↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/46

第一景 シャン・ド・マルス公園

第二章の始まりです。いつも小説を読んで頂き本当に嬉しいです。どうもありがとうございます。

「すまんな。映画の代わりに早朝トレーニングに付き合わせちまって」


 朝日がセーヌ川に光の粒をこぼす。前方にエッフェル塔が近づき、そよ風が汗ばんだ背中の上を快く滑っていく。河畔を走るジーモンは、汗の雫を散らしながら、隣のジョヴァンニに声をかけた。


「大丈夫。俺も最近ビストロの仕事ばっかりで、身体がなまっていたし」ジョヴァンニは息を上げながらも笑って答えた。「ジーモンこそ、出勤前に走って疲れないのか?」


「ちょっと身体を動かしてからの方が、血の巡りが良くなって仕事が捗るんだ。今日は兄貴と同じシフトじゃねえから、そんなに早めにホームに行かなくても良いし」


「そう言えばさ。先週以来トト、見ていないんだけど、どうだ?」


「特に何も。相変わらず無愛想だ」


「何だそれ。ジーモン、トトと仕事やって長いんだろう? 部屋だって同じだし。トトの勘所を一番よく知っているはずの男じゃないか」


「そのはずなんだがなあ」


 イエナ橋と呼ばれる橋を走って渡る。前方に、エッフェル塔とその足元に広がるシャン・ド・マルス公園が見えてきた。パリ中央駅は、この公園の真下に位置している。


「正直言うとさ」


「何て?」


「正直言うとさ、俺も、兄貴のこと、掴めないっていうか。心開かれてないなって思うときがよくあるんだ」ジーモンの声の張りが弱くなる。「困ったことがあれば何だって助ける気でいるのに、兄貴、いつも面倒くさそうな顔して、俺に当たってくるし」


「でもさ、そう悪態つくのって、信頼の証なんじゃないか? 悪態ついてもこいつは自分を離れないって、信じているわけでさ。トト、そんなことするの、ジーモンに対してだけだろう?」


「何だそのひねくれよう? 俺は直球じゃねえと分からねえっつうの!」

ジョヴァンニは思わず吹き出した。


「何が面白い?」


「いや、だってさ」ジョヴァンニは相好を崩す。「ジーモンってトトのこと、兄貴兄貴って呼んでいるけれどさ、なんだかまるで、ジーモンの方が兄さんぶっていないか? 年頃の弟の扱いに悩まれていらっしゃるお兄様、胸中をご推察致します」


「なっ……」赤くなって、ラストスパートをかけたジョヴァンニの背中を追いかける。


「確かに兄貴は年下だけど、兄貴は運輸区内での俺の先輩であって……」


 突然、前方のジョヴァンニが足を止まった。ジーモンは大声を上げてジョヴァンニの身体に追突した。馬乗りになったジーモンは目くじらを立てて、下のジョヴァンニに怒鳴った。


「俺、急ブレーキかけられねえんだから、急停車はやめろよ!」


「おい、あれ見ろよ……」ジョヴァンニはエッフェル塔の下を指差した。


 ジーモンは目を凝らして前方を睨んだ。テレビカメラやマイクを構えた人々がエッフェル塔の下に集まっている。その奥、シャン・ド・マルス公園で、横断幕を掲げた十数人もの人々が、セーヌ川の方に向かって列をなして歩いてきていた。「世界鉄道は世界から撤退を」「テロ拡散鉄道は即刻解散しろ」など、挑発的なエスペラントがプラカードに並んでいる。


「デモか……?」ジーモンは立ち上がりながら言った。


「それも駅の入口付近で、だ」ジョヴァンニは眉をひそめた。「早く戻った方が良さそうだな」


 ジョヴァンニの予想通り、パリ中央駅では騒ぎが起こっていた。改札口にたくさんのプラカードを掲げた人々が詰めかけ、改札口を防衛する鉄道警察との間で小競り合いが繰り広げられていた。改札口に向かって歩いてくる乗客に、群衆から野次が飛んだ。ホームに火炎瓶が投げ込まれたときは、駅内は一時騒然とした。二人は従業員用通用口から辛うじて駅の中に戻ってきた。


 電光掲示板に、パリ市内の駅の全面封鎖が表示されている。それを証明するかのように、一大ターミナル駅であるこのパリ駅を、特急も各駅停車も、あらゆる列車が徐行して通過していった。二人は立ち尽くす乗客の中に、ジュディの姿を見つけた。


「どうなっているんだ?」ジョヴァンニはジュディの背中に声をかけた。ジュディは驚いて振り向き、二人の姿を認めると、肩をすくめて説明を始めた。


「一昨日、欧州理事会議長が、テロ事件に対する世界鉄道の対応に遺憾の意を表明したでしょう? それを欧州の主要国首脳は事実上黙認。それが、世界鉄道の存在に不満を抱いていた人々を立ち上がらせてしまったみたいなのよ」


「ジュディはどうしてここにいるんだ?」ジーモンが尋ねる。


「シャンゼリゼまで出勤するつもりだったんだけれど、ここで降ろされちゃって。デモ隊がエトワール宮を先に包囲して通行を封鎖したらしいの。ここで暫く待てって言われたんだけれど、そのうちにこっちもこんなことになってしまって……」


 ジョヴァンニとジーモンは顔を見合わせた。


「こんなこと、俺が働き始めてから初めてだぞ?」


「フランスは、グロワール伯のお膝元で、世界鉄道創設に一番尽力した国だから、もともと反対勢力の拡大は抑えられていたんだけどな」ジョヴァンニは顎に手を置いて考えた。「これが長く続けば、客足減退どころじゃなくなるだろうな」


 ジーモンはジョヴァンニとジュディと別れると、駅の事務室に向かい今後の動向について駅員に相談した。巡礼本線の始発は当面ヴェルサイユになり、ヴェルサイユまで従業員を送る臨時列車が出るそうだ。ジーモンはホームで待つことにした。ふと顔を上げると、前方奥のホームに目を留める。サルヴァドーロの姿があったのだ。


 サルヴァドーロは緑色の星のついた紺地の制帽を脱ぐと、しきりに髪の毛をかきむしった。「Extere(きゅう) de(し) servo(ちゅう)」という電光掲示板の表示を憎らしそうに見上げ、手帳を何度もめくる。今日はナントまで出勤し、そこからブルゴスまでを担当する予定だった。時間に余裕を持たせてホームについたが、乗るつもりだった列車はデモの影響で自分の前を素通りしていってしまった。ただ、担当する列車も大幅な遅延で運行されるらしいので、問題はそこまで深刻なわけではない。だが、サルヴァドーロの気分はすぐれない。靴でホームを小刻みに叩きながら、ナントへ一緒に向かう同僚を待っていた。


 ホームには人影が少なかった。サルヴァドーロは顔をしかめながら、落ちるようにベンチに腰掛けた。ドン、と音を立ててベンチが揺れる。その時、近くで小さな呻き声が聞こえた。驚いて後ろを振り向く。


 背中合わせになった後ろのベンチに、男が寝転がっていた。カッターシャツの裾をズボンから出し、よれよれのズボンから穴のあいた靴下を覗かせている。顔を向けたサルヴァドーロの鼻に、つんと酒の臭いが押し寄せ、思わず顔をしかめる。酒臭さは苦手だ。だが、無精ひげを生やして寝息を立てている男に、見覚えがあった。記憶が徐々に整理されていく。この男を知っていた。パリ中央駅では初めてだが、巡礼本線の駅で寝そべる姿を度々見かけたことがある。


 慎重に周囲を見回す。自分に注意を向けている人間は見当たらなかった。そっと、男の肩を揺らしてみる。男の顔が怪しげに青くなる。顔をしかめた男は起き上がると、立ちどころにホームの上に吐いた。サルヴァドーロは思わず目を反らした。


「……大丈夫か……?」


 顔を背けたまま、男にハンカチを持った手を伸ばす。男はうつろな目でハンカチを見つめていたが、やがて黒ずんだ手でハンカチを受け取り、口の周りを丁寧に拭いた。男がハンカチを返そうとしたので、サルヴァドーロは反射的に男の方を向いた。


「それ、やるから、いい」


 サルヴァドーロはそう言ってから、男の顔に浮かんだ変化にようやく気づいた。惚けた目で見ていたはずの男の目に、みるみるうちに生気が戻ってきた。二つの黒い瞳はしっかりとサルヴァドーロを捉えていた。男の手は震え、ハンカチがホームの上に落ちた。男は顔を綻ばせた。目が潤み、赤くなっていく。サルヴァドーロは焦った。


「また……吐くのか?」


 すると男は、驚いたことに、極めて明瞭なエスペラントで彼に語りかけた。


「サルヴァドール……」


 手から手帳が滑り落ちた。サルヴァドーロの目は否応なしに揺れた。


「何で俺の名前を……」


「ようやく見つけました。見つけられました」充血した男の目から涙が溢れてきた。


「ずっと……ずっと貴方を待ち続けておりました。まさかこんなに近くにいらっしゃったなんて……」


「何だよ……何のことだよ……」サルヴァドーロはベンチから立ち上がり、後ずさりをした。男は満面の笑みを浮かべて、サルヴァドーロに続いて立ち上がった。サルヴァドーロは青くなって、息を潜めて男に言った。


「お前……『かがみぐさ』の一員か? それで俺を探しに……」


「私をお覚えでないのも無理もございません。ですが、せめて今の名前だけでも……」


「知らない。お前なんて知らない!」


 男が差し伸べた手を、サルヴァドーロは反射的に制帽で弾き飛ばした。さらにサルヴァドーロに抱きつこうとする男を、サルヴァドーロは思わず押し飛ばした。男はベンチに倒れ込み、そのままホームの上に転がった。


「マクジョゼフ運転士!」


 サルヴァドーロは弾かれたように振り向いた。同僚の訝しげな顔があった。「何かあったのですか?」


 サルヴァドーロは口を開いたが、咄嗟に言葉が出てこなかった。適切なエスペラント単語をど忘れしたとでも思ったのか、同僚はサルヴァドーロの動揺をそれほど気には止めなかった。ホームに寝転がり声を上げて泣く男を説得しながら、同僚は何とか男をベンチの上に座らせた。それから、サルヴァドーロを見上げた。


「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですが」


「……少し、手洗いに行っても構いませんか?」


 同僚は腕時計を見る。「大丈夫です。また時間がありますから、行ってきてください」


「その……別の場所で、待っていていただけませんか。できれば、その男性の傍以外で」


 サルヴァドーロは伏し目がちにそう言うと、男には目もくれず、逃げるように去っていった。

 

 一部始終を遠巻きに見ていたジーモンは、眉をひそめて、サルヴァドーロの横顔を眺めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。