117 魔獣との初遭遇
色仕掛け。
その言葉が、鐘のようにカルナリアの頭の中で鳴り響く。
幾重にも反響し続ける。
野の男たちが女を求めるという話を聞かされた直後に、それ。
ではそういうことをしたのか。
あるいは案内人の男たちを魅了して。
このゾルカンに顔を見せたり、考えるもおぞましい行為をして、他の客と違う待遇を手に入れたのか。
カルナリアの目は危険な角度につり上がった。
自分の守り手にしてご主人さまであっても許しがたい。
ぜったいに許してはいけない。
「……がはははははははは!」
ゾルカンが大笑いし始めた。
「ぼろ、あんた、だめだろ、子供をからかっちゃ!」
「か、からかい!?」
「言い方! そりゃ、誤解するって! がはは!」
「ふっ」
ぼろ布の中からも、ゆるんだ、笑いの声が漏れた。
「お嬢ちゃん、あのな、あんたのご主人さまの色仕掛けってのは――こいつよ」
ゾルカンは、懐から何かの入った袋を取り出した。
中には、乳白色の、丸い、中央に突起のある――豊かな女性の胸のような形をしたものが入っていた。
指で輪を作った程度の大きさでしかなく、肉ではなく硬い、植物のようだが……。
「猿おっぱい、って言い方が一般的だな」
「おっぱい」
「やつらのじゃねえぞ。やつらが吸うものだ」
「吸う」
「通ってきた、でっかい木があっただろ。あのずっと上の方、一番高いとこに、大体一本にひとつかふたつ、こいつができる。
一年のある時だけ、こいつは特別な樹液を出す」
「樹液」
「そいつを吸うと、あのサルどもは猛烈に発情して、子作りに励むようになる」
「子作り…………!」
「で、こいつは、人間さまにも、ものすごく効く」
「人間に!」
カルナリアの顔が一気に赤くなった。
もう、その行為について知っているから。
「だから、ものすごく高く売れる。
こいつはちょうど、樹液を出し始める寸前、中にたっぷり貯めこんでる、最高の頃合いのやつだ。こいつひとつから、小瓶十本分ぐらいはそういう薬が作れる。棒の先につけてひと舐めで猛烈に効くくらいだから、もっと小分けしてもいい。どうやっても、全部あっという間に売れる。
ただもちろん、サルどもにとって大事なものだから、厳重に守ってる。こいつのある木に巣を作るからな。なので手に入れるのはすごく難しい。
それを、このご主人さまは、どうやったのか、あっさり手に入れてきたってわけだ。
ちっちゃい子にロバを使わせるのに十分な支払いだ。
人を色に迷わせるものを使ったから、色仕掛けってわけさ!」
ゾルカンは種明かししてくれると、また豪快に笑った。
「……私が説明してやりたかったのに」
「それまで散々焦らして、お嬢ちゃんをそわそわさせ続けるんだろ? 意地悪しちゃいけねえよ。悪いご主人さまだねえ」
「………………」
カルナリアはとりあえず、ぼろ布に正面から拳を突きこんだ。
悪かったと思っているのか、防がず、受けてくれた。
少しぐえっと声が聞こえた。
(あの木の上の気配、魔力は、このひとだったのですね。『流星』で駆け上がって、認識阻害の布でサルたちをごまかして採ってきたというところでしょうか)
自分をセルイたちから引き離すために、わざわざやってくれたことだと思えば、それ以上怒りを向けるのもできかねた。
「……ありがとうございます。使わせていただきます」
「おとなしいそうだから、問題ないだろう。不安なら乗り方のコツを教わっておけ」
「はい、多分、大丈夫です」
馬に乗れることを披露するかどうか、前に悩んだことを思い出した。
亜馬に挨拶し、撫でて、嫌われていないか確認。
その上で、自分だけでまたがった。あぶみはないが何とかなった。
「いけそうだな。……では、頼む」
フィンは、亜馬隊および周囲の案内人たちに声をかけた。
彼らは客には話しかけないが、小さくうなずいてはくれた。
昼食を兼ねた休憩が終わり、隊列は動き出す。
朝と同じ、牛の獣人、亜馬隊、客の順。
カルナリアおよびまたがる亜馬は、亜馬隊の最後尾、すなわち客たちの前。
「なぜあんな奴隷が」
モンリークの声が後ろから聞こえた。
ほとんどの客が疑問に思っているようで、居心地の悪い思いをする。
自分と客たちの間に、ゾルカンと数人の戦闘系案内人がいるので、近づいてくることはないが……。
自分だけ呼ばれた際、エンフが何とかすると言っていたのは、この特別扱いについて周囲を納得させるという意味だったのかもしれない。
しかし、自分の足で歩かなくていいというのは、正直言って、大変ありがたくはあった。
セルイたちと距離が空いたのもありがたかった。
ただ、エンフのように話し相手になってくれる者がおらず、押し黙ったまま移動し続けるというのは寂しい。
フィンは、またしてもどこかへ消えてしまった。
「好きにさせておけば、役に立ってくれるってのは、本当だったんだな」
亜馬を誘導する、あのダンという案内人が声をかけてきた。
目つきがいやらしい。カルナリアを通してフィンとお近づきになりたいという欲望がダダ漏れだ。少なくともカルナリアにはそう見える。
「……膝の具合、よろしいのですか?」
だから、言ってやった。
ゾルカンがすぐ寄ってきてダンの肘を棒で打った。
実際に、ダンの右肩に羽根の目印はなかった。亜馬担当なので客と口をきくことはない立場。
「嬢ちゃん、よくやった」
「ありがとうございます」
ダンは肘を押さえてしびれにひぃひぃ言いながらゾルカンに詫び、それ以降はもう関わってこなかった。
……山道を、黙々と進み続ける。
亜馬は本当におとなしく、ひたすら前を行く仲間についていくだけで、操る必要はまったくなく、カルナリアはすることが何もなかった。
なので、紐を手にして、ギーに教わった色々な結び方を練習し始める。目をつぶってでもできるようになれ、と言われた。前にフィンが熊の掌を縛り、ぶら下げるようにした、あれが自分でもできるようになるのが理想。
しかしやはり、寂しくなってきた。
ダンでもいいから、話しかけてくれないものかと思うようになった。
ただ、客たちの後ろの方を歩いていた時はわからなかった、案内人たちの動きが見えるのは面白い。
偵察の者たちが、山道の先に姿を見せ、腕で丸を作ったり、左右別々に上げたりする。
時々戻ってきて、ゾルカンに直接報告する者もいる。ゾルカンは何か言い、時には周囲の者と相談し、指示を出す。
あの豹の獣人、ギャオルと言ったか、先ほどの昼休憩の時には姿が見えなかった彼が、音もなく横合いから現れた。
「ギャッ!?」
カルナリアではなく、ギャオルの方が悲鳴を上げた。
「なっ、なんでっ!? キシャーーーー!」
叫ぶなり、またあらゆる毛を逆立て、威嚇しながら猛烈に周囲を警戒する。
ギャオルの首から下は人間のものだが、その人の手も、獣のように爪をむく形になった。その爪は鋭く、長かった。服を脱いだらもっとあちこちに獣らしさがあるのかもしれない。
カルナリアがこの位置に置かれたことを知らなければ、仕方のない反応ではある。
「あ、あのっ、膝がっ!」
たっぷりむき出された牙がとてつもなく恐ろしかったが、とにかくカルナリアは言った。右肩に羽根はなかったので。
この獣人になりすませる者がいるとも思えないが、別な獣人だったら判別できる自信はない。
正解で、ギャオルもまたゾルカンに小突かれた――が。
「で、何だ。まさか今ので頭から抜けてたりしないだろうな」
「あ、ああ…………ツノどもがいる。沢向こう。群れ」
「む」
ゾルカンはすぐに止まれと言った。
全員がぴたりと停止した。
客の反応は遅れたが、何とか早めに動きを止める。
ギャオルを含む戦闘系の案内人たちが数人、影のように前方へ移動していって、道の向こうに消えた。
振り向くと――セルイたちが、モンリークのいる班のところに進んできていた。彼がわめいたら即座に黙らせる役割を依頼されたのだろう。貴族相手に、彼らは嬉々として容赦なく振る舞うこと間違いなし。
ギャオルの反応からして、近くにはフィンはいない。
「あの…………何が……」
小声でカルナリアは聞き、ふと気がつき、亜馬から降りた。
緊急事態なら、これにまたがったままではとっさの動きができない。
いい判断だ、とゾルカンは目で言ってくれた。
「魔獣だ」
「!」
「すぐ襲われるってわけじゃない。だが油断はできん」
「どういうものですか」
「黙れ」
厳しく言うなり、ゾルカンは前方へ目をやった。
案内人が現れ、何かやや複雑な手振りをしてみせた。
「よし、移動開始。ただし、いいと言うまでしゃべるな」
ゾルカンの指示が、案内人たちの伝言ですぐ広がってゆく。
客たちにつく班長が、それぞれに念を押しているのがかすかに聞こえた。
カルナリアも、亜馬の手綱を引き、歩いたまま移動した。
どんなものがいるのか、緊張しながら登り道をゆくと――。
沢に出た。
谷というほど深くはないが、Uの字に地面がえぐられ、下を小さな川が流れている。
その斜面の、向こう側に、動くものがいた。
太い胴体と短い脚の四足獣。
大きい。前に追いかけられたあの熊と同じか、それ以上。
毛皮ではなく、見るからに硬そうな表皮に全身が包まれている。
その頭部に、鋭く長い、見るからに危険とわかる角が一本、太く長く突き出していた。
一角獣とでもいうべきそれが、十数頭、まとまってゆっくり移動している。
カルナリアは野生動物の存在感、大きさ、迫力に仰天し――。
そしてまた、獣ではなく魔獣という意味を理解した。
(魔力持ってます!)
これまで接してきた動物たち――馬やこの亜馬、王宮に献上された妙な動物、あるいは遭遇した熊、猫背の男が連れていた犬など……それらとはまったく違い、その獣たちからは、はっきりと魔力が感じられた。
魔獣。
魔力ある草木を食べたり、魔力の濃い土地に棲息したりして、体内に魔力を宿し、それによって通常の獣にはあり得ない体組織や形状を得たり、特異な攻撃方法を発揮したりするもの。
あの一角獣の場合は、角にはっきりと魔力を感じる。
鋭いその角は、恐らく、通常の物質と違う威力を発揮することだろう。
「ありがてえ、向こう側だ」
ゾルカンがつぶやき、静かに前進を指示した。
「あれは、何なのですか」
できるだけ小さい声で訊ねる。
「角豚。草でも肉でも何でも食うやつだ。もちろん人も。斜面の上から駆け下りてきて、あの角で獲物を突き殺す」
ゾルカンも小声で答えてくれた。
「動きは遅いし腹が柔らかいんで割と楽に対処できるんだが、駆け下りてくる時だけはどうしようもねえ。上を取られてたらやばかったが、これなら大丈夫だ」
確かに、あの大きな体が斜面の上から突進してきたら、大盾をかまえた重装騎士でも防げるかどうか。
この隊列も蹂躙されてしまうだろう。
だが沢の向こう側にいるのなら、それほどの脅威ではないようだ。
向こうも、こちらを警戒してはいるものの、襲うつもりはないようで、このままやり過ごせそう。
――が。
突然、沢向こうの角豚たちが、ブモォォォォと野太い声を張り上げ、角を宙に突き上げた。
そして群れ全体が一気に沢を駆け下り――地響き、地面に角を突き刺してしまい動けなくなった個体がいくつか――しかし無事だった角豚は、そのまま……!
「上がってくるぞ!」
「走れ!」
案内人たちの声が飛び、亜馬にも鋭い声、鞭の音、猛然と動き出す脚、引っ張って走る者たち……。
カルナリアも、地響きの中、全力で脚を動かした。
背後で客たちの悲鳴が聞こえてくる。
女性、子供の声も。
「お頭! こいつを落とします!」
先行していた戦闘担当者たちが、道の上側にある岩にとりついていた。
総出で持ち上げ、転がり落とす狙い。
「おう! 全員、ここより向こう側へ、急げ!」
ゾルカンはそこで止まって、後から来るものを叱咤し続けた。
カルナリアは気にしつつもとにかく先へ行く。道には幅があるわけではないので、止まってしまうと後ろの者が危険にさらされる。
「ひぃぃぃ!」
モンリークの裏返った悲鳴が聞こえた。
急いだ先の、横に空き地があって、亜馬はそこへやられて、案内人たちは総出で客を手助けしゾルカンのいるところより先へ急がせた。
「よし! やれ!」
合図と共に、岩が落とされ、道に落下した。
その向こうから、角豚たちのブヒ、モフッという声が聞こえてきたが……。
ほどなくして、収まり、あきらめて移動し始めた気配がして。
「…………行った」
俊敏に木に登っていた獣人ギャオルが、そう報告してきた。
「はあぁぁぁぁぁぁ……」
客たちは息をつき、へたりこむ。
ゾルカンが、案内人たちから報告を聞いていた。
どうやら、客の最後尾の、さらに後ろにいた犬獣人バウワウとほか数人が取り残されたらしいが、無事ではあり、角豚の群れをやり過ごし次第合流してくるとのこと。
耳にしたカルナリアはほっとした。犠牲者は出なかったのだ。
「しかし、解せねえ。何でいきなり襲ってきた?」
ゾルカンは――客たちを見回すと、セルイ、いやファラの所へやってきた。
ファラはフード付きマントでほとんど全身を覆っている。
だが杖を持っている。魔導師の杖は大抵魔法具だ。
「悪い、魔導師の姉ちゃん。魔獣ってのは、人でも物でも、魔力の強いのを狙ってくるんだ。あんたが一番怪しい。その布は魔力を隠すって聞いてるけど、大丈夫なのかい。その杖も。まずいようなら何か手を考えなきゃならん」
「んー、これは、いくらでも試してもらっていいっすけど、優れもんっすよー。あのブタさんたちのすぐ近くに行っても気づかれないはずっす」
「それは聞いてる。だが俺の立場では、確認しとかないとな。あの距離で角豚が狙ってくるなんて、それだけのものを誰かが持ってるのは間違いないんだ」
「あ~~、はい、協力するっす」
ファラは従順に言うと――ゾルカンの体越しに、カルナリアを意味ありげに見てきた。
背筋が冷たくなった。
魔獣は強い魔力を察知し、狙ってくるものだというのなら。
今のは、明らかに、とても強い魔力を持つもの…………この『王の冠』を感知してのこと!
危険な獣との初遭遇。ちなみに斜面の上から突撃されていたら、半数以上がやられていた。グライルの獣を舐めてはならない。そして魔獣を呼び寄せてしまったかもしれないカルナリアはどうごまかす。次回第118話「持ち物検査」。検査されるとまずそうな者がカルナリア以外にもうひとり……
※本文中で解説されないことの補足
○ゴルトン
角の生えた野生の豚。グライルの中ではどちらかといえば食われる側だが、斜面の上から群れで突撃することで大物を仕留めることもある。勢いをつけすぎて地面に角を深々と差しこんでしまって絶命する個体もよく出る。繁殖力は強いがそれで死ぬものが多いことで個体数は調整されている。
鋭利な角は硬い割りに軽く、入手することができれば工芸品あるいは防具の材料として珍重される。
肉は非常に美味。
○「亜馬」と「ロバ」
ゾルカンが「ロバ」と呼んでいますが、地球の「驢馬」と同じ動物というわけではありません。従って、地の文およびカルナリアの認識としては「馬のような動物の一種」すなわち亜馬、案内人たちはそれをロバと呼んでいる、ということでご了承ください。




