第二景 アンティペーター・ポスト本社
ロンドンはテムズ川に面する、世界的な金融業の中心地、シティ。高層建築が林立する中に、遠くから一際目立つ、塔のように高いビルがある。銀色の窓に、青空を悠然と漂う雲が反射する。名前は「へロディオン・タワー」。高さ二百十メートル、階数にして五十階。シティで最も高いへロディオン・タワーは、銀行業でその巨万の富を築いたスチーブンソン財閥の中心・スチーブンソン銀行と、その系列にあるアンティペーター・ポストをはじめ、十数もの関連企業が拠点を置く、大実業家スチーブンソン家の活動拠点だ。最上階の五十階には、アンティペーター・ポストの代表取締役である、嫡男フィリップのオフィスがあった。
アフタヌーンティーの時間が終わる頃、フィリップを一人の男が訪ねてきた。帽子を目深に被った男は黙って一通の封筒を机の上に置き、安楽椅子で雑誌を読んでいたフィリップに頷いてみせた。フィリップは葉巻を口に咥え、身体を椅子に預けながら、封を破って中身の文書を読み始める。暗いブロンド髪に手櫛を入れるフィリップの顔に笑い皺が浮かぶ。
「『クォー・ウァディース』」フィリップは語尾に若干の嘲りを残して言った。
「……教養のある『かがみぐさ』とは、形容矛盾も良いところだ」
「グロワール派には、この情報を伏せたままにしておきましょうか」
「いや」フィリップは文書を封筒にしまうと、机の上に放り投げた。「遅かれ早かれ奴らも手に入れる情報だ。むしろ誰よりも先に、こちらから情報提供してしまう方が良いだろう」
「……了解しました」男にはフィリップの答えが意外だったようだ。少し間を置いてから、男は言葉を付け足した。「……社外取締役、一つ宜しいでしょうか」
「もちろん」立ったままの男を、フィリップは笑顔で見上げた。
「欧州連合があのように強い調子で我々を非難するとは、私どもとしても想定外でした。欧州議会に影響力の強いスチーブンソン派を統べるお方として、一つご見解を伺いとうございます」
「つまり、世界鉄道側は我々の怠慢に原因ありとの意見だと理解して良いかな?」
「決してそういう訳ではありません」
「まあ良い、我々に手抜かりがあったのは、明々白々たる事実だ」フィリップは指を組んで胸元に置いた。「無論、国際社会の非難は、我らにとって追い風となりうる。さりながら、ブリュッセルの一件でマリアンヌが辞任に追い込まれるほど、ドラグロワール派も脆くはない。鉄道警察はじめ治安当局は、スチーブンソン派の影響下にあるわけだし、下手にことを大きくすれば責任問題でかえって矢面に立たされかねないからな」
フィリップは膝に置いていた雑誌を拾い上げて、開いたページを男に見せた。アンティペーター・ポストの出版している雑誌の今月号の原稿だった。空前の爆破テロ事件を基に、世界鉄道の暗部を暴露しようとする記事が、ドラグロワール社長の写真を添えて載っている。
「国際世論の支持は必要だ。だが、今の材料では、ドラグロワール派を根こそぎ引き抜くには不充分だ。なら、どうする?」フィリップは口元を不気味に引きつらせて笑顔を作った。「根腐れするほどの大雨を降らせれば良いだけの話だ」
フィリップのオフィスの壁には、セピア色に褪せた写真が飾られている。ブロンドの分厚い髭を頬から顎まで蓄えた大柄の男と、眼鏡をかけた、禿げ頭で痩せぎすの男が握手をしている。フィリップの弟のハロルド・アンディと世界鉄道現社長のマリアンヌの結婚式の際に撮られた、舅同士の写真だ。フィリップは写真の中の男たちと目が合うと、思わず顔をしかめた。
「それでは、いつ頃エトワール宮に」
「早ければ早いほど良い」
「では、明日のパリ行きの『ノルマンディー』号を予約させます」
「念のため一つ訊くが、それは揺れないか?」
「ご安心を。最新鋭の列車ですから、動いていることさえ感じないほどです」
「上出来だ」フィリップは満足げに葉巻をふかした。
「詳細は下の者を通じて連絡する。直ちに行動に移すように」
「御意」
男はフィリップに礼をすると、静かにオフィスを去っていった。フィリップは雑誌に目を落とす。創立五十周年記念式典で演説をする、ドラグロワール社長の凛とした表情が、フィリップの目に留まる。
「マリアンヌ」
徐ろにフィリップは口から葉巻を取ると、力強くドラグロワール社長の顔に押し付けた。
「俺は、親父のような生ぬるい手段は取らないからな。首を洗って待っておけ」
顔写真は葉巻に触れて、茶色く染まり、黒に侵されていく。やがて、誰かも判別がつかないほどに焼け焦げた写真は、大きな丸い穴を開け、煙の中へ消えていってしまった。




