第四景 ビストロ「Sex On The Board」
パリ中央駅は地下駅だったが、一応、昼夜の区別というものがある。天井には何百もの鏡が設置され、昼には青空が、夜には星空が投影されて、照明の明るさも変化する。四方の壁からはテラスがホームの方に飛び出していて、広大なターミナル駅を一望できる。テラスに入っているカフェから駅に発着する列車を眺めるのは、旅の合間の一服には好都合だった。
夕方になり、教会の鐘を模したチャイムとともに天井の照明が一段階暗くなる頃、ジーモンは仕事を終えてパリ中央駅に戻ってきた。スポーツバッグを肩に掛け、連絡橋を上ると、そこから通じる駅ビルの中へと向かった。ビストロの扉を開けると、耳に小気味良いイタリアンポップが飛び込んでくる。カウンターにいた短い黒髪のバーテンダーが顔を上げる。
「チャオ、ジーモン。今日はもう上がり?」
「おう」ジーモンはカウンターに腰掛けて、思わず眉をひそめた。厨房に山盛りのホタテが見えたからだ。「……あれ、お前んとこも出すのか?」
「仕方ないよ。そろそろまた巡礼者が増えてくる頃だからね。消費して記念切符を量産しなきゃいけないのさ。ジーモンも食べる?」
「いや、いい。ブレーツェルあるかい、ジョヴァンニ?」
「もちろん、そろそろ来る頃だと思って焼いておいたよ」
「そいつは嬉しいや。それと、ホルステンを一つ」
「了解」ジョヴァンニは頷いて、ジョッキを掴むと、機械の取っ手をぐっとひねる。ジムで鍛えた筋肉がきゅっと膨らむ。機械の蛇口から、金色に光るビールが泡立ちながら注ぎ出るのを見て、ジーモンは満足げに喉を鳴らした。
「今日はトトと一緒じゃないんだな」ジョヴァンニはビールの泡をヘラで拭うと、ジョッキをジーモンに差し出した。トトとはサルヴァドーロのことだ。ジーモンは問いに答えるより先に、サングラスを取ると、ビールに口を埋め、目尻に皺を寄せて溜息をついた。
「そろそろ帰ってくるんじゃねえかな。レオンまで行っているみたいだし」
ジョヴァンニは、ジーモンの顔をまじまじと見つめた。
「結局その顔で仕事に行ったんだ。 よく冷やしておけってあれほど言ったのに」
「兄貴にサングラス借りたから大丈夫さ。ま、この図体だから、ちょっと怖がられたけどよ」
ジーモンが笑うと、シャツをきつく張る胸板も笑った。ジョヴァンニは、ビールを飲むジーモンの目を盗んで、彼の太く膨らんだ二の腕をしげしげと眺めた。ジーモンに気づかれそうになったので、ジョヴァンニは急いで岩塩をまぶした焼きたてのドイツパンを皿に載せた。
「なあ、ジーモン」ブレーツェルを渡しながら、ジョヴァンニが伏し目がちに尋ねる。
「今度の週末さ、レイトショーで俺の好きな監督の話題作が、割と安めで見られるんだ。ジーモンの趣味に合うか分からないけどさ、良かったら一緒に行かないか? そのあと、セーヌ川の河畔を散歩っていうのも悪くないかな」
「何だそれ、デートの誘いか?」ジーモンは笑った。「お前が男好きなのは知っているけどさ、俺はそうじゃねえからなあ。お前モテそうなのに、本当に好きな男いないのか?」
「茶化すな」ジョヴァンニは頑なになる。「そんな底意のある誘いじゃないから。ゲイだったらみんな男狂いだってのは唾棄すべき偏見であって、俺はそんなホモフォビアを……」
「ほらほら、そう真面目に受け止めるなって」ジーモンはジョヴァンニの言葉を制した。「飲み連中とハシゴするって先約があるんだ。すまんが、また誘ってくれ」
ジーモンはそう言って残りのビールを飲み干すと、ジョヴァンニにジョッキを差し出した。ジョヴァンニは肩をすくめてジョッキを受け取る。
ジョヴァンニが二杯目を入れている間、ジーモンは、ビストロを満たすイタリアンポップに乗せてカウンターを人差し指で叩きながら、ビストロの内部を見渡した。ふと琥珀色の鋭い瞳が、窓際に座り新聞を読む男を捕らえた。焦げ茶の太い眉毛がきっと角度を増す。
「おい兄ちゃん」
男が顔を上げるよりも先に右手で男の左肩をぐっとつかみ、左手で男の口からタバコを力ずくで抜き取った。男は反射的にジーモンの右腕を払いのけ、ジーモンを下から突き上げるような目つきで睨みつけた。目の下の傷跡が生々しく浮かぶ。
「馴れ馴れしく触んな」
「なんだその態度は?」ジーモンは男の襟首を掴み上げ、窓に男の身体を打ち付けた。ビストロ内に衝撃が走る。ジョヴァンニは呆れ顔で、クロワッサンを並べるのをやめて言った。
「おい、ジーモン、気をつけろよ。そこのガラス、今週張り替えたばかりなんだ」
「いいかお前、耳穴こじ開けて聞きやがれ」
面倒くさそうに顔を歪める男の鼻先に、煙を立てる吸いかけのタバコを突き立てる。
「世界鉄道は全駅終日禁煙だ。守れねえって言うんなら、サツに突き出すぞ?」
男は蔑んだように鼻で笑う。「……外の人間の俺には関係ないだろうが」
「んだと……?」ジーモンは目をカッと開いて、男を噛み付くような剣幕で睨んだ。
「おいお前ら!」
その時だ。後ろからジョヴァンニの怒鳴り声が聞こえたので、二人は思わず顔を上げた。ジョヴァンニは足音を大きく立ててカウンターを出ると、店の入口に向かう。そこには、土色の肌をした子供たちが立っていて、カウンターのクロワッサンをつぶらな瞳で見つめていた。子供たちの痩せた肩には、黒い刻印が付されていた。ジョヴァンニは壁に立てかけてあった竹箒を持って、子供たちの前で振り回した。子供たちは高い声で叫びながら店先から逃げていく。ジョヴァンニは子供たちが逃げていった方を見て、険しい顔で叫んだ。
「お前らが来ると商売の邪魔なんだよ! 『かがみぐさ』なんてとっとと失せちまえ!」
ジョヴァンニは踵を返すと、溜息をついてカウンターに戻り、洗い物を始めた。ジーモンは顔をしかめた。すると、先に我に返った男の方が、ジーモンの右頬に拳を見事にねじ込んだ。ジーモンの大柄な身体がよろめく。
「……不意打ちとは卑怯!」ジーモンは右頬を抑えながら吠えた。
「だったら大人しく左頬を差し出しな。予告した上で殴ってやるから」
男は溜息をついて、ポケットから汚れたユーロ札を出すと、テーブルに力強く置いた。
「ここに置いておく。釣りはいらない」
ジーモンに向かって鼻で笑う。その手からタバコを抜き取り自分の口に咥えて、店を出る。
「おい待て! 不満があるなら、ここは男らしく決闘だ!」
「決闘?」振り向いた男は怪訝な顔を浮かべた。「お前、何世紀の人間だ?」
「もちろん、剣じゃねえ。拳で勝負だ」ジーモンは自分の右手の二の腕を見せた。「今日、このビストロで、恒例の腕相撲大会が開かれる。お前も参加しないか?」
男が一瞬真顔になる。「……くっだらね」
「な、なら、せめて名前だけでも名乗れ! 俺が挑戦状を叩きつけてやる!」
男は暫く考えた。やがて、放り捨てるように短く言った。「ピラトー」
「俺はジーモン。ジーモン・ブライプトロイ……」
男は立ち止まることなく、大儀そうな足取りで角を曲がってしまった。
「んだあいつ……」
ジーモンは悪態をつきながら、店の中に戻ってきた。店には秩序が戻っていた。ジョヴァンニは男の残したカップを片付けながら、聞こえよがしに呟いた。
「あのお客さん、最近来るようになったんだ。無愛想だけど、迷惑なお客さんじゃないよ」
「ジーモン」名前を呼ばれてジーモンが振り返ると、サルヴァドーロの仏頂面があった。
「さっきお前叫んでなかったか? また騒ぎでも起こしたのかよ?」
「兄貴?」サルヴァドーロの後ろの女性に目を移す。「ジュディも?」
「仕事終わったから来ちゃった」ジュディが笑うと、顔に小さな笑窪が浮かんだ。「邪魔?」
「全然全然、熱烈歓迎だよ。ほら、ここ座りな」
ジーモンは店の中に戻り、自分の左隣の席を叩いて言った。しかし、そこには何食わぬ顔でサルヴァドーロが腰を下ろした。ジーモンは口を尖らしてサルヴァドーロを睨む。ジュディはサルヴァドーロの左隣に座った。流れるようなブロンド髪がふわりと跳ねる。
「髪、切った?」ジュディがサルヴァドーロに囁く。
「ん……ああ」思い出したように自分の髪を触る。「先週だけど。それが?」
「似合っているよ」ジュディは莞爾として笑う。
「エトワール宮は今不夜城って噂だけど。何飲む?」ジョヴァンニは後から来た二人に尋ねる。エトワール宮とは、シャンゼリゼ通りにある世界鉄道総本社と欧州支社のことだ。
「私の部署は、そんなに忙しくないのよ。あ、私、『トロイの木馬』で」
「何だ、異動希望先、通らなかったのか? 同期一のインテリを差し置いて、誰が欧州連合局に行くって言うんだよ?」
「もうやめてよ、ジーモン。買いかぶりすぎ」ジュディは同期一の力自慢を淡い碧眼で優しく睨んだ。ジーモンは思わず唾を飲み込んだ。
「トトは何を飲む?」
「オレンジジュース」
「いい加減アルコールデビューしたらどうだい、トト?」
「どこかの誰かみたいに二日酔いにでもなったら、翌日の運転に支障が出るだろう。運転士は千人以上の乗客の命を預かってんだからよ」
ジーモンは黙ってブレーツェルを貪っている。
「サルヴァドーロは働き過ぎなのよ。もう少しお休み取ったら良いのに」
「そうだとも。名前をエスペラント式に変えてまでして、上に尻尾を振ることはないじゃないか」ジョヴァンニはオレンジジュースをサルヴァドーロに手渡す。
「別に媚を売っているわけじゃねえよ。……何だか、『サルヴァドール・マクジョゼフ』なんて名前、何かしっくりこないというか、肌に合わないというか」
「……本名なのに?」ジュディの疑問に、サルヴァドーロは思わず口ごもる。
「それだけ兄貴の両親が熱心にエスペラントを教えたのさ」ジーモンはジョッキを受け取ると、一気に半分まで飲み干し、満足げに溜息をついた。「んー、旨い。やっぱりビールはホルステンだよな。これを飲むとハンブルクの港を思い出すぜ」
「そんなに恋しいなら、ルテティアじゃなくてゲルマニア運輸区を志望すれば良かったのに」
「分かってないな」ジュディの言葉に、ジーモンは指を左右に動かして言った。「故郷はいつだって帰ろうと思えれば帰れるだろう? だから仕事場は敢えて別の場所にする。そうすれば何の気にも止めていなかったことも懐かしくなって、故郷の良さが分かるって訳なんだ」
「ジーモンの言うとおりかもな。俺もイタリアに帰ると、いつもホッとするんだ。ここが俺の居場所なんだな、って」ジョヴァンニが頷く。
「だから、たまにはイギリスに帰ってあげたら?」こっそりとジュディがサルヴァドーロに耳打ちした。サルヴァドーロはジュディの方を向かず、むっつりとしてジュースを飲んでいた。
壁際の席の上に吊るされたテレビが、ニュース番組に変わる。客たちが何気なく視線をテレビに向ける。画面には、原型をとどめないほどに破壊された電気機関車の写真が映し出された。ジョヴァンニは黒ビールの入ったグラスにコーラを注ぎ込み、手際よくかき混ぜる。サルヴァドーロはテレビ画面ではなく、ジョヴァンニの手許に目を向けた。
「今日のトップも、ブリュッセルの爆破テロか」ジーモンは画面を見ながらビールを飲んだ。
「世界鉄道史上前例のない事件だしね。俺もパリなんかでのうのうとビストロ開いていて良いのかな。ベルギーって隣の国じゃないか……はい、お待たせ」ジョヴァンニはジュディにグラスを渡した。「しかも、テロリストは世界鉄道内部を拠点にして活動している可能性が高いって話じゃないか。どうせろくでもない『かがみぐさ』どもの仕業さ。政務部で、何か新しい情報は掴んでいないのか?」
「そうに違いないけれど、私、まだ核の部分に関わるほど高いポストについているわけではないの。勤務七年目でもせいぜい課長の補佐。だから、私の知っていることっていうのも、マスコミに出ていることぐらいしかないのよ」
「マジで?」
ジーモンが突然叫んだ。ジュディの言葉ではなく、テレビ画面の方にだった。テレビ画面には欧州理事会議長の記者会見が映っている。アナウンサーはエスペラントで話した。
「――議長はこのように述べ、世界鉄道が本テロ事件に対し迅速かつ適切な対応をとらない場合は、安全上の点から、沿線国に改札口の全面封鎖を呼びかけることを示唆しました」
「改札口封鎖っていうのは、要するに国境封鎖ってことだろう? 篭城戦に持ち込む気か?」
「欧州連合局は忙しくなりそうね」他人事のような口調の中に、羨望が見え隠れする。
「全く、何てこった。馬鹿の『かがみぐさ』が勝手に暴れたせいで、自分たちのどころか俺たちの首まで絞めやがって」
そう言ってジョヴァンニは、ジーモンに険しい顔で自分を睨まれているのに気づいた。
「どうしたんだい、何だか物騒な顔しているけど」ジョヴァンニが言う。
ジーモンは、店の入口に貼られた「かがみぐさと犬はお断り」の張り紙に目を向けた。
「一つ訊くが、『かがみぐさ』の奴らがお前に何したって言うんだ?」
サルヴァドーロはグラスから口を離した。
「別に」ジョヴァンニは涼しい顔で言った。「不潔で無礼で無学だし、駅にごろごろ転がっていると治安にも景観にも良くない。邪魔に感じているから嫌っているだけのことさ」
「少しでもあいつらに同情はできねえのか? お前だって嫌な思いしたことはあるだろう?」
「何だそれ、マイノリティは誰にでも負い目を感じろって言いたい口調だな?」
「そうじゃねえ」ジーモンは声を荒げる。「あいつらは好きで鉄道にいるわけじゃねえ。親もいねえ、国もねえ、行くあてがなくてここにいるんだ。なのに警察やお前らは害虫を追い払うかのようにあいつらを扱う。あいつらを『可哀想だ』って思う良心がお前にはねえのか?」
サルヴァドーロは徐ろに髪の毛をかきむしった。
「ジーモン、冷静に考えろ。『かがみぐさ』を餌付けでもしたら、鉄道警察が黙ってなんかいないだろう?」ジョヴァンニはジュディに向き直った。
「ジュディも何か言ってくれよ!」
「私?」ジュディは自分を指差し、目を泳がせた。
「その……何と言うか、一刀両断に判断できる問題じゃないと思うの。彼らがこの鉄道に住み着いたことについては、元を辿れば、路線内の無国籍原則を定めた世界鉄道側にも責任があるし。かといって、無国籍者の増加を容認するのは、国際法の流れにも反するし。駅上生活者が増えれば治安が悪くなる可能性があるのは確かだと思うけれど、かといって彼らを一概に敵視するべきではないし」
「よ、要するに……どういうことだ?」ジーモンが頭を抱えながら尋ねる。
「つまり、『かがみぐさ』への対処については、政務部内でも意見が分かれていて……」
大きな音を立てて、サルヴァドーロがグラスをカウンターに振り落とす。ジュディたちは驚いてサルヴァドーロを見た。グラスの中では、まだオレンジジュースが激しく波立っていた。サルヴァドーロはグラスを無表情で見ながら言った。
「要は、中立ぶっていて、結局思考停止に陥っているってだけだろ。いや、思考拒否って言った方が的確か」
ジュディは弾かれたようにサルヴァドーロの横顔を見た。
「そういうつもりじゃ……」
「何だトト、いきなり?」ジョヴァンニはグラスを洗う手を思わず止める。
「別に。話題に飽きただけ」サルヴァドーロは立ち上がる。
「おい……どこに行くんだ、兄貴?」ジーモンは驚いてサルヴァドーロの前に立ちはだかる。
「なら俺も訊くけどさ」サルヴァドーロはジーモンを見据えた。「俺はどこに行けばいい?」
ジーモンはサルヴァドーロの不意打ちの問いに、声が出なかった。
「今日は疲れた。先、帰る」低い声でジーモンに告げる。「そこ、どけ」
サルヴァドーロは無造作にユーロ札を置くと、三人の誰にも顔を向けずに、店から出て行った。三人は唖然として、彼が残した気まずい余韻の中に佇んでいた。




