■ゆうの助、走る
毎日投稿予定。
帰り道、ゆうの助の目は輝いていた。今まで鉛のように重かったその足は力強くなっている。ゆうの助は大亀島まで飛ぶことを目標にがんばろうと思った。
「よしっ! やるぞーっ!」
ゆうの助は道ばたで大きな声を出した。すれ違う人々が驚きながら見た。そして次の日から、ゆうの助の修行が始まった。飛行術師範であるユリのお父さんに指導してもらうことになったのはいいのだが、悲しいまでも体力のないゆうの助は、「まずは足腰の鍛錬から始めよ」との指導を受けた。飛行術はとてつもない足の力が必要だ。稽古はひたすら走ることにある。そう、まずは黙々と走り続けるのだ。ゆうの助は来る日も来る日も走り込んだ。時には犬に追いかけられながら、時にはカラスの集団にお尻をつつかれながら、飛行術の稽古に励んだ。師範の指示する走り込みの稽古には決まった目標地点があった。道場を出て長い坂道を上りきったところにある大きな松の木、村はずれの石垣の角、港へと続く道の途中にある古い神社の鳥居。最初のころ、ゆうの助は松の木までたどり着くだけで足がガクガクになった。それが石垣まで届くようになり、やがて鳥居まで一気に走り抜けられるようになった。走り込みの稽古が楽にこなせるようになってきたら、次は実際に飛ぶ練習である。
ある日の早朝、師範はゆうの助を引き連れて、村はずれにある大きな川へとやって来た。港へと続くこの川はかなり浅瀬になっているのだが川幅はずいぶんと長く、大人が歩いて渡るにも大股で50歩はかかるほどだ。師範は川の対岸を眺めながら言った。
「今日はこの川を十歩以内で飛び越えてみよ」
ゆうの助は「はい」と短く返事をし、助走をつけて川に向かって走り出した。一歩目、浅瀬の川底を足がとらえ、力強く跳ねることができた。二歩目、三歩めも勢いは止まらない。しかし、4歩目で川底のぐらついた石に足をとられバランスを崩して転んでしまった。ずぶぬれになったゆうの助は元いた川岸に戻り再度川飛びに挑戦した。しばらくは何度やっても失敗したのだが、お昼を過ぎたころになってから川底の小石を蹴る感覚が何となく分かるようになってきた。そして、不思議なことに、川底を蹴るというよりも川の水面をはねているような不思議な感覚が足先に伝わる。と同時に、一歩づつ飛ぶ距離が信じられないほど長くなってきたことに気がつく。川飛びの稽古は休むことなく続けられ夕方近くなった頃には、十歩で対岸へたどり着けるようになっていた。気をよくしたゆうの助はそのあとも川飛びを続ける。そして日も沈もうとした時、ついに五歩でこの大きな川を飛び越えた。師範がぼそりと言う。
「及第じゃ」
それだけだった。しかしゆうの助には、それで十分だった。
ゆうの助の修業は続く。村から少し山奥にはいると、険しい山々が連なっている。その山々を上り、降り、さらに上り、ひたすら走り込んだ。崖づたいの道を走るときは注意が必要だ。ちょっとでも雨が降ると、緩くなった山道はすぐに崩れ、崖の下へと真っ逆さまに落ちてしまう。ゆうの助は途中雨が降りそうになると急いで山から駆け下りた。雲行きの悪い日は、もっぱら港沿いの道を走った。ただ、ひたすらに走りつづけた。そして、そのゆうの助を陰から見守る人がいた。サヨリだ。サヨリは、あの相撲大会の日以来ゆうの助に元気がないことを知っていた。学校でも一人しょんぼり外を眺めていた。そんなゆうの助を見て心配でたまらなかった。でも、どうしても声をかけてやることができなかった。落ち込んでいるゆうの助にどう声を掛けて上げればいいのかわからなかったのだ。
ゆうの助は毎日のように、学校から帰るとすぐ走り込みの練習をしていた。それをサヨリが気がついたのは、つい最近のことだった。サヨリが雨の中お使いをしていると、雨合羽を着て走っている人とすれ違った。すれ違いざま横顔がちらっと見えた。ゆうの助だ。それからというもの、サヨリはいつも同じ場所でゆうの助が来るのを待っていた。声をかけたかった。何度もそう思った。しかし、走ってくるゆうの助の顔を見るたびに、サヨリの足は動かなくなる。あの相撲大会の日、神社ののき下で目を覚ましたゆうの助に、自分は何も言えなかった。困った顔をして、逃げるようにその場を去ってしまったのだ。あの時のことを、サヨリはずっと後悔していた。だから余計に、どう声をかけていいのかわからなかった。ゆうの助が走り去った後、サヨリはいつもその場にしばらくたたずんでいた。それから、ゆっくりとした足取りで家に帰った。なにごとにも鈍いゆうの助は、そんなことなど全く気づかずに走り込みを続けた。
ある日の夕暮れ時、稽古を終えたゆうの助が道場に戻ると、師範が一人で縁側に腰を下ろしていた。夏の暑さも少し穏やかになり始めており、夕風が心地よくひやりと首筋をなでる。師範はゆうの助に気づくと、隣に座るよう顎でしゃくった。
「ゆうの助君。一つ聞いてもいいか」
「はい」
「キミは今年の夏の終わりごろ十三になるんじゃったな」
ゆうの助は黙ってうなずいた。師範はしばらく遠くの山を眺めていた。
「わしが最後に飛んだのも、小学校最後の夏の日の朝じゃった」
師範の声は静かで、怒ってもなく、悲しんでもなかった。ただ、事実を話しているだけのような口調だった。
「その日の朝は、よく晴れておってな。地面を蹴った瞬間、いつもと違うとわかった。空高く飛べたと思ったのもつかの間、体が言うことを聞かんかった。そのまま、落ちた。それだけじゃ」
ゆうの助は何も言えなかった。
「『悔しかったか?』と聞きたそうなそぶりじゃな」
師範は少し笑った。
「ああ、悔しかったとも。じゃがな、あの朝飛んだことは一生忘れん。飛べた、という事実は誰にも奪えんのじゃ」
夕風がまた吹いた。師範は静かに立ち上がり、道場の奥へと戻っていった。ゆうの助はしばらく一人で縁側に座り、ふと見ると遠くの山の端が、茜色に染まっている。次の日から、ゆうの助の稽古は今まで以上、力強く激しさを増していった。
学校では、サヨリは学校が終わるといつも忙しそうに帰っていった。太が、サヨリに「一緒に帰ろう」と誘ってもいつも断られる。気になった太は、ある日、下校時サヨリの後をつけていった。サヨリが港の近くの十字路にさしかかったところでふと立ち止まり木の陰に隠れるのが見えた。サヨリは誰かを待っている様子だ。太はそばの塀の陰からそんなサヨリをじっとのぞいていた。しばらくするとサヨリの見つめる先に誰かが走ってきたのが分かった。ゆうの助だった。
(なんだー! そういうことだったのか。サヨリちゃんはあんなヤツを気にかけていたのか!?)
太はその大きな拳を握りしめながら心の中で叫んだ。しかし、太の胸の奥にはもう一つ、別のものがあった。ゆうの助の走る姿だ。あのへなちょこが、毎日あんなに必死に走っている。一生懸命走っているゆうの助と、それを静かに見守っているサヨリ。太の胸の中に言いしれない熱いものが沸き起こってきた。
それからというもの、太の邪魔が始まった。ゆうの助はいつも同じ道を走っている。相撲会場がある神社の横道は少し狭くなっていて、道ばたには大きな木が立っていた。太はそこでゆうの助がくるのを待ち伏せする。そしてしばらくもたたないうちに、いつものようにゆうの助がやってきた。ゆうの助が大きな木のそばを通り過ぎようとしたとき、太がその陰から行く手をふさぐ様に飛び出してきた。
「おう、ゆうの助。何やってんだよ」
ゆうの助は何も言わず太の横を通り過ぎようとした。が、次の瞬間、ゆうの助は勢いよくすっ転んでしまった。太が足を引っ掛けたのである。ゆうの助は砂利道にほっぺを思いっきりすりつけてはいつくばった。鉄臭い痛みが口の中から染み出す。太は埃を払うように丸太ん棒の様な足をはたきながら、ニヤニヤとゆうの助を見下ろしている。ゆうの助は、口の中に入った砂利をぬぐいながら頭を持ち上げ、口をぎゅっと結んだ。しかし、ゆうの助はゆっくりと立ち上がり何も言わず走っていった。太はその背中をじっと見ていた。転んでも、また走っていく。その背中が、なぜか太には直視できなかった。太はちっと舌打ちをして、顔をそらした。それからも太の邪魔は続いた。遠くから石を投げつけられたりもした。犬をけしかけられたときは血相を変えて走って逃げた。おかげでその日の練習はぐったりと疲れ果ててしまった。それからというもの、ゆうの助は太の邪魔が入っても、「これも自分の力になる」と考えて、気にせず黙々と走り続けた。
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