第五景 兄貴分と弟分
列車は三十分遅れで、通過命令の解除されたパリ中央駅に戻ってきた。到着直後に、車内を騒がせた子供たちは、ジーモンに礼の一つ言うこともなく、パリ駅の雑踏の中に隠れてしまった。乗客は次々にジーモンたち車掌や運転士のサルヴァドーロ、パリ中央駅の駅員に、世界鉄道の待遇の悪さについて抗議した。我に返ったジーモンが平謝りをして、駅員たちも懸命に乗客たちを宥めたため、どうにか事態はある程度の収束を迎えるに至った。
「兄貴」二人の部屋に戻ってきてから、ジーモンはしおたれた声で、サルヴァドーロに謝った。「本当に、すまん。兄貴にまで迷惑をかけちまって。本当に、本当に、申し訳ねえ」
大男のジーモンが、幾分小ぶりに見える。ジーモンが顔を上げた。サルヴァドーロはジーモンの方を振り向き、その際にジーモンの右頬を思いっきり殴った。
ジーモンは黙って、サルヴァドーロに左頬を見せる。
「気が済むまで殴ってくれ。俺、慣れているから、手加減するな」
「お前……自分のしたこと、後悔しているのか?」
「全然」ジーモンははっきり言った。
「どうしてだ?」
「俺のしたことは、間違っていねえと思うから」
「なぜそう思える」
「なぜかって……」ジーモンはサルヴァドーロを驚きの表情で見返した。「だってあいつら、『かがみぐさ』のこと、馬鹿にしたんだぜ? 『かがみぐさ』が『かがみぐさ』だからっていうだけの理由で。それって、おかしくねえか? ひどくねえか? 個人を見ねえで集団だけを見て、先入観だけで人を判断する奴って、俺、絶対に許せねえ」
「それでお前は、乗車マナーなんててんで知らない子供たちを見て、どうして叱らなかった」
「どうしてって……仕方ねえだろう? あいつら、そんなに列車に乗り慣れていねえんだろうし。それに、パリから迷ってブルゴスまで行っちまったんだぜ? 困っている奴を見たら、兄貴も不憫に思って助けようって思うだろう? それが、人間らしい人間のやることだろう?」
「なるほどな」サルヴァドーロはジーモンを睨み返して、低い声で言った。「それでお前は英雄気取りってことか。さぞかし気分が良かったことだろうな。だが実際、常識を知らないあんな奴らが野放図に振舞っているから、『かがみぐさ』の印象が悪くなっているんだ。お前はそれに手を貸したわけだ」
ジーモンは顔をしかめる。「何だよ、それ……」
「お前は馬鹿みたいだからはっきり言う」サルヴァドーロは言った。「お前は、『虐げられている者』に対する批判は全て悪だと考え、彼らのやることなすことを無節操に認める。その動機になっているのが何だか分かるか?」
サルヴァドーロはジーモンを睨みつけた。
「同情だ。『可哀想』っていう気持ちだ」サルヴァドーロは言った。「だけどな、そんな上から目線でお仕着せの救いの手を差し伸べられて、自尊心のある奴なら誰がお前に感謝する?」
「兄貴、言い方ってもんがあるだろ、なあ……」
「お前は結局、『虐げられている者』を助けて自己満足に浸る偽善者なんだよ。他人を同等の者と思っていない、人間じゃねえ人間のすることをしているんだ」
サルヴァドーロはしっかりとジーモンの目を捉え、微動だにしない。胸を突かれる思いで、サルヴァドーロの視線から逃げようとするジーモンを、彼の眼光は離さなかった。
「……随分とひでえこと言ってくれるな、兄貴」ジーモンは諦めて、サルヴァドーロを逆に敵意の籠った目で睨み返した。「だったら兄貴は、何の罪もねえ奴らが、殴られたり蹴られたり、差別されたりしているのを見て、何とも思わねえのかよ? 集団の中に紛れて、自分は関係ないって見ねえふりして、自分だけのうのうと過ごそうって魂胆なのかよ?」
サルヴァドーロは思わずジーモンを強く睨み返した。
「そうやって自分だけ争いから逃れて、後で仲良くしようとしたって、正面から向き合うことを諦めて敵側に寝返った人間を、誰が仲間として受け入れてくれるんだ?」
「お前は何でもそうすぐ敵だ味方だって単純化して物を考える癖が」
「黙れ!」ジーモンはがなり声でサルヴァドーロの声をかき消した。「俺、今朝、兄貴が『かがみぐさ』の男をなぎ倒すのを見たんだ。人前では『かがみぐさ』についての自分の意見なんて言わねえくせに、人の見ていねえところでは結構下劣なことをしていたんだな、兄貴は?」
サルヴァドーロの顔がみるみる赤くなっていく。
「違う、あいつは『かがみぐさ』なんかじゃ」
「だったら何なんだよ?」ジーモンは叫んだ。「いい加減、しらばっくれるの、止めろよ! 俺のことを偽善者って呼ぶなら、兄貴は何だ? 面と向かうのが怖いただの臆病者じゃねえか」
「違う……!」
「だったら何が違うか俺に言え。いつも兄貴は俺に当たるくせに、肝心なところはいつもはぐらかす。何だよ、違うってんなら言ってみろよ。しっかり聞いてやるからさ!」
「だからさ……」サルヴァドーロは息が整うのを待った。冷静さを失いたくなかった。「本当に『そいつら』に共感できるのは、『そいつら』自身じゃねえと無理なんだよ。人間はどうせ、自分に関わる差別でしか、本当に自分のものとして考えられない。そうじゃねえ場合は、ジョヴァンニみたいに徹底的に忌み嫌うか、お前みたいな勘違いになるかの二択しかねえんだ」
「俺は勘違いなんかじゃ」
「じゃあ尋ねるが、お前のその自信満々な正義感が、偽善の隠れ蓑じゃねえってこと、本当に証明できるのか? 自信持って言い切れるのか? 言ってみろよ!」
ジーモンはサルヴァドーロの目を見て、怒り心頭に達していた心が勢いよく冷めていくのが分かった。サルヴァドーロは、自分の心を見ている。自分の心をふるいにかけている。
「兄貴」ジーモンの目はいつもの穏やかな目に戻っていた。「すまん、言いすぎた」
「良かったな、お前。『普通』の人間に生まれてきて」サルヴァドーロの息は震えていたが、それでも気丈にはっきりと言い添えた。「だがもう、これ以上、お前のことで俺を失望させないでくれ」
「兄貴……」部屋の扉を開けるサルヴァドーロに駆け寄る。「悪かった、本当に俺が悪かった。だから、兄貴、頼む、出て行かないでくれ」
「言っただろう。これ以上俺を失望させるなって」サルヴァドーロは振り向かずに言った。「お前、俺より歳食ってるくせに、本当物分かりが悪いな」
「そうだ、俺は兄貴よりずっと馬鹿だ。だから頼む、教えてくれ。俺は俺のどこを直せば良い? 俺は兄貴の何を傷つけたんだ? 頼むよ、チャンスをくれ。だから……」
サルヴァドーロは扉の前に立って、背の高いジーモンを下から睨みつけて言った。
「出て行け」
「……」ジーモンは言葉が出てこなかった。同時に、途方もない寂寥感を覚えた。
「……分かった」ジーモンは頷いた。「最後に、俺も兄貴に一言言わせてもらうよ」ジーモンは暫く考えてから、言葉を選ぶように言った。「これ以上、俺を虚しい気持ちにさせないでくれ」
扉が静かに閉まる。部屋に静寂が戻った。安定感のない、不釣り合いな静寂が。
サルヴァドーロは扉にもたれると、静かに溜息をついた。




