第一景 サンティアゴ・デ・コンポステーラ
バルバラと出会って以来、サルヴァドーロは仕事で別の駅に移動する際、バルバラと待ち合わせて一緒に列車で移動するようになった。バルバラは、巡礼本線に沿って終着地のサンティアゴまでの主要な町々を訪ねる旅に出た。ただ、サルヴァドーロはいつも改札口の前で立ち止まり、バルバラを見送っていた。バルバラは彼の素っ気ない行動が不可解で不満だった。
ある日彼ら二人は、ようやく巡礼本線の終点、サンティアゴ・デ・コンポステーラ駅にやって来た。駅の屋根のアーチには、大きなホタテ貝の装飾が施されている。巡礼本線の終着駅にふさわしく、多くの番線に、特急列車や普通列車など、様々な列車が発着する。フランスだけでなく、ポルトガルやスペイン南部からの支線からも列車が乗り入れてくる駅だ。駅舎は、ロマネスク建築を模した石造りの建物になっている。白壁の鉄筋コンクリートのイメージが強い世界鉄道の他の駅とは、この点でサンティアゴ・デ・コンポステーラ駅は一線を画していた。
この駅でも、サルヴァドーロはバルバラを見送るつもりだった。しかし、バルバラは彼の手を強く握り締めると、彼が振りほどこうとしても放そうとしなかった。
「どうして一緒に行かないの? 今日は夕方からの出勤なんでしょう?」
「他にしなきゃいけねえことがあるんだ」
「嘘」バルバラは短く言った。「本当のこと言う時は、そんな言い方しないよ、あんた」
「何でお前に判断されなきゃならねえんだ」
「だってさ。行くなら行く、行かないなら行かないではっきりすれば良いのに、あんた、行きたそうな顔して行かないって言うんだもん。見送れる側としては後ろ髪を引かれるわけよ」
「俺、そんな顔してねえもん」
「……あんたさ、何か隠していない? あたしに言えない何か。じゃない?」
「何も隠してなんかいねえよ」サルヴァドーロの声が上ずる。彼の嘘が下手なことは、バルバラはこの時までに既に把握していた。「……別に、大したことでもないし」
「良いよ、あたし、何言われても驚かないから。はっきり理由を聞かせて」
バルバラの真っ直ぐな瞳に、サルヴァドーロはひるんだ。
ここは腹を括るしかなさそうだ。
「……ちょっと、こっち来い」
サルヴァドーロはバルバラの手首を掴むと、「関係者以外立入禁止」の扉を開け、仮眠室にバルバラを連れ込んだ。
「何よ? こんなところに呼び込んで」
「静かにしろ。良いか、黙って見てくれ」
そう言うと、サルヴァドーロは手早く制服を脱ぎ始めた。バルバラはぎょっとしてサルヴァドーロの腕を押さえる。
「ちょっと、あんた……何するつもり?」
「黙ってこれ、見ろ」サルヴァドーロは、ぎゅっと目を閉じているバルバラの頭を叩いて言った。バルバラは、慎重に片目ずつ開く。下シャツだけになったサルヴァドーロは、左肩にはっきりと浮かんだ黒い社章を、バルバラに見せつけた。「これが何か分かるか?」
「何これ……タトゥー?」
「これを見て、お前は俺が誰か分かるか?」
バルバラはサルヴァドーロの思いつめた表情を見上げ、怖々と首を振る。
サルヴァドーロは、息を整える。そして、目を逸らすことなく、バルバラに向かって告げた。
「俺は……『かがみぐさ』だ」
沈黙があった。サルヴァドーロは、この後に来る否定的な反応を覚悟していた。だが、バルバラの顔に浮かんだのは、純粋な疑問だった。
「何それ……ラテン語?」
「お前……知らないのか?」
「どう言う意味なの?」
「……根無し草。無国籍者ってことだ」サルヴァドーロは言い足した。「俺はこの鉄道で生まれ育ち、一度も外の世界に出たことはない。列車の窓から眺めることはできても、俺にはパスポートがねえから、外に出ることはできねえんだ」
「それとこのタトゥーには何か関係があるの?」
「無国籍者は、鉄道警察の治安維持活動の一環で、発見され次第、刺青を左肩に入れられるんだ。一生拭い取れない、よそ者の烙印だ」
バルバラは、サルヴァドーロの左肩に手を当て、「MMF」と刻まれた刺青を何度か撫でた。
「……ひどい。こんなこと、平気でできる人が、今の時代にもいるなんて。ひどいよ」
「それだけじゃない。『かがみぐさ』は、仕事にも就けず、寝る場所も定まらず、常に鉄道警察に追いかけられている。そんな生活で、俺たちは盗みをしてその日暮らしをしないと生きていけない環境に置かれているんだ。俺たちがいられるのは、この、世界の狭間しかないのに」
ふと、刺青をさすっていたバルバラの手が止まった。問い詰めるような表情で彼を睨む。
「でも、それで何? どうしてこのタイミング? 私に同情を求めているわけ?」
予想外のバルバラの反応に、サルヴァドーロは一瞬、言葉に詰まった。
「そ……そんな訳ねえだろう!」
「だってそうじゃない? 俺は無国籍者だから外に出られない。だから自由のない檻の中の動物なんです。ああ、可哀想。そう捉えて欲しいようにしか見えない」
「違う、俺は俺に同情なんかする奴は」
「嫌いなのかもね。でも、あんたのやっているのって、結局同情を買いたいだけなのよ。きついこと言うかもしれないけれど、そういうさ、誰も自分のことなんて分かってくれない、っていうところ、あんたの子供っぽさの最たるところよ。そんなところ、あたし、好きじゃないな」
「勝手に言いやがって、お前は何も俺のこと」
「ほら」バルバラは彼の鼻を明かしたように、したり顔をした。バルバラの顔に明るさが戻る。「そうやって、他人から何かしてもらおうと待っていちゃだめ。他人のことなんて自分の手に負えなくて途方に暮れちゃうもん。だから、自分で取りに行かなきゃ」
バルバラに心を見透かされたサルヴァドーロは、罰の悪そうな顔をして彼女に尋ねた。
「……じゃあ、具体的に何をすりゃ良いんだよ」
「飛び越えちゃえば良いのよ、改札口を。あんたが見なきゃいけない世界は、二本のレールなんかよりずっと広いのよ?」
バルバラは、来なよ、とサルヴァドーロの腕を掴んで、仮眠室の外に出ようとした。
「待て、お前、先服着せろって!」彼は力ずくでバルバラの手を振りほどいた。「全く、何するつもりなんだ?」
「駅を出るのよ。当たり前じゃない」
「だから、俺は無理だって」
「何それ……」バルバラは何かに気づいたらしく、小さな顔ににんまりと笑みを浮かべた。
「……もしかして、あんた、怖いの?」
「誰が、そんなこと」
「大丈夫。規則破りなんてね、堂々とやれば逆に目立たないものなのよ。怖がりなのに強がっちゃう、そんな子供っぽいところは、お姉さん、嫌いじゃないわよ」
「茶化しやがって」
「はいはい、良いからちゃっちゃと着替えなさい。私服はないの、私服は?」
バルバラは無理やりサルヴァドーロを仮眠室に押し込むと、自分は駅へ向かい、「偵察」を始めた。言われるがままにサルヴァドーロが私服姿で現れると、バルバラが手招きして彼を呼んだ。彼女は駅員の目を盗んで線路に飛び降りると、小動物のような軽やかなステップで待避線まで駆け抜けていった。サルヴァドーロは衝撃で足がすくんだが、バルバラがホームの陰で手招きをするので、意を決してホームから飛び降りた。
バルバラの元に来ると、彼女は鉄道用地と一般道とを分けている有刺鉄線を指差した。彼女の示した部分だけ、鉄線が歪み、ちょうど人が一人通れる程度の大きさになっている。
「電流通っていないみたい。さっきちょっと調べてみた」
「まさかとは思うが……俺に、ここを通れと?」
「そう」
「そうってお前……」サルヴァドーロは焦った。「俺はIDカードがあるから、外の世界でパスポートの呈示を要求されない限り、正当な手段で外出することは可能なんだ」
「あんたはそうかもしれないけれど、あたしは切符を無駄にしたくないの」バルバラは言った。「あの特急回数券、降りない限りはずっと有効なんだから」
「それくらい、俺が払うから」
言いかけたサルヴァドーロの言葉を制して、バルバラは思いっきりサルヴァドーロを有刺鉄線の間に押し込んだ。サルヴァドーロは思わず悲鳴を上げた。
「さっさと行って! あんたが通って穴を大きくしてくれないと、あたし怪我するわよ!」
バルバラは力強くサルヴァドーロの尻を蹴飛ばした。有刺鉄線を越えたサルヴァドーロは、立ち上がり、涙目でバルバラを睨んだ。
「有刺鉄線が非人道的だとかぼやいた奴は誰だ!」
「泣き言は後で聞くから、そこどきなさい」
バルバラは穴を楽々通り抜け、駅の中央出口の方へと走った。サルヴァドーロは文句を呟きながら、快活に跳び回るバルバラを追いかけ、駅の外へ出たが、突如として彼は立ち止まった。
強い日差しに目がくらむ。青空が、上からのしかかってきた。黒く大きな鳥の群れが悪魔のように飛び交っていた。無機質な自動車が襲いかかるように突進してきた。身体を焼け焦がすような黒いアスファルト。終わりの見えない緑の並木。動揺で目を泳がし、しゃがみこもうとするサルヴァドーロに、バルバラの柔らかい手が差し出された。
「ほら。あたしがついているから」
サルヴァドーロは、おずおずとバルバラを見上げた。バルバラは差し出した手を軽く揺さひて、歯を見せて微笑んだ。彼は藁にもすがる思いで両手でギュッとバルバラの腕を持って、力の抜けた両脚を立ち上がらせた。
バルバラがサルヴァドーロの手を引き、初夏の太陽が見下ろす古い町並みの中を歩いていく。サルヴァドーロは、石畳につまずかないよう、石の間を慎重に避けて歩いた。
市場というものを初めて見た。車も信号で止まることを知った。自転車のベルに度肝を抜かれた。そして何より、どこを探しても、枕木とレールが見当たらないのが不安で仕方なかった。赤い屋根に白い壁の建物が林立する迷路を、バルバラがしっかりした足取りで、サルヴァドーロを導いた。バルバラの温かい手を強く握ると、バルバラも彼の大きな手を握り返した。
徐々に、サルヴァドーロは顔を上げていく。町のそこかしこで、ホタテ貝を模した手すりや、巡礼の道を指し示す青の標識を目にした。車のクラクションや、威勢の良い売り子の声も、徐々に聞き分けられるようになってきた。空の穏やかな表情に、ようやく気付いた。
「着いたわよ」
不意にバルバラが足を止め、サルヴァドーロの方を振り向く。サルヴァドーロは汗の滴る額を拭いながら、言われるままに顔を上げた。
規則的に配置された装飾を身にまとった、いかめしい二つの塔。土気色をしたその二つの塔は、蒼穹を支えるように力強くそびえ立っている。その間にある、幾分背の低い塔に、十字架をかたどった入口が見えた。サルヴァドーロは、汗が頬を滑り落ちるのさえ気づかずに、圧倒されて大聖堂を眺めていた。遠くから石畳を打つ杖の音が聞こえてくる。ホタテ貝をぶら下げた登山用のリュックを背中に抱えた人々が、歓喜の声を上げ、労をねぎらい抱き合っている。
「あの人たち、きっと巡礼道中に色んな体験をして、今、目的地の土を踏みしめたのね」
「お前だって町々を旅行したんだし、似た経験は積んできたんだろう?」
「あたしは、点だけをかいつまんで見ただけ。点を繋ぐ線を描いてここまで来た人たちと比べたら、あたしの旅行なんて大したことないのよ」
二人は大聖堂の中に入っていった。アーチを描く柱頭に守られた、暗く冷たい身廊の先に、鮮やかで壮麗な金の装飾が目に飛び込んでくる。ブドウのつたが這うかのようにねじれた金の柱、緻密な彫刻、巡礼者を上から見下ろす天使たち。そして、栄光の輝きに溢れる主祭壇の廟で、厳かな面持ちの聖像が訪問者たちを迎えていた。
「あれが聖ヤコブよ」バルバラは言った。「エルサレムの地で殉教した後、彼の遺体はテオドーロとアタナシウスという弟子とともに、この地に流れ着いたの。彼と二人の弟子は、今もこの大聖堂の地下で眠っているのよ」
「物知りだな」
「あたしの二つ目の名前のジャクリーンは、聖ヤコブから取られた名前なのよ。よく自分の名前の由来の話で、聖ヤコブのことはよく聞かされたのよ」
バルバラは一番前の長椅子に腰を掛けた。サルヴァドーロは怪訝そうな顔で聖ヤコブ像を見ると、腑に落ちない表情を顔に浮かべながら、バルバラの隣にやってきた。
「どうしたの?」
「いや……」サルヴァドーロは首を傾げて呟いた。「俺……この像、前にどこかで見たことがある……気がする」
「本当? 旅行のガイドブックとかじゃなくて?」
「分からねえ」聖ヤコブ像の背後へと続く人の列を、難しい顔をして眺める。「にしても、ものすごい混雑具合だな」
「そりゃそうよ。今年はヤコブの年だからね」
「何だそれ?」
「七月二十五日が聖ヤコブの日なんだけれど、この日が日曜日に当たる年がヤコブの年。この年にサンティアゴを訪れた人は、全ての罪が許されるっていう話よ。だから今年、どうしても来たかったの」
「なるほど。今までたくさん犯してきたキセル乗車を、ここで帳消しするためか」
「馬鹿ね、そんなことじゃないわよ」
町の中を歩いていたときはバルバラの手がないと動けなかったサルヴァドーロだったが、大聖堂の中では、サルヴァドーロは自ら進んであちらこちらを見て回った。聖堂内に漂う仄かな香の匂い、巡礼者たちの足音、窓から差す光の筋。どこを見ても、親近感、いや既視感を覚えた。しかし、記憶をいくら辿っても、思い当たる節は何もなかった。




