第五景 汚された神殿
ビストロを出た後、暫く三人は行くあてもなくパリ駅を歩いていた。誰も話題を切り出そうとはしない。いや、正確には、ジーモンとバルバラは先ほどから何度も顔を見合わせては、相手に話を切り出そうと促していた。口裏を合わせたわけではないが、二人とも考えていることは同じだと感じていた。不意にサルヴァドーロが立ち止まる。
「新パリ駅、行ってみるか」
顔を上げると、二人が目を疑うような顔で自分を見ていた。
「何だ。何か俺、変なこと言ったか?」
「いや、全然」バルバラは真面目な顔をしようと力むが、どうしても顔が緩んでしまう。
「良いぜ、良いぜ、兄貴!」ジーモンが後ろからサルヴァドーロの肩に腕を回した。
「俺は賛成だ! 新パリ駅にはどうやって行くんだ? 確かここから直通列車はねえよな?」
「モンマルトル駅から歩いて行けば良いだろうが」
「歩いてって、具体的にどこを行くのよ?」
「白々しいな、お前ら……。地上に出て街を歩くんだ。ばれなきゃ大丈夫だろう」
ジーモンは胸に手を当てた。神々しい物を見るかのように、大げさに目をしばたたかせる。
「……真面目で優等生キャラの兄貴が、自分から規則破りをしようと言い出すなんてなあ。人の影響ってすげえな。やっぱり持つべきは友だな、バルバラ!」
「何それ、あたしがサルヴァドーロに悪知恵吹き込んだみたいじゃない。あたしは蛇か何か?」
口を尖らせるバルバラを差し置いて、サルヴァドーロがジーモンに話しかけた。
「お前は、『かがみぐさ』と、フィニステレ行きの増発列車に、何か関係があると思うか?」
「んー。『かがみぐさ』なら、あのテロ事件の後、国際世論の批判の火が突然消えちまって、その後、社内の空気が変わっただろう? あれは不自然だなとは思った」
「確かにな。『かがみぐさ』に対して強硬な態度を取っていたスチーブンソン派が、突然手のひらを返したように宥和的になったのには、理由があるだろうな。スチーブンソン派傘下の鉄道警察も、最近は手荒い真似をしなくなってきたようだし」
「スチーブンソン派と言えば……」ジーモンは言った。「俺、この前、エトワール宮で、ピラトーって男とスチーブンソンが会っているのを見たぞ」
「ピラトー?」サルヴァドーロが立ち止まる。「そいつがスチーブンソンに会ったのか?」
「おう」
「どっちのだ?」
「兄貴の方だ。フィリップ・スチーブンソン」
「スチーブンソン派のトップか……」
「どうしたの? 何か心当たりでもあるの?」
「……いや」覗き込むバルバラから目を逸らすように、サルヴァドーロは顔を上げる。
「取りあえず、新パリ駅に行ってみるか」
部屋に戻って、サルヴァドーロはバルバラに自分の冬服を貸した。三人は近郊列車でモンマルトル駅に向かい、そこから地上に出て新パリ駅へ徒歩で向かった。宮殿のように荘厳な、石造りの北駅。その近くにとても控え目に、「MMF」の標識がある。フランス国鉄と世界鉄道の力関係は一目瞭然だった。三人は北駅の階段を降りていき、世界鉄道の行先案内板に従って通路を進む。人波から外れ、細く暗い通路を歩いていく。すれ違う人も、追い抜いていく人もいない。
やがて、緑色の星が前方に現れる。「Nova Parizo」の看板もある。退屈そうに座っていた改札口の駅員が、足音を聞いて呼び止めようと口を開けたが、三人の姿を見て、黙って従業員用通用口を開けた。バルバラは低い天井を見上げ、サルヴァドーロの耳元で囁いた。
「本当に人の気配がしないわね、この駅。ていうか、案外いい加減なのね、人物確認」
「IDカードは改札口に翳すだけで、本人確認はしねえからな。ジーモンの同僚に感謝だな」
三人は階段を下りた。不意に、人々の話し声が聞こえてきた。コンコースの静けさとは裏腹に、ホームはラッシュアワーのような人で賑わっていた。傍から見れば、普通の乗客が列車を待っているだけのように見えた。だが、バルバラはある特徴に気がついた。
「フランス語で話している人、いないわね。みんな、エスペラントで話している」
「確かに」サルヴァドーロはホームを歩きながら、小さく頷いた。「客層を見るに、外部のエスペランティストって訳でもなさそうだ」
「お」サングラスをかけたジーモンは顔を上げた。前方には、ジーモンの捜していた子供たちが、大人しく列に並んでいる。ジーモンの姿にも全く気づかない様子だ。
「乗客は、『かがみぐさ』ってことか……」
「何かあるな」
「何があるって、何が?」サングラスのバルバラは小首を傾げる。
「『かがみぐさ』は普通、列車には乗れない。切符はパスポートがないと買えねえからな」
「来るぞ、兄貴」
線路の振動音が次第に大きくなってくる。地下路線へ繋がる暗闇に轟音が響く。やがて明るい光とともに、流線型のペレグリーノ号が入場してきた。果たして、フィニステレ行きだった。扉が開く。乗客たちの波に合わせて、三人も列車の中に入った。程なくして列車は出発する。
乗車した当初、サルヴァドーロは特に異変を覚えなかった。車内には落ち着いた雰囲気が流れている。だが、乗務員は皆サングラスを着用しており、巡礼本線担当のはずにもかかわらず、見慣れた顔が見当たらない。
「取りあえず、目立たないところに隠れるとするか」
「あんたはどこにいても目立つでしょうが。その背丈じゃ」
「いっそ、本当の車掌のふりをした方が良さそうだな。乗客の様子も知りたい」
「分かった。じゃあ、俺はこっちの車両の検札に行くから、兄貴たちはそっちを頼む」
「了解だ。ジス」サルヴァドーロはバルバラに声をかけた。「行くぞ」
「あんた、車掌の仕事やったことあるの?」
「あるもないも、駅員や車掌の経験を積まねえと、運転士の試験を受けられねえんだよ」
「へえ、接客業務をしたことがあるなんて、何か意外。そのくせに外国語は苦手なのね」
「うるさい」
サルヴァドーロとバルバラは、二人で検札業務を行った。予想通り、乗客は押し並べてエスペラントができた。身なりから察するに「かがみぐさ」の集団だった。切符を確認していた二人は、印刷された行先を見て、眉をひそめた。
「何だこれ……こんな駅名、巡礼本線にはねえぞ」
「これ全部南米の地名よ。巡礼本線の駅にあるわけないわ」
「南米だって?」
サルヴァドーロは思い切って乗客に慎重に質問を投げかけた。
「お客さん、この切符の行先、間違っていませんか?」
「間違っていないよ。私たちは出稼ぎをしに鉄道を出るんだからね」
「世界鉄道を出る? パスポートもないのにどうやって?」
「就労ビザっていうのを取るのに、出入構管理局が手伝ってくれたんだ。一定程度成果を出せば、国籍を取れるという条件付きで。世界鉄道は俺たちに対して本当に親切になったよ」
「出入構管理局……」
「南米にいらっしゃるのに、なぜ巡礼本線に乗られるんですか?」バルバラは丁寧に尋ねる。
「この列車の終点から旅客船が出ているらしいんだ。それに乗って新天地を目指すのさ」
「旅客船? あんな殺風景な岬から?」
「私たちはよく分からないけれど……車掌さんの方が知っているんじゃないんですか?」
乗客が不審な顔を浮かべたので、質問はそこで打ち切りになった。二人は一両分の乗客の検札を終えると、繋ぎ目のところでジーモンを待った。
「『かがみぐさ』の就職と帰化の支援をするっていうのは、さっきビストロでも話していたわね」
「お前は、フィニステレに行ったことがあるのか?」
「写真でしか見たことがないけれど、港町じゃないわよ。まして大西洋横断航路なんて」
自動ドアが開く。二人は顔を上げた。
「何かあったか?」
「もしかしてそっちのお客さんも、行先おかしくなかった?」
ジーモンは二人の質問には答えず、険しい顔で手招きした。「聞かせたいものがある」
三人は車掌室の前で足を止めた。用心深く周囲を見回し、ジーモンは車掌室を指差した。三人はドアの前に屈み、耳を澄ませた。中からエスペラントで誰かが電話する声が聞こえた。
「……ああ、今週のは主に中南米行きの『かがみぐさ』の奴だ。商品の質がイマイチだから、仲介料もあんまり金にはならなさそうだけどな。まあ、大切なのは値段より実績だからと、社外取締役には釘を刺されたさ。貨物船の出航は予定通り明朝で変わりないか? そいつは良いな。『クォー・ワディース』の奴らには、俺から連絡する」
サルヴァドーロは耳を疑った。二人も険しい顔をしている。
車掌室の中の声が途絶えた。三人は急いで隣の手洗いの中に入った。扉が開き、足音が聞こえる。自動ドアが開く音。閉まる音。三人は手洗いの扉を開いた。声の主の姿は、もう見えなえなかった。追いかけようとするジーモンの腕を、サルヴァドーロが引き戻した。
「今の話……聞いたよな?」
サルヴァドーロの言葉に、二人は頷いた。
「あいつ……人間を商品呼ばわりしやがった」ジーモンは顔をしかめる。
「どうしてあいつを追うのを止めたんだ。あいつから聞き出すことだってできたはずなのに」
「今列車は走行中で、この列車は相手側の手の中にある。下手に動けない」
ジーモンは不満そうな顔で押し黙った。
「これって……人身売買だよね?」恐る恐るバルバラが言った。「ビザをやる、国籍も与えるって甘い言葉で誘って、『かがみぐさ』を売りとばして世界鉄道から追い出したいだけよね?」
「つまり……世界鉄道は、『かがみぐさ』と仲良くしようと外面は良くしやがって、内では人でなしのことをやっているってことかよ? 最低だ!」
「ちょっと、声が大きいわよ、ジーモン」
「世界鉄道が、じゃねえよ」サルヴァドーロがぽつりと呟いた。「出入構管理局と鉄道警察を統べるスチーブンソン派の仕業だ。だが、こんな露骨な手段を奴らが何の考えもなしに採るとは考えにくい。きっと何か裏があるはずだ」
サルヴァドーロは二人に背を向けると、自動ドアの向こうへ消えた。
「おい、兄貴!」
二人は驚いて後を追った。サルヴァドーロは通路に立つと、乗客に向かって叫んだ。
「まもなくオルレアンに停車します。乗客の方は全員ここで降りてください」
せき立てるサルヴァドーロの声に、乗客たちは驚いて顔を上げた。
「まさか、もう目的地に着いたの?」
「そんなわけねえだろう。目的地じゃねえのにどうして降りなきゃいけねえんだ?」
サルヴァドーロは腕時計を見た。この駅での乗降は一分程度。その間に乗客を降ろさなければ、次の停車駅まで待たなければ行けない。だが、その頃には乗客づてに他の乗務員たちが自分の目的に気づいてしまうことだろう。
サルヴァドーロは走って次の車両へ向かった。乗客の反応はここでも同じだった。戸惑う乗客たちに、サルヴァドーロは思い切って告げた。
「皆さんが目指しているのは、職を約束された新しい故郷じゃない。皆さんは安い労働者として、過酷な条件下で働かされる労働者として売られていくんです。だから、それを避けるためにもこの駅で降りてください!」
「何言っているんだお前は?」一人の乗客が怒って立ち上がった。「俺たちはやっと仕事を見つけたんだ。過酷な条件だ? 俺たちを人間扱いしてくれねえこんな鉄道よりもずっとマシだ。やっとこの鉄道を出て自由になれる俺たちを、お前は邪魔しようってのか?」
この男の発言を皮切りに、次々に乗客たちが立ち上がり、サルヴァドーロを詰り始めた。
「あんたみたいに外に住む場所がある恵まれた人間と俺たちとは違うんだ!」
「恩着せがましいことをして俺たちの夢を奪うな! この偽善者が!」
ジーモンとバルバラが急いで止めにかかろうと駆け寄った。
怒り心頭の乗客たちの中で言葉を失ったサルヴァドーロは、ふと、俯いて座る子供たちの姿を見つけた。ジーモンの話していた子供たちだ。列車が停車する。ためらうことなく子供たちの腕を掴みあげると、サルヴァドーロは急いで扉へ向かい、彼らをホームに降ろした。
「お前らも手伝え! 早く!」
唖然とするジーモンとバルバラは我に返り、自分たちも急いで子供たちを外に連れ出そうとした。乗客たちが叫び声を上げて三人の前に立ちはだかった。何とか子供たちを全員降ろし、再び列車に戻ろうとした時だ。三人の前に、サングラスをかけた車掌が立ちはだかった。
「……一体何の騒ぎだ?」
車掌は乗車口に立ち、低い声で車内の乗客に尋ねた。
「こいつらが、俺たちは外国に売り飛ばされるから、ここで降りろってほざきやがるんだ」
男はサルヴァドーロを睨みつけた。サルヴァドーロは、男の顔の傷痕に目を留めた。
「まさかお前……」
サルヴァドーロの言葉を封じるように、男はサルヴァドーロを列車の扉から突き落とした。
「兄貴!」
「サルヴァドーロ!」
傷痕のある男は、影のように扉の傍に佇んでいた。歯を食いしばって起き上がり、手を伸ばすサルヴァドーロの前で、扉が閉まった。無情に機械音を立てて、列車は出発する。
三人は暗い明かりの照らすホームに、暫く惚けたように座り込んでいた。ホームを移動する利用客が訝しげに彼らの傍を通り過ぎていく。
「ここ、どこ?」徐ろにバルバラがジーモンに尋ねた。
「オルレアンだ」ジーモンは駅名看板を指差す。「何でも良いから列車を捕まえれば、一本でパリに戻れる」
サルヴァドーロはホームに拳を叩きつけた。指に血が滲んだ。もう一度高く振り上げようとするのを、バルバラが止めた。
「お願いだから、やめて、サルヴァドーロ。仕方ないのよ。乗客は、本当のことを知らないんだもの」
サルヴァドーロは俯いたまま、歯を食いしばっていた。
「……俺は、これ以上、裏切り者扱いされたくない」
「裏切り者じゃねえよ、兄貴は」
ジーモンは近くで身体を寄せて震えている子供たちに、大きく腕を広げた。子供たちは彼の胸にぎゅっと顔を押し付けた。その小さな頭を、温かい手でそっと撫でる。
「故郷を離れたくないっていうこいつらの思いを、兄貴は裏切らなかったんだ」
「あのさ」遠慮がちにバルバラが口を開く。「車掌室で話していた男、確か、『クォー・ワディース』に連絡する、って言っていたわよね? でも、『クォー・ワディース』って、確かもう捕まったはずじゃ……」
不意に、サルヴァドーロが顔を上げる。
「その名前、もしかして意味があるのか?」
「ラテン語で、『あなたはどこに行くのですか?』っていう意味よ。聖書の言葉なの」
ジーモンは子供たちの元を離れ、前屈みになってサルヴァドーロの顔を覗く。
「兄貴、何か心当たりでもあるのか?」
サルヴァドーロはそれに答えず、すっと立ち上がった。
「俺、ジュディと話をしに行ってくる」
彼の横を、風のように回送列車が通過して行った。




