第三景 パリ中央駅恒例腕相撲大会
「ブラックコーヒー」
ジーモンはビストロのカウンターに無造作に座る。まだ目の下に、大きな隈が刻まれている。
「まだホルステンビールは解禁しないんだね」ジョヴァンニは笑って、サービスのクロワッサンを差し出した。ジーモンは黙ってスプーンでコーヒーをかき混ぜる。
「相棒は最近女を部屋に連れ込んで楽しんでいるっていうのにさ」
ジーモンの顔から途端に疲れが消える。眉間に皺を寄せてジョヴァンニを見上げる。
「女? 部屋に? 連れ込んでいる? 兄貴が?」
「トトって晩稲だと思っていたんだけれどな。しかしトトのご父兄がこの事実を知らないとは」
「ジョヴァンニ。そこの話を、もう少し詳しく」
「何なら本人に聞けば良いんじゃない?」ジョヴァンニはコップを拭きながら、店の奥を見た。奥には机を囲んで人だかりができている。ジーモンもジョヴァンニに倣って、人だかりの方を眺めた。見慣れない青いハンチング帽の短髪がいた。
「ジーモン、こっち来いよ。お前に対して挑戦状が叩きつけられたぞ?」群衆から声が上がる。
「俺に?」ジーモンは自分の胸を差す。「よし、受けて立とうじゃねえかよ!」
ジーモンはコーヒーを一気に飲み干すと、胸板を力強く叩いて、群衆の中に入っていった。
「ルテティア第一運輸区嫌煙家連盟副会長にして現王者、ジーモン・ブライプトロイ!」
審判が声高らかにジーモンの名前を呼ぶ。ビストロの中に設置された広いテーブルの前で、ジーモンは観衆に向かって拳を大きく振り上げる。観衆から激励の言葉が飛ぶ。
「そして、王者の連覇を阻むは、挑戦者の……」
審判の読み上げが止まった。スペルを読み上げるのに時間がかかっているようだ。ジーモンは自分の前に、対戦相手の男がいないことに気づいた。
「誰だ、俺に戦いを挑んで来た奴はっ!」
「あたし」
観衆の目が声の主へと向かう。ジーモンは眉間に皺を寄せた。そこにいたのは、ハンチングを被った華奢な女性だった。彼女は呆気に取られた審判の元に行き、指で自分の名前を差す。「バルバラで良いわよ。苗字、長たらしいし」
「おいおい、ちょっと待てよ」ジーモンは鼻で笑った。「俺は誰の挑戦でも受けて立つがよ、簡単に勝負がついちまうのは観る方もつまんねえだろう?
それに女を相手にしたら、可哀……」
言いかけて、ジーモンは思わず語尾を飲み込んだ。
「言うわねえ」バルバラは自信に満ちた目で、椅子に座るジーモンを見下ろした。「あたし、そういう挑発、あながち嫌いでもないわよ」
木製の三脚椅子にどっかりと腰を下ろすバラバラを見て、ジーモンは目を疑った。
「おい、本気か嬢さん? ハンデは……」
「人を刺激するのに事欠かないわね、あんた」バルバラは強気な眼差しで彼を刺す。「ただ、人に安い同情寄せていると、痛い目見るわよ」そう言ってバルバラは、右腕を机の上に差し出した。
ジーモンは「同情」の言葉にムッと顔をしかめ、音を立てて右腕を机に置いた。震動で、机上にあったビールの蓋が跳ね上がる。我に返った審判が、握られた二人の手の上に自分の両手を置く。観衆にざわめきが戻り、中からはふざけ半分でバルバラを応援する声も聞こえてきた。
「両者見合って……用意、勝負!」
審判が言葉を言い終わった直後だった。
間髪入れず、ビストロの床に鈍い音が響いた。
ビストロから音が消えた。観衆は、目の前で何が起きたのか皆目見当もつかなかった。状況が飲み込めなかったのは、ジーモンも同じだった。気付けば彼は、酒が染み込んだ板張りの床に、ビール瓶と一緒に寝転がっていた。右手を、頼りなく机の方にあげたまま。
「何だ、言うほどでもないわね」バルバラは身体を乗り出し、ジーモンを見下ろして言った。「で、賞品のビールっていうのは、どこでもらえるわけ?」
腕相撲大会の後、ジーモンは、多くのご馳走に囲まれてご満悦の新チャンピオンを、恨めしそうな顔で眺めていた。
「悪いわねぇ、こんなにもてなしてもらって」
ジーモンは呆れ顔と畏敬の念の混じった表情でバルバラを睨みつける。
「どこから出したんだ、あの馬鹿力は……」
「馬鹿力とは失礼ね。腕相撲はね、相手の力をいかに上手く利用するかが大切なのよ。鉄筋の壁も千回体当たりしたらいつか崩れるみたいな考え方に囚われていちゃ、損するだけよ」
ジーモンは咳払いをした。
「でも良かった。サルヴァドーロが言っていた通り、良い人そうで」
「兄貴のこと、知っているのか?」言ってから、ジョヴァンニの言葉を思い出した。
「まあ、あなたほどじゃないと思うけれど。あたし、あなたに会いに来たのよ」
「何のために?」
「どうしてあの子のこと、許してあげないの?」
「俺が?」彼は両手で自分の胸を指した。「むしろ兄貴が俺に怒っているんじゃねえのか?」
「あの子、そう言うふうには言っていなかったけどな」
「そうか? 兄貴、全然自分のこと正直に言わねえからさ」
「あたしと話しているときは、あの子、度が過ぎるくらい素直だけどね」
ジーモンは魔物でも見る目つきで彼女を見た。「お前……一体、兄貴に何をした?」
「教えなーい」バルバラはそう言って、ホタテのソテーを幸せそうに頬張った。
ジーモンはジョッキを揺らして暫く黙っていたが、やがて思い切ったように、口を開いた。
「……この話、兄貴にはしたことねえんだけどさ。俺、昔、弟が一人いたんだ」
「『いた』のね」
「アンドレアスって名前だった。俺と違ってちびな奴でさ。歳が離れていたから、喧嘩もすることなく、すごく可愛がっていた。あいつの影響で俺も鉄道好きになっちまったんだ。いつか兄弟で列車を運転しようなんてガキっぽい約束だってした」
ジーモンは手許にあったハート型のブレーツェルを、半分に裂いた。
「俺の家族、ヘビースモーカーでさ。吸わないアンディだけ肺がんになって死んじまった」
「ごめんなさい、辛いこと話させてしまって……」
「良いんだ。俺があんたに話すって決めたんだから」ジーモンは続けた。
「何度もこの鉄道を辞めることを考えた。鉄道で働く限りアンディの思い出が付きまとって、前に進めない気がした。そんな時、兄貴に出会ったんだ。どこか影のある表情がアンディにそっくりで、見ていられなくてさ。あいつにできなかった兄さんぶりを兄貴にすることで、自分の心を整理しようとした。でもそのせいで兄貴に負担をかけちまったんだ。本当に俺、自己満足の偽善者だよな」
「そんなことないわよ。サルヴァドーロは、あなたのこと、本当の兄弟みたいに信頼していると思う。だからこそ、あなたが離れていくことが怖かったんじゃないのかしら?」
「どういうことだ?」ジーモンは眉をひそめる。
「……本当なら、本人からあなたに言うべきなんだけれど」
バルバラは周囲を見回してから、ジーモンに目で合図する。彼はバルバラに顔を近づけた。
「……サルヴァドーロの左肩に何があるか、あなた、見たことある?」
ジーモンは思わず顔を彼女から離し、目を見開いて、確かめるように彼女を見た。
「まさか……」ジーモンは呟いた。「兄貴に限って、そんなこと……」
「あー、やっぱりそんな反応か。ま、仕方ないと言えば仕方ないか」バルバラは肩をすくめて言った。「でも、それだったら、先に言っておいて良かったかもしれないわね」
「……どういうことだよ?」
「自分で分からない? あなたの今のその反応を見て、あの子がどう感じるか」
ジーモンは頭を殴られたかのように、口を開けたまま、衝撃で言葉を失っていた。握られた拳は、テーブルに強く振り下ろされた。急いでバルバラがご馳走の皿を保護する。
「俺としたことが……」
「それで、どうするつもりなの?」
「……決まっているだろ」ジーモンは答えた。
「俺は兄貴の相棒であることを誓ったんだ。その兄貴の背景が何であろうと、俺はそんな兄貴について行くことを決めたんだから」
ジーモンは顔を上げ、力強い視線でバルバラを見た。バルバラは満足そうに微笑んだ。
「あなた、やっぱり熱血ね。面と向かってそんな台詞言われると、ちょっとくすぐったいけれど、悪くないと思うわ」そして、こう言い添える。「あの子のところに行ってあげなよ。あっちもそろそろ仲直りしたい頃だと思うし」




