第六景 取締役会
フィリップはロールスロイスに乗り、悠然とエトワール宮に現れた。社内は日常と変わらぬ空気が漂っていた。フィリップは満足げにその空気を吸い込む。この日十一時の取締役会に、「クォー・ワディース」からの犯行声明が届く。そしてそれに合わせて、アンティペーター・ポストが、乗っ取り事件の様子を世界中に報道する予定だった。
しかし、フィリップの予想に反して、取締役会は一時間繰り下がりになっただけでなく、取締役会に声明文を届けに来るはずの男も現れなかった。フィリップは不満げに足を組み、取締役会の開始前に、何本も葉巻を吸い尽くしてしまった。
ようやく取締役会が始まるという頃、フィリップの元に一人の男が現れた。だが、その男は彼の予想していた人物とは違い、副社長のハロルドの秘書を名乗る人物だった。
「スチーブンソン社外取締役、弊社副社長からの手紙をお渡しに上がりました」
「ハリーが、か?」
フィリップは眉をひそめた。秘書が去ってから、乱暴に封を破って手紙を取り出した。彼の緑色の目が、手紙の文字を追って左から右へ素早く動く。彼の口から、葉巻がこぼれ落ちた。
手紙には、力強い筆圧で、こう書かれていた。
「俺はもうスチーブンソン家の人間ではない。ドラグロワールの男として、不正を暴く」
いつの間にか、取締役が会議室に揃い、マイクの前にはマリアンヌが立っていた。彼女は取締役に向かって、毅然とした態度で語った。
「先ほど、緊急記者会見を行い、現在巡礼本線を『ペレグリーノ三一五号』が、スチーブンソン派傘下の鉄道警察の離反により、『かがみぐさ』の乗客を人質にして暴走中である旨発表しました。入手した犯行声明には、出入構管理局によって行われていた『かがみぐさ』の人身売買の事実についても言及があります。従って、本日の取締役会は現在進行中のハイジャック事件への緊急対応について議論させて頂きたいと思います」
取締役からはどよめきは起こらなかった。不気味な沈黙が部屋を支配する。手紙を握っていたフィリップの腕が汗ばんだ。他の取締役は既に知っている。先を越された。
「フィリップ・スチーブンソン社外取締役に告げます」マイクからマリアンヌの厳しい声が響いた。「まずは、貴方の責任追及について議論したいと思います」
運転室に警報音が唸るように鳴り響いていた。サルヴァドーロの身体は崩れ落ち、運転室の床を鮮血が染めていった。
ピラトーが左腕に手を当てて呻いた。彼の腕から、血が水脈のように運転室に広がっていた。ピストルが運転台の下に転がっている。サルヴァドーロは起き上がり、ピラトーの腕を掴んだ。
「おい、パオロ……しっかりしろ!」
サルヴァドーロはピラトーの身体を起こし、壁にもたせかけた。ピラトーがサルヴァドーロを撃ち殺す直前に、列車の速度が急に落ち、バランスを崩したピラトーは自分の腕に向かって発砲したのだ。ピラトーの息は荒かった。その時、運転室の度々の銃声を聞きつけて、先頭車に鉄道員の制服を着た男たちが駆けつけた。全員、手にピストルを持っている。
「命が惜しいなら、俺を撃つな!」サルヴァドーロは男達に向かって叫んだ。「お前たちにもこの警報音が聞こえるだろう? 今、この列車で、緊急列車停止装置が働いて、自動で急ブレーキが作動した。解除の仕方は運転士にしか分からない。この列車は百キロより速度が下がれば、爆弾が炸裂するんだってな。運転士はこの列車に俺一人だ。俺の言いたいことは分かるな?」
鉄道員の服を着た男たちは押し黙り、ピストルを下ろした。
「物分かりが良くて助かる」サルヴァドーロは笑った。「お前らのリーダーが負傷している。どこか安静にできるところに連れて行って、手当しろ」
そう言って、ピラトーの身体から手を離した。男たちは彼を警戒しながら、慎重にピラトーの身体を運転室の外へと運んだ。運転台に改めて腰掛ける。手は赤く染まっていたが、出血は辛うじて止まっていた。サルヴァドーロはマスコンキーを引く。警報音が途絶え、速度が一○五キロを底にして再び上昇を始めた。




