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第五景 駅地下社員寮

今回で第一章が終わります。

 サルヴァドーロは服を脱ぎ捨て、蛇口一杯にひねったシャワーの冷水を頭から被った。パリ中央駅の地下街の奥、「関係者以外立入禁止」の扉の向こうに、従業員用の寮がある。電化製品や生活用具は完備され、大きさもちょうど良く、家賃も手頃だ。パリの一等地の地下にこれ程多く安価な寮を作れるのは、ひとえにこの鉄道を統べるグロワール伯爵家の力によるものと言える。


 シャワーカーテンを引き、洗面所に顔を出す。筋骨隆々としたルームメイトのジーモンとは対照的に、サルヴァドーロは良く言えばバランスよく肉のついた体型だった。サルヴァドーロはバスタオルで髪の水を弾き飛ばしながら、ふと鏡に移った自分の姿を見た。視線がそっとバスルームの扉に向かう。誰も来ない。万引きでもするかのような注意深さで、慎重にバスタオルを左肩から外した。


 オリーブの葉が包む、二本のレール。その先に浮かび上がる、「MMF」の三つの文字。色が薄まってきてはいたが、その刺青は、遠いところからでも充分人目を引くものだった。


 サルヴァドーロは、その刺青を、腫れ物にでも触るようなおぼつかない手つきでなぞる。Mの文字を書ききる前に、サルヴァドーロの手のひらが刺青全体を覆った。鏡に映るサルヴァドーロは、歯を食いしばり、肩の皮を赤くなるほど強くねじっていた。


 左肩を握る右手の力を緩める。そして、鏡に映る無愛想な男と対面した。


 この蒼い瞳は、この世に確かに存在した、二人の人間のどちらからか受け継いだもの。


 この淡い金髪も、この世界のどこかで息づいた、二つの命のどちらからか引き継いだもの。


 ため息が、鏡に映る彼の顔を曇らせた。


 自分は、そのどちらをも知らない。自分の存在は、不確かだ。


 ジーモンは、ビールを飲めば思い出す故郷がある。ジョヴァンニにだって、ジュディにだって、いつでも帰ろうと思えば帰られる郷里がある。でも、自分には。


 自分の居場所は長い間、駅だと思っていた。だが駅は、目的地へ向かう人の波が絶えず流れていく、旅の中継点に過ぎない。最終列車が過ぎれば、死んだように静まり返り、人気がなくなる。それが駅。そこにとどまり暮らす「かがみぐさ」は、淀んだ川面に漂う浮草のような、招かれざる客にすぎないのだろうか。


 先ほどの三人の議論が、サルヴァドーロの頭をかすめた。唇が歪む。左肩から手を離し、雑に着替えを扱いながら服を着る。ふと、コップの横に置かれた、古風な金色の鍵に手が触れる。手で優しく包み込むと、丁寧に首にかけ、鍵の上に手を暫く置いていた。温もりを感じて、気分も少しずつ落ち着いてきた。彼は静かに扉を閉めて、自室に戻った。


 素晴ラシキ世界鉄道では、一切の国家権力の介入が禁止されている。それは同時に、戦争で国を失った難民や、駅に置き去りにされた子供たちが、無国籍者になってしまうことを意味した。無国籍者対策は、世界鉄道の双子の片割れのように、創立以来、今日まで絶えない議論の対象だった。大人の好む婉曲法で、彼らはラテン語で「かがみぐさ(スピロデラ)」と呼ばれるようになった。簡明直裁な表現を使えば、「根無し草」という意味だ。彼らは家族も故郷も持たず、世界鉄道で生活しながら、鉄道で働くことは許されていなかった。


 素晴ラシキ世界鉄道には、大きく二つの派閥がある。一つは、ドラグロワール総社長を中心とするドラグロワール派。もう一つが、スチーブンソン社外取締役を中心とするスチーブンソン派だ。


 ドラグロワール派は、「かがみぐさ」との協調路線を模索しており、かつて、積極的な帰化支援策を掲げたことがある。しかしそれは、国家権力介入禁止条項撤廃を交換条件とする各国の頑迷な外交政策に阻まれ、実を結ばなかった。


 一方のスチーブンソン派は強硬政策を唱道する。彼らは言う。「かがみぐさ」の存在は世界鉄道の治安を悪化させ、路線内をテロリストの活動の格好の温床にしている。従って、「改札口」の管理を徹底して不法侵入を防ぎ、「かがみぐさ」を留置施設へ移送して増加を防ぐべきだ、と。「かがみぐさ」と認定された人間に、世界鉄道の社章の刺青を入れるよう鉄道当局が指示したのも、スチーブンソン側の執拗な要求があってのことだった。今回の爆破テロで、治安強化のために「かがみぐさ」への圧力が一層強くなることは、想像に難くない。


 これまでにも、世界鉄道の存在に疑問を投げかける声はあるにはあった。自国に国家主権の及ばない領域が増えることを快く思う国は無かった。その鉄道の中をあらゆる人が自由に行き来できてしまうことは、国防の点からも問題だった。それでも、反対派が大きな声にならなかったのは、ひとえにグロワール伯爵家の実業界や政界に対する影響力の大きさに依る。ライバルだったイギリスの大財閥スチーブンソン家を世界鉄道の経営陣に取り込むことで、グロワール伯爵家は二家間の抗争に終止符を打った。スチーブンソン家傘下の有力紙により、世界鉄道は国際世論をも支配することができるようになった。世界鉄道の将来は安泰かに見えた。


 変化が起きたのは、数年前に世界を襲った金融危機だった。磐石と思われていたグロワール銀行が破産に追い込まれ、スチーブンソン銀行に買収されてから、世界鉄道内の勢力分布が揺れ動き始めた。スチーブンソン派は声高らかに、世界鉄道内部の改革を求め始めた。世界全土にわたる路線網を一つの鉄道会社で統一的に経営するのは不可能だ。地域の特性に合わせた数々の会社に分裂させ、相互乗り入れを行えば良い。エスペラント習得に割く膨大な研修費を削減し、英語を業務用語にして、初めから英語能力の高い人材を雇用すれば良い。鉄道内に現実路線を敷こうとするスチーブンソン派は、徐々に支持を集めていった。


 今回のテロ事件に際し、当初事態の推移を静観する姿勢を見せていた欧州各国も、世界鉄道の遅々とした対応に明確な不満を示すようになってきた。メディアも、世界鉄道の存在意義、そしてそこで生活する「かがみぐさ」の対応についての議論を取り上げるようになった。いずれも、以前はタブーの領域として忌避されていたものだった。

 

 スチーブンソン家との和解工作に際し、世界鉄道内部には懸念の声が上がったことがある。それは完全な和解をもたらさず、「トロイの木馬」を内に抱えることになるだけだ、と。創立五十周年を迎えて、素晴ラシキ世界鉄道は内外から腐食の危機に晒されていた。


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