第二景 フィリップの契約
昨日、パリに向かう前のことだ。ヘロディオン・タワーの最上階のオフィスで、フィリップはいつになく険しい顔で、机の上を睨んでいた。
「申し訳ございません。こちらと致しましても、予想外のことでした」
帽子を目深に被った男が、淡々と話す。フィリップは葉巻をくゆらせたまま、何も言わない。
「フィニステレへ向かう増発列車の担当鉄道員は厳重な管理下に置かれており、箝口令も敷いております。部外者が入ることはできなかったはず」
フィリップは葉巻を咥え、大きく息を吐いた。壁にかかったヘロディオン・タワーの写真が白く曇る。
「全ては後の祭り、と呼ぶには時期尚早だろう。事実を知ったところで、その男にはその事実を公にする力はない」
口元には笑みをたたえているが、目元はそうではなかった。
「後は、その人物の存在ごと、事実を抹消してしまえばいい。世界鉄道の治安当局に問い質したところで、けんもほろろな回答をされるのが関の山だ」
男は、フィリップの手許を注意深く眺めながら、頃合いを図って言った。
「我々の出入構管理局にある、当計画の実行グループのメンバーの中で、侵入者と面識がある者がおります。そろそろ、ここを訪ねてくる予定です」
「まさか、その人物から漏れた、というわけではないだろうな」
「それはご安心ください。彼女は当グループ内でも非常に優秀かつ忠実で、上司からの信頼も厚い人物です。僭越ながら、社外取締役も、私と同じ印象を抱かれるかと」
「さて、どうだか。私は、見ないものは信じない主義なのでね」
煙の形が崩れる。フィリップが微笑んだのだ。
扉のブザーが鳴った。男が扉を開けると、長い金髪の女性が部屋の前に立っていた。ハイヒールを履き、シックなグレーのスーツを着、薄く化粧を載せた、品のある女性だ。ただ、表情は強張り、足どりには気後れが見え隠れした。フィリップは葉巻を置き、優しい笑みを浮かべて手を差し出す。
「ようこそ、ロンドンへ。フィリップ・スチーブンソンです」
「……ジュディ・トレヴィシックです」
「トレヴィシック氏、お待ちしておりました。そんなにしゃちほこばらずに、どうぞごゆるりとなさってください」そう言って、来客用のソファーに彼女を案内するジュディは緊張した面持ちを崩さないまま、黒く柔らかいソファーに腰掛けた。
「何か飲まれますか? コーヒーでも、葉巻でも」
「結構です。ありがとうございます」
フィリップは新しい葉巻を取り出すと、満足そうに息を吐いた。
「貴女もお仕事でお忙しいでしょうから、手短に用件を済ませてしまいましょうか」
「……分かりました」
フィリップの顔から、不意に柔和な笑みが消える。
「ここに来て、突然心変わりしても、今更桟橋には戻れませんよ。さあ、誰なのですか?」
ジュディは口をつぐんだ。自分の身体がさらに強ばるのを感じた。
「言ってください」フィリップは煙をくゆらす。
ジュディは重たい口を開いた。
「……サルヴァドール・マクジョゼフという人物です」
「マクジョゼフ……彼は、どういう人物なのですか?」
「ルテティア第一運輸区の巡礼本線で勤めている、有能な運転士です。名前は英語風にしていますが、彼の出身地はそこではありません」
「どこなのですか?」
「『かがみぐさ』です」
フィリップはまじまじとジュディを見つめた。帽子の男も驚いて口を開いた。
出し抜けに、フィリップが大声で笑い始めた。腹を抱えて、目には涙も浮かぶ。
「……『かがみぐさ』がまさか世界鉄道に就職しているとはな。『有能な』? とんだ茶番だ」
フィリップの笑い声を、ジュディは思いつめた表情で聴いていた。
「……彼は、明日の表彰式に現れます。その時に……」
「待ってください、トレヴィシック氏」フィリップは笑うのを止めた。「まさか、表彰式の場でその男を捕まえよ、とおっしゃるつもりではないでしょうな」
「……」
「そんな軽はずみなことは、我々はしません。機が熟すまで、我々の計画は外に漏れてはならないのです。彼には、舞台裏で、静かに消えていってもらわなければならない」
フィリップは、後ろに立つ男に目をやった。男は黙ってジュディに近づき、封筒を置いた。
「あの……これは」
「中に三千ユーロが入っています。前払いだと思って、取っておいてください」
「どう言う意味ですか?」ジュディは顔を上げた。強気の抵抗というより、絶望的な望みにすがるような目つきだった。
「どう言う意味かは、聡明な貴女ならお分かりでしょう。その男の処理代です」
「そんなこと……」
「もう一度申し上げたほうが宜しいでしょうか。スチーブンソン家の敷居を踏んだ以上、心変わりは許されない。貴女自身の社会的な抹消をご所望でしたら、話は別ですが」
ジュディは、背筋が寒くなるのを感じた。
「一人で難しければ、『クォー・ワディース』の力を貸しましょう。彼らなら淡々と仕事をこなしてくれるはずだ」
葉巻をくゆらせながら、上目遣いでジュディの顔を覗き込む。
「さて、選択権は貴女にある。もっとも、無傷でこの巨塔から出たいのであれば、事実上選択肢などは存在しないわけなのですがね」
ジュディは俯いたまま、静かに答えた。
「私……やります」
フィリップは満足げに頷いた。
「学習するのに少々時間を要しましたが、許容範囲内でしょう。約束通り、貴女には業務を遂行し次第、この報酬をお送りいたします。ちなみに、彼を我々に差し出す動機は何ですか?」
ジュディは固く唇を結んで、黙った。フィリップは面白がるように葉巻を吹かせる。
「……嫉妬か何かですかな。女性方の行動要因はいつも陳腐、いや失礼、単純明快だ」
斜めに差す暑い日光が、窓を抜けてジュディの背中を焼き付ける。ジュディは震える手を押さえて、絞り出すように言葉を紡いだ。
「スチーブンソン代表取締役は、何故今の世界鉄道に不満を抱いてらっしゃるのですか?」
「不満……ですか。それは今の私の感情を描写するのには、些か単純すぎる嫌いがありますな」フィリップは頬杖をついて、葉巻を咥え直した。
「理想主義に心底辟易しているのですよ。理想を語る者は、その理想に心酔するあまり、自分の立つ地面の脆さも、現実の重みも忘れてしまっている。彼らは目覚めなければならない」
「それでも……」ジュディは震える手に力を込めた。「足元がふらついているように見えても、理想に向かって一つずつ成果を積み上げていく方が、彼らを嘲る破壊者になるよりも、ずっと眩しくはありませんか……?」
「申し訳ありませんが、貴女にその台詞を言う資格はもはやありません。貴方は私と同じく、破壊者側に回った人間ですからね」
ジュディは立ち上がった。失礼しました、と短く言うと、入ってきたときよりも速い足取りで、部屋を出て行った。太陽が雲に入り、葉巻を吸うフィリップの顔に影が差した。




