第三景 ブルゴス駅
聖ヤコブの巡礼路の中継地点にある町・ブルゴス。趣のある赤レンガの建物の中から、繊細な細工の施された尖塔が顔を出している。ブルゴス大聖堂は、世界鉄道のブルゴス駅からも見ることができた。ジーモンは駅のベンチに座って、夕刻の落ち着いた町並みに響く大聖堂の鐘の音を聴くのが好きだった。ただ、隣で次の列車を一緒に待っているサルヴァドーロは、鐘の音よりも列車の正常な運行に関心があるようだった。
「ブルゴスって、シドっていう、国土回復運動のときにムスリムと戦った英雄の故郷らしいぜ」
「へえ」
「お客さんに訊かれたらそう答えるんだが、正直、俺はブルゴスに行ったことがねえんだよな」
「そう」
「それって何かずるいよな。行ったことがねえのに、さも見てきたかのように話すのってさ」
「まあな」
「……兄貴、今度休み取って一緒に見に行かないか?」
「無理」
「どうして?」
「忙しいから」
「忙しいからこそ、休みを取って力を蓄えるんじゃねえか。金は貯めても有給は溜めるなよ」
「うるせえなあ!」サルヴァドーロは音を立てて手帳を閉じ、唖然としたジーモンを睨んだ。
「デモのせいでただでさえダイヤが狂ってるってのに、これ以上俺の邪魔をするな!」
「……ごめん」ジーモンは素直に謝り、遠慮がちに鐘の音に耳を澄ませた。朝のパリでの出来事がジーモンの頭に残っていたが、今それを切り出せば火に油を注ぐことになるのは必至だった。
やがて、ブルゴス駅に流線型のペレグリーノ号が入場してくる。サルヴァドーロは黙って立ち上がると、ジーモンに声もかけずに運転室へ向かってしまった。ジーモンは面白くなかったが、運転前に集中力を削がれたくないサルヴァドーロの気持ちを汲み、静かに列車に乗った。
出発合図を出そうとしたとき、ふとジーモンは、ホームに立ちすくむ幾人かの子供たちを認めた。ペレグリーノ号の車内を、首を伸ばして眺めている。彼らの左肩を見て、その子供たちが、以前にジョヴァンニが追い立てた子供たちと同じだということに気づいた。「かがみぐさ」が、列車に乗って移動していることは、ジーモンも聞いたことがある。そうであるからこそ、この鉄道に彼らのような流浪の民が形成されたのだから。
ジーモンは不意にホームに降り立ち、軽い足取りで子供たちに近づいた。二メートルの大男が突然自分たちに近づいてきたので、子供たちは血相を変えて逃げ出そうとした。慌てて子供たちを呼び止める。彼なりに、優しい声を作って。
「待て待て、脅かすつもりはねえよ」ジーモンは子供たちに、ペレグリーノ号を指差して言った。「乗ってみたいか、俺の列車に? パリに、帰りたいんだろう?」
子供たちは神妙な顔つきで、ジーモンの言葉を黙って聞いていた。「かがみぐさ」と話すのは、実はジーモンはこれが初めてだった。エスペラントは通じるようだった。人を疑ってかかるほど、すれているわけでもなさそうだ。子供たちの顔に喜びが浮かぶ。
「ほら、早く乗れ。でも、行儀よくするんだぞ」ジーモンは笑顔で子供たちをこっそりと列車に乗せた。最後の一人をドアの前に立たせると、何食わぬ顔で乗降完了の合図をした。列車の扉が静かに閉まった。
興奮して口々に喋り始めた子供たちに、ジーモンは口の前に人差し指を立てて言った。
「良いか。この隣の車両に、コンパートメントがある。予約がキャンセルされて、今は誰も乗っていない。そこに行儀よく座っていろ。良いな? 騒ぐんじゃねえぞ!」
子供たちは大きく頷いた。そして、ジーモンが検札のために車両に入ると、数珠つなぎのように、その後ろにぴったりと張り付いた。ジーモンは自然と顔が綻んだ。清々しい気分だった。
乗客たちは、薄汚れた子供たちに良い顔をしなかった。眉をひそめて、口々に外国語で何かを囁きあう。ジーモンはそれでも気にすることなく検札を続け、子供たちをコンパートメントに連れて行った。
しびれを切らした乗客が、ジーモンから切符を受け取る際に口を開いた。
「すみませんが、あの子たち、どうしてこの列車に乗っているんですか?」
「どうしてって、別にどうだって構わないじゃありませんか」
「その……あの子たちは、ちゃんとお金を払っているんですか? 親は?」
「俺が払いました」ジーモンはきっぱりと言った。「こいつら、俺の甥っ子たちなんです」
「そう……ですか」乗客の顔には疑念が依然として残っていたが、乗客はそこでジーモンを問い詰めるのを諦めた。ジーモンは後ろを振り返って言った。
しかし、ジーモンの目から離れた子供たちは、野に放たれた動物のようにはしゃぎ始めた。超特急に乗るのは初めてだったのだろう。滑るように目の前を過ぎていく車窓に興奮の声を上げ、歓喜に湧く。車内販売のカートの中の売り物全てを掴み取り、座り心地の良い椅子の上で飛び跳ね、スナック菓子を食べ散らかし、コーラのしぶきを四方に飛ばす。挙句の果てには、全車両を使った壮大な鬼ごっこを始めてしまった。通路を歩く乗客に激突したり、列車中のトイレを隠れ場所にしたりと、浮かれ具合は頂点に達した。ジーモンが次に検札のため車内に現れた時には、堪忍袋の緒が切れた乗客がすさまじい剣幕でジーモンに抗議した。
「車掌さん、あの子らをもっときつく注意してくれないか。こっちはもう耐えられないんだ!」
「まあ……お客さんの言いたいことは分かりますけれど、遊び盛りの年頃じゃないですか」
「寝ぼけたこと言わないでください」別の乗客が言った。「こっちは一等車の料金を払って列車に乗っているんです。あの子達はお金を払って乗っているんですか? それも一等車に? いくらあなたが料金を払ったからといって、一等車にはしかるべき乗客が乗るべきです。」
「しかるべき?」ジーモンは目の色を変えて、乗客ににじり寄った。「だったら何だ、お前の横のクソガキは金持ちだから乗って構わねえのかよ? そんな馬鹿げた決まりがあるもんか!」
「クソガキって……乗客の子供に向かって何てひどいことを言うんですか!」
「何を哀れな被害者ぶってんだよ、このババァ!」ジーモンは止まらない。「あんたは同じことをあいつらに向かって言ったんだぜ? あいつらがどうやって毎日生活しているか知っているのか? 食い物や寝床に不自由しながらも健気に生きているあいつらを見て、お前は可哀想だって気持ちさえ浮かばねえのか? お前は血も涙もない悪魔か?」
「ちょっと待ってください」別の乗客が言った。「あの子達は車掌さんの甥っ子さんじゃ……」
「ちげえよ。あいつらはパリで暮らしているみなしごたちさ。俺にとっては甥っ子みたいな奴らだ、って意味だ」
「それはつまり、『かがみぐさ』を乗車させたという理解で宜しいでしょうか?」
「だったら何か文句があるってのかよ?」
ジーモンは乗客の襟首に掴みかかった。乗客たちから血の気が引き、車内は騒然となった。
「今この情勢で『かがみぐさ』を無賃乗車させて、その上こんな盗人猛々しい車掌を雇うなんて、世界鉄道は本当にどうかしています!」乗客はジーモンの太い腕を掴みながら、悲劇の英雄のように声高らかに叫んだ。
「誰が盗人猛々しいって? 兄ちゃん、口だけ達者だと、痛い目見るぜ? 覚悟は良いか?」
その時だ。
乗客の身体を掴んでいたジーモンの腕が軽やかに浮いた。ジーモンの顔から、一瞬にして敵意が消えた。ジーモンは失った平衡を慌てて取り戻そうとしたが、足がもつれて通路に頭から転倒した。乗客が悲鳴を上げた。
列車は甲高い音を立てて、唐突に停車した。惰性で、勢い余って前の椅子に突進した衝突もいた。ジーモンは立ち上がり、急いで無線機に口を当てた。「何があったんだ、兄貴?」




