第二景 聖夜の巡礼
サンティアゴ・デ・コンポステーラでテオドーロと不思議な邂逅を果たし、ストラスブールに帰宅して暫く経った日のことだ。マリアンヌは突然激しい嘔吐に襲われた。病院で診断を受けると、医師は顔色の悪いマリアンヌを祝うように言った。おめでたです、と。彼女は耳を疑った。同時に、大広場で遭遇したあの男のことを思い出した。部屋に戻り、彼女は無心で洋服ダンスを漁った。奥から倒れてきた巡礼者の杖を思わず掴む。しっかりと手に伝わる杖の重みに、マリアンヌははっと息を飲んだ。
家族に一切のことを語るまい。マリアンヌは、次第に大学からも足が遠のき、自室に籠りがちになった。孤独の支配する狭い部屋で、苦しみと不安に耐え忍んだ。いつしか、机の上はジャックと自分の写真で埋め尽くされていた。マリアンヌは、聖人の弟子を名乗る男の告知を鵜呑みにはできなかった。彼女は敬虔なカトリック教徒だったが、だからこそ自分の身に聖母と同じ奇蹟が起こるとは想像すらできなかった。しかし、不信感が頭をもたげるそのたびに、腹が刺すように痛んだ。まるで、告知が正しいことをマリアンヌに身を以て知らせるかのように。
十一月のある日。マリアンヌの部屋に一通の手紙が届いた。ホタテ貝の押印を見ただけで、差出人が誰か分かった。マリアンヌは覚悟を決めた。杖や帽子、そして必需品一切をスーツケースに詰め込むと、ストラスブール駅のホームに立ち、一路巡礼路へと向かった。
風が吹きすさぶサン・ジャン・ピエ・ド・ポル駅に降り立ったマリアンヌの目の前に、ふと影が差した。見上げると、自分と同様に巡礼者の装いをした男が立っていた。
「身重にもかかわらず、この時期に、こんな場所へ呼び出してしまい、申し訳ございません」
マリアンヌは首を横に振った。膨らんだ腹を、愛おしむように撫でながら。
「私が決めたんです。この人と一緒に、この道を歩く約束をしたのですから」
テオドーロはマリアンヌの横に並んだスーツケーツに目を落とす。
「これは荷物になるでしょう。私の背嚢に中身を移すことにしましょう」
そして、初対面の時にしたように、彼女に神の加護を祈った。
長く辛い道のりが始まった。一日三十キロの行程でも、巡礼路を踏破するのに相当の精神力と体力を要する。テオドーロは、身重のマリアンヌの歩調に合わせて巡礼路を歩いた。ペースは予定よりもどんどん遅れていった。夜を日に継いで歩こうとするマリアンヌを制止した日は、幾度となくあった。
巡礼宿の外に出、月明かりの下で、マリアンヌは星空に祈りを捧げた。扉が開き、テオドーロも外に出てくる。
「教えてください。どうして神様は、私の願いを聞き入れてくださったのでしょうか?」
「お知りになりたいのですか?」
マリアンヌは、テオドーロを真っ直ぐ見据えて、頷いた。彼は星を眺めながら言葉を紡いだ。
「近々、貴女の回りに不穏な波が押し寄せます。彼の誕生は、その波濤を制するには間に合わない。ですがその波は、彼なしに乗り切れるでしょう。彼は未来に訪れる、より大きな強い波に対するために必要とされた。だからこそ、彼の復活を、神は望んだのです」
テオドーロの見上げた先には、輝く北極星があった。
「この旅が続く間は、あの星が我々を守り導いてくださいます。しかし、決して無理はなさらぬよう。貴女の身体には、救世主が宿っているのですから」
旅は二ヶ月近くの時を要した。足はまめだらけになり、腰を襲う激痛にマリアンヌは何度も立ち止まらなければならなかった。寒さに震え、疲労で食べ物が喉を通らず、嘔吐するときもあった。腹部の膨らみが大きくなるとともに、休みを取る回数が次第に増えてくる。それでも、マリアンヌは歩くことを諦めなかった。
とうとう、二人は歓喜の丘まで上ってきた。星が光り輝く、夜遅くのことだった。テオドーロは眼下に見える尖塔の明かりを指差し、マリアンヌに後少しだと言って励まそうとした。マリアンヌは息を上げながら、大粒の汗を滴らせて、言われるままにうつろな瞳を丘の下へ向けた。目頭が熱くなる。胸から喜びが、何故か嗚咽となって湧き上がってくる。そのまま、草むらの上に倒れ込んだ。テオドーロが急いで介抱する。既にマリアンヌは破水していた。
テオドーロは他の巡礼者に助けを求め、マリアンヌを市内へと運んだ。街は静まり返っていた。マリアンヌはやがて、巡礼者たちの腕の中で目を覚ました。彼らが驚いたことに、マリアンヌはうなされるように何度も呟いた。自分は大聖堂に行くと。
テオドーロたちは大聖堂の前に到着し、入口を扉が壊れそうなほどに叩いた。中から神父が不審そうな表情で顔を出す。テオドーロは事情を説明するというより、ほぼ強引に聖堂に入り込んだ。ことの重大さを把握した神父たちは、直ぐにマリアンヌを身廊の長椅子に寝かせた。既に陣痛が始まっていたが、病院はつかまらず、神父は産婆を呼んで大聖堂へ連れてきた。
真夜中過ぎに、主祭殿に大きな産声が響いた。それを待っていたかのように、大聖堂に鐘の音が鳴り響いた。
「降誕祭の鐘です」神父の一人が相好を崩し、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、マリアンヌに手渡した。「奇遇にも、この子は尊いお方と同じ日に生まれたのです」
「よくぞやり遂げられました」テオドーロは、マリアンヌの耳元で囁いた。
「この子が……いえ、この人が……」マリアンヌは隣で泣き声を上げる赤ん坊の手を、愛おしい目をして触る。「この人が、本当に、ジャックなのですね……」
「彼は、今一度この世に生を受けたのです。どうぞ彼に、貴方から新しい名をお与えください」
マリアンヌは赤ん坊の頬を撫でながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「……この人が私たちの救世主なら、それに見合った名前が既にあります」
「救世主、ですか」テオドーロの顔が綻ぶ。「良い名前だ」
マリアンヌが顔を上げる。テオドーロもその視線の先に顔を向ける。彼らを祝福するように、聖ヤコブ像が見守り、その上を天使が舞っている。鐘の音が高い天井に反響し、月明かりがほんのりと窓から差し込む。彼らは静謐な雰囲気に、夜が明けるまで浸った。
マリアンヌの再三の懇願にもかかわらず、テオドーロは頑なに自らの意志を押し通した。機が熟すまで、赤ん坊をテオドーロの下で預かるというのだ。マリアンヌは未婚の学生な上、世界鉄道の後継者と目されている人物だ。その彼女が突然赤ん坊を産めば、メディアの格好の餌食になることは明らかだった。マリアンヌは、ようやく出会えた赤ん坊とあとわずかしか接することができないのを思い、嘆き悲しんだ。それでも最終的に、心を鬼にしてテオドーロの意に従った。
別れ際、マリアンヌはテオドーロに、一つの鍵を手渡した。金色の古風な鍵だった。
「ストラスブールにあったジャックの部屋の鍵です。私も一つ、合鍵を持っています。もし互いに顔が分からなくなったときのために、どうかこれをこの人に持たせて差し上げてください」
テオドーロは頷き、鍵に糸を通して赤ん坊の首に掛けた。赤ん坊はテオドーロの中で安らかな寝息を立てていた。マリアンヌは別れを惜しみ、何度も赤ん坊の頬を撫でた。喉の奥から何かがこみ上げそうになり、目を逸らす。
「それでは……宜しくお願いします」
マリアンヌは階段を降り、巡礼者で賑わうオブラドイロ広場を歩いていく。ふと足を止め、振り返る。大聖堂の入口の近くに、赤ん坊を抱くテオドーロの姿が見えた。数歩進み、また振り返る。走れば戻れる距離に、まだ彼らはいた。首を強く横に振り、広場を埋める人の波を掻き分けて進んでいく。最後に、マリアンヌはもう一度大聖堂の方を振り向いた。そこにはもう、テオドーロの姿はなかった。
「ジャック!」
涙が止めどもなく溢れてきた。愛した男の名前を何度も呼んだ。だが、広場に響くのはマリアンヌの呼び声だけで、返事はいつまでたっても返ってこない。マリアンヌは声を上げ、その場に泣き崩れた。




