第四景 防護無線、発報
ピレネートンネルを抜けてフランス内に入った頃、列車の背後を照りつけていた太陽は既に沈み、当たりは暗闇が支配していた。田園地帯では街灯すらない場所もあるので、列車の前照灯を除けば、明かりは何もなかった。単調な直線路線が続く中、脳裏に今朝の出来事が浮かぶ。
あの男は言った。俺を待ち続けていた、と。サルヴァドーロにすれば非常に不可解な言葉だった。自分は世界鉄道内外に、それほど多くの知人を作っていない。見知らぬ人間に捜索されるなどということはましてない。だが、あの男は俺を待っていた。
この世界で、誰が自分を待っていてくれなどするのだろうか?
頭に、故郷、という言葉が浮かんだ。だが、サルヴァドーロは直ぐにその可能性を消去した。父親、母親、といった、自分の口に馴染まない言葉も呟いてみた。うつろに響くその言葉は、儚く虚空に消えていく。首を振る。期待しても、肩透かしを食らうだけだ。その時の寂しさがどんなに長く辛いものかは、これまでの人生で身に染みる程感じてきたはずなのだ。
考えるのに夢中になっていたサルヴァドーロの耳に、突然甲高い警報音が飛び込んできた。我に返り、目の前の信号が赤色になっているのに気づくと、すぐに急ブレーキをかけた。列車は左右に揺れながら速度を下げて、信号から大幅に前進して停車した。
サルヴァドーロは落ち着かなかった。信号機に気づかず冒進することは、今まで一度もなかった。急停車のせいで、車内でカートのコーヒーが床に飛び散ったりしてはいないかと心配にもなった。左側の壁にかかった受話器を取る。
「こちら巡礼特急『ペレグリーノ七十八号』運転士です。輸送指令、応答願います。輸送指令、こちら『ペレグリーノ七十八号』運転士……」
しかし、いくら呼んでも、指令員との連絡が取れない。サルヴァドーロは焦りを感じ、手で髪の毛をかきむしった。信号機から大幅に冒進してしまったことだけでなく、列車に遅れを出してしまうと、自分の運転成績にも芳しくない結果をもたらす。五度目の試みで、ようやく無線が繋がった。
「はい、こちらガリア輸送指令所、担当のゴドーです」
「こちら巡礼特急『ペレグリーノ七十八号』運転士です。ゴドー輸送指令、まれにお世話になっております」
「あぁ、いつもお世話になっています。この声は、もしかしてマクジョゼフ運転士ですか?」
「『マツォヨーゼフォ』です」サルヴァドーロは訂正したが、その喋り方に敵意はなかった。ゴドー輸送指令は、サルヴァドーロと一番よく連絡を取り合う指令員だった。「今、防護無線の発報を感知し、第三十一閉塞区間の停止信号を確認したのですが、見誤り、停止位置から四十メートルほど冒進し、停車したところです」
「四十メートルか。マツォヨーゼフォ運転士にしては珍しくオーバーランですね」輸送指令がころころと笑うのを、サルヴァドーロは歯の奥を食いしばったまま黙って聞いていた。「先行列車の連結部分に不具合が見つかって緊急停止したみたいなんですよ。ただでさえ今日はデモでダイヤがぐちゃぐちゃになっているんですけれどねえ」
「これから先、どう運転したら良いでしょうか?」
「取りあえず、暫くそこで待機しておいてください。そのうち、信号が赤から変われば、時速二十キロで徐行運転をお願いします」
「ですが、そうすれば一層列車に遅れが……」
「マツォヨーゼフォ運転士」ゴドー輸送指令は幾分強い調子でサルヴァドーロに話しかけた。「運転士の双肩に、乗客千二百人の命がかかっているんです。もちろん、時間通りに乗客を目的地に届けることは望ましいことです。しかし、それよりも大切なのは、乗客を安全に輸送すること。我々の至上命題はこれです。恐れながら、運転士には蛇足かと思いますが」
「……すみません」サルヴァドーロは唇を噛んで呟いた。「少し、感情的になってしまいました」
「マクジョゼフ運転士は若くて優秀な鉄道員です。ですが、運転士が今まで無事故無遅刻で運転してこられたのが、仮に運転士一人の手柄だと考えているのなら、その考えは改めた方が良いと思いますよ。宜しいでしょうか、マクジョゼフ運転士?」
「……『マツォヨーゼフォ』です」
「まぁ、今のは軽いお説教ですよ」不意にゴドー輸送指令の声が明るくなった。「今回は元々列車が遅延しても仕方ない状況下でしたし、先行列車の故障は運転士のミスではありません。ですから、たとえ遅延したとしても、それで運転士の成績が悪くなるというわけではありませんよ。それでは引き続き、安全運転、頼みますよ。マツォヨーゼフォ運転士」
サルヴァドーロは受話器を置いた。言葉にならない思いが、胸やけのように心の中を蠢いていた。たが、すぐに次の行動を取らなければならない。受話器を取ると、車掌に連絡をした。
「何があったんだ、兄貴?」受話器からジーモンの声が飛び出してきた。
「防護無線の発報を感知した。先行列車の車両に不具合が生じて、緊急停車したらしい。ゴドー輸送指令の指示を得て、信号が変わるまで待機して、その後徐行運転を行うことになった」
「ゴドー輸送指令? ああ、あのちょっとラフな感じの指令員か」
「場合によってはかなりの遅延が出ると思うから、その旨、乗客にアナウンスを頼む」
「了解した」
「なあ……」サルヴァドーロは耳を澄ませる。「……何かお前の周り、騒がしくねえか?」
「え?」ジーモンの声が裏返る。「いや、別に何ともねえよ。いや、何ともねえってことはねえんだけれど、まあ、そのことは後で話すよ。じゃあ、また何かあったらすぐ連絡しろよ?」
ジーモンとの会話を終える。運転室では、先ほどからの高い電子音が鳴り続けている。防護無線は、事故等が発生し列車が動けなくなった際、後続列車による追突等を避けるために用いられるものだ。サルヴァドーロは髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、信号が変わるのを待っていた。ようやく信号が黄色に変わった。サルヴァドーロは溜息をついて、マスコンを引き、列車をゆっくりと動かし始めた。




