第一景 聖人テオドーロ
パリの一角にある高級レストランに、一台の黒い車が停車する。運転手が車外に出ると、反対側の扉に近づき、ゆっくりと開ける。中から、落ち着いた色のドレスを着、サングラスをかけたマリアンヌが出てくる。マリアンヌは自分に付き添うボディガードと秘書に向き直った。
「ここまでで結構です。あくまで私的な予定ですから、あまり人目のつくようなことはしたくないのです。帰るときに、またお呼びします」
燕尾服を着たウェイターがレストランの扉の前でマリアンヌを迎えた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞこちらへ」
ウェイターに従い、マリアンヌはレストランの中へ入っていった。ボディガードたちは不安そうにレストランの前に佇んでいたが、やがて近くの通りで待機することに決め、退散した。
マリアンヌは二階にある個室に案内された。白い壁に囲まれ、小さなシャンデリラの照らす部屋の真ん中に、円卓が一つある。既に料理が蓋をされて並んでおり、テーブルの真ん中にはワインが置いてあった。マリアンヌはバッグをウェイターに渡すと、席に腰掛けた。ウェイターはバッグを壁に掛けた。誰かのマントが既に掛かっていた。ウェイターが静かに扉を内側から鍵を閉める。マリアンヌは顔を上げ、ウェイターを探るように見つめた。
「驚かれましたか?」
スペイン語でウェイターは呟き、彼女の方を振り向いた。マリアンヌは小さく声を上げた。ウェイターは顔からマスクを外すと、中から新たにひげを蓄えた男の顔が現れた。彼は燕尾服を脱ぎ去り、スーツ姿になると、マリアンヌに微笑んで見せた。テオドーロだった。
「……あなただったのですか」
「我々の話をウェイターに立ち聞きされると困りますからね。料理は先ほど持ってこさせたばかりですので、ご心配なく」
テオドーロは二つのグラスにワインを注ぎ、料理の蓋を開ける。マリアンヌは彼の顔を静かに見つめた。
「お変わりありませんね」
「貴女も、昔と変わらず、お美しい」テオドーロが微笑む。「さあどうぞ、お召し上がりください」
ナイフが食器に当たる音。二人は暫しの間、黙って食事を続けた。
「ご家族は、つつがなくお過ごしですか?」話を切り出したのはテオドーロの方だった。
「ええ。一番下の子も去年からロンドンで勉強をしております」
「噂では、他のお子様も全員留学させているとか」
「子供達には、狭い了見に囚われず、若いうちに世界の広さに触れて欲しいのです。世界鉄道は、世界中に路線網を広げてはいますが、その実とても閉鎖的な会社ですから」
「先人たちの理想は、まだ夢半ばということですか」
「残念ながら、それにつきましては、ひとえに私の力不足です」
「それはない。むしろスチーブンソン派が貴女の道を阻んでいるように、私には見受けられる」
「聖ヤコブのお弟子さんは、世界鉄道の内情にもお詳しいんですね」
マリアンヌは手を口に添えて、思わず微笑んだ。
「彼らの主張も理解はしています。私も、理想を追い求めるものの、虚空を掴むばかりで徒労を感じることが度々あります。ですが、冷笑的な現実主義に陥ることも、私は危惧を抱いているのです」
「なるほど」
「かつて鉄道は、一国の産業の発展のためだけでなく、軍事目的のためにも敷設されました。隣国からの侵略を避けるために、敢えて線路の幅を変えた国々もあります。鉄道は対立と分断の象徴でもあったのです。祖父たちは、それを変えようとしていた。焼け野原と化したこの欧州の地で、祖父たちは、鉄道を、世界を混乱と破滅に導く手段ではなく、平和と繁栄を運ぶものとして敷設しようと考えておりました。戦争の道具ではなく、友好と統合の象徴として」
「素敵な発想ですね」テオドーロは満足気にワインを飲む。「昨今では、鉄道はただの点と点を結ぶだけの道具に堕してしまっているような気がするだけに、なおさら」
マリアンヌはふと、野菜を刺したフォークを止めた。
「……テオドーロ様も、そのようにお考えになりますか?」
「もちろんです。貴女は、お祖父様方と同じ道を進むことに、躊躇はないのですか?」
「ありません」マリアンヌは即答した。「それがたとえ茨の道であったとしても、私は間違った道を選んだとは、生涯思うことはないと思います」
テオドーロは納得したように頷いて、再び料理に目を戻した。
食事中、マリアンヌは意識的に何度も手を止めてテオドーロに視線を送った。それに気づいているのかいないのか、テオドーロは目の前の料理を静かに食べている。マリアンヌはまた手を止めた。テオドーロも手をフォークから離したが、その手はワイングラスの方へ赴く。テオドーロと目が合い、どうしましたかと改めて尋ねられると、切り出そうにも切り出せない。
「そろそろ本題に移りたいと考えているのですが……」
しびれを切らして、結局マリアンヌからテオドーロに提案をすることになった。テオドーロはナフキンで口を丁寧に吹き、一息をつくと、ゆっくりと顔を上げた。暖かな太陽のような眼差しで、マリアンヌを穏やかに眺める。
「分かりました」
テオドーロは、手紙に短く、こう書いてマリアンヌに寄せてきた。
「彼」についてお話ししたい、と。
その「彼」が誰を指すのかについては、マリアンヌは説明を必要としなかった。まさにこの言葉を、マリアンヌは二十五年もの長きにわたり、待ちわびていたのだから。




