞬引きつる。
しかしすぐに、こいつは所詮平民と思い直した顔つきになった。
「ああ、いいところへ。ファラよ、もう無体なことは言わぬ。依頼料を払ってやるがゆえに、この体を、動くようにせよ」
「……それも、ゾルカンさんに聞いてください。あんたを治して、なのに身の程知らずのこと散々言われてムカついて、ああなったから、今ほとんど空っぽなんですよ。私の力は、案内人さんたちに使うために残しておかないといけないんです」
「何だと!? 貴族たる私に対してその口のききかた……!」
「あ~、それも、いい加減、わかってもらえませんかねえ」
ファラは、戦闘担当の案内人たちが動く前に、モンリークにも負けない、居丈高な笑みを浮かべた。
「これまでは我慢してきましたけど、もうそろそろ、限界ですよ? わたくしも、主の本当の身分、口にしてしまいますよ?」
その言い方は、貴族女性の口ぶりで。
魔法とは、基本的に貴族のもの。
だからこそ、平民魔導師という表現がある。魔導師とは貴族階級の者という前提があるからこそだ。貴族魔導師や魔導貴族といった表現はない。
すなわち、凄腕の魔導師であるファラは、平民の名乗りをしているが、実はそうではない可能性がある……ということをにおわせた。
「その時どうなるか、覚悟はできているのですね?」
まさに貴族女性のように、ファラは言った。
手にする杖も、王笏か何かのように掲げた。
「う………………い、いや…………そうではないが……」
モンリークは、これまでずっと平民と認識し見下していた相手に、急に態度を変えることもできず、うろたえる。
ファラは意地悪い目つきをした。
「死ぬしかないところを、このわたくしが、力を使い尽くして治してあげたというのに、まだ何かをしろと求められるのですか? たかが五位程度にどこまで配慮しなければならないのですか? ねえ、カルス様」
いきなり振られてカルナリアはうろたえる。
「えっ、あっ、いえっ、困っている人がいれば、できるだけ、助けてあげてほしいのですが……」
奴隷という立場を貫くのが正しいはずだが、ファラ、ひいては背後にいるセルイがどの程度自分たちの素性を暴露するつもりなのかが瞬時に判断できず、しどろもどろになってしまった。
ファラが、満面の笑みを浮かべた。
「……まあ、まともな方なら、わかりますよね。たかが第五位、という言葉を気にしない。それが何を意味するか……」
「!」
モンリークたちは顔色を失ったが、カルナリアもそれに負けない状態に陥った。
やられた。
失敗した。
自分は奴隷であるはずなのに、貴族を雲の上の相手と思っているどころか、第五位という言葉自体に重きをおかない対応を示してしまった……!
カルス「様」と呼ばれたことも流してしまった。本当の奴隷なら決して呼ばれることのない表現なのに。
「な、何者なのだ、そなたたちは……!」
モンリークがわずかに言い方を変えた。
相手が、自分より上である可能性を察したのだ。
ようやく、だが。
「このグライルの中じゃ、私たちは、みんな平等っす」
ファラはいきなり崩した笑みを浮かべて杖を肩に乗せ、下卑た口調で言った。
「なんで、下界の身分とか何とか、そういうのは全然関係ないっす。大事なのは、案内人さんたちの言うこときいて、とにかく先へ進むことだけっす。そうっすね?」
「う…………」
明らかに案内人たちに聞かせるための、そして彼らの好意を得るだろう言葉に、さすがにモンリークも自らの不利を悟った。
「それに、色々な人を治してるからわかるんすけど、山歩きに慣れてないから疲れをきつく感じてるだけっすよ。ちゃんと動けるように治してるんで、がんばれば何とかなるっす。
まあ、本当にダメで、動けないなら………………後ろから、あれが来るっすよ~~~~」
幼い子供を怪談で脅す母親のように、ファラは語尾を伸ばしつつ杖で後方を示した。
背後にいる、恐怖の化身。
それをほのめかされて、モンリークは今度こそ完全に顔色を失った。
「行きましょう、モンリーク様!」
アルバンが、オラースが、その身を支える。
「お、おう、行くぞ! カラント貴族の栄誉をここで発揮するのだ!」
「…………ひとに助けられて発揮するっていう栄誉って、何なんっすかね」
ひとり残された、亜馬の上のゴーチェに聞かせるように、ファラはうそぶいた。
「君たちは、何なんだ…………?」
「知らない方がいいことって、この世には、たくさんあるんすよ」
威厳を漂わせていたのが嘘のように、ファラはへらへら笑った。
雨の後の山道を下るという危険な道行きだが、これまでに比べれば平和。そして行く手に湖と、村。そこでは一体何が待つ。次回、第138話「危険な草原」。




