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第四景 エトワール宮潜入

 サルヴァドーロたちが帰ってくる前、ジーモンは一人、サルヴァドーロとの共同部屋の前に来ていた。右手で作った拳を扉の前で構えたまま、暫く固まる。咳払いをし、意を決して扉を叩く。中からの反応を待つ。それを二、三度繰り返して、彼がまだ帰って来ていないことを悟った。帰り際、ジーモンはもう一度部屋の方を振り返った。広い肩を頼りなく落して、長く暗い寮の廊下を歩き、駅へと向かった。

 

 仕事は終わったが、ジョヴァンニのビストロに向かう気にはならない。疲れていたが、狭い仮眠室で眠る気にもなれない。ジーモンはホームのベンチに座り、腕を組んだ。

 

 サルヴァドーロが何故自分にあんな言葉を掛けたのかに、ジーモンはまだ明確な答えを見出せていなかった。正直、偽善者と言われたのは心外だった。だが、偽善者かどうかは、ジーモンの好意を当事者がどう受け止めるかどうかに関わっている。なぜ、当事者でもないサルヴァドーロが、自分を偽善者だと断定できるのだろうか。自分はまだ、気づいていないことがあるのだろうか。


 考えあぐねて、結局ビストロへ向かうことに決めた。大きく伸びをしてベンチから立ち上がると、ホームの縁に立つ男に目を留めた。目の下にある傷痕を見て、ジーモンは確信した。

ピラトーだった。

 

 ピラトーの立つホームに、近郊列車が入場してくる。ジーモンはピラトーに気づかれないように別の車両に乗り込むと、戸袋の前に立ち、前方の車両にいる彼の位置を確認した。電車は暗闇に入っていく。目を凝らして彼を観察していると、外が急に明るくなる。列車はエトワール宮駅に停車した。彼が列車を降りるのを見て、ジーモンもドアのボタンを押して扉を開けた。

 

 政務部の定時退社時刻の頃なので、ジーモンはホームに所狭しと並ぶスーツ姿の乗客たちの中に姿をくらましながら、十数メートル先に見える彼の頭を追いかけた。


 一般改札口から出るかと思いきや、彼は慣れた足取りでエトワール宮への直通通路へ向かう。ジーモンが通用ゲート前でIDカードの認証に手こずっているうちに、彼はエレベーターで上がってしまった。


 ようやくゲートを抜けて、ジーモンはエレベーターホールへ走った。エレベーターは三階で停止していた。ホール中にある全てのボタンを連打して、苛々してエレベーターを待つ。

 

 エレベーターが三階到着のチャイムを鳴らす。扉が開くと、ジーモンは慎重にエレベーターから顔を出した。首を扉に挟まれそうになったので、慌てて赤絨毯の上に飛び出した。


 廊下は暗く、電灯は少ししか点いていない。煌々と白い光の漏れる部屋からは、キーボードを打つ音と電話のベルが聞こえるだけだ。この階の内装は普通のオフィスと変わらないようだ。ジーモンの足が強ばる。場違いなところに来るといつも、彼は緊張で足がすくむのだった。

 

 ふと、遠くの扉が開く。明るい光が扉から漏れ、中から数人の人物が出てきた。男たちはフランス語で挨拶を交わして、エレベーターの方へ近づいてきた。ジーモンは急いで、近くにあった男子トイレに逃げ込んだ。薄く開けた扉の隙間から、近づいてくる足音の主が見えた。三、四人の男の中に、ピラトーもいた。ジーモンは唾を飲み込み、じっと彼らの様子を伺っていた。


 突然、ピラトーが振り向き、ジーモンと目が合った。背筋が凍る。ピラトーは眉をひそめて、トイレの扉に近づいてくる。


「どうしましたか?」帽子を目深に被った男が尋ねる。


「少し、失礼しても構いませんか?」ピラトーがトイレの扉を指差す。


 ピラトーは扉を開け、電気をつけた。中には誰もいない。閉まっている個室の扉を全て、彼は力強く押し開けた。だが、誰の姿も見当たらない。ピラトーは不満そうな顔で、耳を澄ませるように暫く立っていた。脅すように、エスペラントで低く呟く。


「誰かいるのか?」


 長い沈黙の間があった。舌打ちをすると、ようやくピラトーは見切りをつけて、トイレの電気を消し、外に出て行った。


「すみません。行きましょうか」ピラトーが外にいた男達にフランス語で言う。


「そうですね。スチーブンソン社外取締役の車が外でお待ちです」


 エレベーターの到着音。扉の音。男たちの足音。扉の音。鈍く響く移動音。


 洗面台の下のゴミ箱が、静かに動いた。ジーモンは口を強く押さえていた手を離し、思いきり息を吐いた。制服に冷や汗が滲んでいた。ジーモンはゆっくりとトイレの外に出る。エレベーターは一階で止まっていた。ジーモンは忍び足で、窓へ近づき、顔をガラスにくっつけた。ライトアップされた凱旋門のロータリーを、赤いロールスロイスが走り去って行くのが見えた。


「……スチーブンソンが何とかって、言っていたよな……」


 いきなり、ジーモンの肩に誰かの手が置かれた。大声で悲鳴を上げ、拳を構えて振り向く。


「……びっくりした」


 立っていたのは、ジュディだった。


「え……?」ジーモンは焦りと恥ずかしさで顔が赤くなる。「何でジュディ、ここにいるんだ?」


「そこ、私の部署なの」ジュディは光のこぼれる近くの扉を指差した。扉から何人かの野次馬が顔を覗かせ、先ほどの叫び声の主を興味深そうに眺めている。


「ジーモンこそ、何でここに?」


 適当な言葉がないかと口をパカパカ動かしたが、何も出てこない。正直に答えた。


「……迷った」




 喫煙室の外の自動販売機の前で、二人は暫く他愛もない話をした。普段ならジュディに会うと心が躍るジーモンなのだが、今夜は何故か気分が高ぶらない。


「ジュディ、部署変わったんだな」


「ううん。臨時の助っ人として駆り出されているだけ。うちの課、暇だからね」


「臨時の助っ人って、何をやるんだ?」


「新しいチームが出入構管理局に結成されるの」


「出入構管理局だって?」ジーモンは眉をひそめ、小声で尋ねる。「あそこって、スチーブンソン派の奴が多いって聞いたんだがよ?」


「今はそうでもないのよ。それに、世界鉄道も方針を変えて、『かがみぐさ』には協力的な姿勢になってきたから」


「それで、どんな仕事をするんだ?」


「『かがみぐさ』の人たちの就職の斡旋をするために、各企業とやり取りをするチームなんだけれどね。今はそのために、鉄道警察から拝借した台帳を整理しているところ」


「……つまりは、仕事してえって言う『かがみぐさ』の奴の情報を整理して、企業に送るってことか?」


「ざっくりと説明すればそんな感じかな」


 笑窪が愛らしく浮かぶ。ジーモンは思わず俯き、コップに口を突っ込んでコーヒーをむせた。


「私ね、サルヴァドーロに言われて、自分の考えを見直すことにしたの」


「……兄貴に何を言われたんだ?」


「中立ぶっていて、結局思考停止に陥っているだけだって」


「ああ……そんなこと言っていたな。ひでえ言い方だよな」


「そんなことないのよ。むしろ自分のこと、よく見えるようになったの」


「どういうことだ?」


「この前のテロの一件が解決してから、政務部内で、『かがみぐさ』を敵視して彼らに疑いの目を向けるのではなく、協調の道を進んでいこうっていう動きが出てきたの。そのひとつが、出入構管理局で立ち上げられたチーム。私も、立場を決めあぐねて戸惑っているんじゃなくて、行動しなきゃって思って。サルヴァドーロの言葉で決心がついたのよ」


「そうか……」サルヴァドーロの話は、正直、今はしたくない。ジュディはジーモンの浮かない顔を覗き込んだ。


「ジーモン、すごい隈だけど、大丈夫? 忙しいの?」


「いや……ちょっとな」顔が赤くなるのを感じて、急いで目を逸らす。


「……最近、サルヴァドーロとは話をしていないの?」


 顔に出ていたのだろうか。唐突に、悩みに直球の質問をされて、ジーモンは口籠った。自動販売機に目をそらしながら、ぼそりと呟く。「……喧嘩しちまって、ここ数週間、顔すら合わせてねえよ。俺も、きついこと言われた。お前は偽善者だって」


「何かサルヴァドーロの気に障ることでも、言ったんじゃないの?」


「そうに違いねえんだけどさ。兄貴の地雷って、どこに埋まっているか、さっぱりでよ。原因考えていたら、眠れなくて」


「そうなんだ……」


 ジュディは間をどう取り持つか考えあぐね、立ち上がって空の紙コップをゴミ箱に捨てた。「私さ、サルヴァドーロと話すといつも、私の足りないところが見えてくるの」


「足りないところ?」


「例えば、想像力」ジュディは振り向く。「彼みたいに、本当に『かがみぐさ』の人と同じ目線で物を考えることが、私には欠けている。だから、論理だけで組み立てられた頭でっかちの議論の中で、自分を位置づけようとあくせくしてしまう」


 スカートに皺ができないように手で裾を払いながら、彼女は再び腰を掛けた。


「私ね、語弊を恐れずに言うと、本当に当事者の気持ちに立つのって、当事者以外は殆ど不可能だと思うの。感情でなく法律や論理で物事を見始めてしまった限り、彼らと私たちの間には越えられない壁ができてしまっているのよ。当事者でない限り、論理的に正当なものを貫けば非情だと蔑まれ、彼らに近づこうとすれば偽善だと罵られる。でも、それは私たちが当事者でないから、仕方のないことなのよ。彼みたいな存在は、むしろ稀有だと思う」


 ジーモンは黙って、二人の間にある机に目を落としていた。不意にコーヒーを飲み干すと、手の甲で口を拭い、彼は言った。


「確かに、完全に同じ立場に立つのが最終的には難しくてもさ、奴らに寄り添おうって努力すれば、限りなく奴らの立場に近づくことはできるはずだ。少なくとも、俺たちの近くに兄貴っていう奴がいるんだ。それに、越えられねえ壁は、ぶち当たって壊しちまえば良いじゃねえか」


 ジーモンの琥珀色の瞳が、しっかりとジュディを見据えた。憂いを帯びた蒼色の瞳が、ジーモンの言葉に、ふと揺れ動いた。ジーモンは歯を見せて、人懐っこく笑って見せた。


「……そうかも、しれないわね」


 ジュディはそう言うと、穏やかに顔を綻ばせた。


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