第三景 トルティーヤ
やって来た「ペレグリーノ号」に乗車し、二人は一路パリへと向かう。おしゃべりなバルバラは、車中サルヴァドーロに自分のことを色々と話して聞かせた。
バルバラの父親は世界中に支社を置く企業の駐在員で、バルバラは幼い頃からずっと父について世界中を転々とした。暮らしたことのある国の数は二十を下らないという。語学に興味のあったバルバラは引越しの度に現地の言葉を覚えたが、完璧に話せるのは、母親の母語であるオランダ語と、父親の影響で始めたエスペラントくらいだという。
「スペインには、旅行で来たのか?」
「あたしはそのつもりだけれど、表向きには里帰りよ。あたし一応、国籍はスペインだから。でも、スペインのことは何も覚えていないの。二歳になる前に離れちゃったからね。両親はオランダ語で話していたから、スペイン語は学校で勉強したの。変でしょう、スペイン語が下手なスペイン人って」
サルヴァドーロは仏頂面で黙っていた。
「ちょっと、今の、笑うところ。しんみりしないでよ」バルバラは肘で彼の横腹を突いた。
「笑えねえよ。面白くねえもん」
「どうして?」
「言葉が上手に話せようが話せまいが、お前にはスペインっていう帰る場所がある。だったらお前はスペイン人だ」
「へえ。なかなか意味深な言葉ね」彼女はサルヴァドーロを興味を持って眺めた。
「あ、私、スペイン語は下手でも、ガリシア語はそれなりに話せるわよ」
「ガリシア語?」
「うん。お父さんの生まれ故郷の言葉。ちょうどサンティアゴ辺りで話されている言葉よ。でもね、それでもあたし、スペインは自分の帰る場所だって思ったことなんて、一度もないのよ」
「国籍がそうなのに?」
「国籍なんて他人が勝手に決めたものじゃない。その場所にいて居心地が良いかどうかは、自分の心が決めるものよ。帰る場所って言うのは、自分で見つけるものなの」
バルバラの言葉を聞き、サルヴァドーロは考え込むように、窓に映る自分の顔を眺めていた。
列車は真夜中近くにパリ中央駅に到着した。しんと静まり返った駅には、自分たちを迎える影はどこにもない。ジョヴァンニのビストロは既に閉店している時間だが、それでも敢えて違う道を選ぶ。「関係者以外立入禁止」の扉を抜けて、寮の部屋の扉を開けると、開口一番、バルバラが大声で叫んだ。
「何これ! 空き巣でも入った?」
「声がでかい。あとものすごく失礼だぞ」
とは言うものの、バルバラの反応も無理もない。もともとが男二人の共同部屋なので、女性を招くのは勇み足だった。キッチンはいつかの食事で使ったフライパンが異臭を放ち、部屋には下着や靴下などが脱ぎ散らかされている。共用スペースは、ジーモンがいる間は少なくとも彼が定期的に掃除をしていた。だが、彼が部屋を出てからは、人目につかないところに頓着しないサルヴァドーロは、仕事の忙しさにかまけて片付けを怠っていた。その結果がこれである。
「まあよくこれで人を泊めようって気になったわね」バルバラは腕まくりをすると、床に散らかった服を拾い始めた。サルヴァドーロが慌てて止める。
「やめろって、汚いから!」
「汚いから洗濯するんでしょうが。言ったでしょう? あたしは借りを作るのが嫌なの。うちの両親、家を留守にすることが多かったから、こういう家事一般は子供の時から慣れているのよ。後で冷蔵庫のもの、適当に使っていい?」
「何する気だ?」
「夜食よ。あんた何も食べてないでしょう? あたしはやると決めたら譲らない人だから、早めに引き下がった方が良いわよ。シャワーでも浴びてきなさい」
バルバラはそう言うと、サルヴァドーロには目もくれず、服を拾い集め、洗濯カゴへと持っていった。彼はそれを見ると、仕方なく着替えを取りに自室に戻っていった。
サルヴァドーロがシャワーを浴び終えて出てくると、バルバラはキッチンで鼻歌を歌ってオムレツを作っていた。部屋を見渡す。ものの十五分ほどで、部屋に散らかっていた洗濯物はきれいになくなり、混沌が支配していた流し台も見違える程に磨かれ、調理道具も整頓されていた。
「お前、すげえな」思わずサルヴァドーロは声を漏らした。
「お褒めに預かり光栄です」バルバラは鼻を高くして言った。
「何作っているんだ?」
「トルティーヤ」
「何だそれ」
「知らないの?」バルバラが振り向くと、サルヴァドーロは黙って頷いた。
「スペイン風オムレツよ。あたしとスペインを繋ぐ、唯一のものかな。ていうか、あんた、ここ来るときも思ったけれど、物、知らなさすぎじゃない?」
「お前と違って、そんなにたくさんの国、行ったことないからな」
「そうかしら。世界鉄道で働いているんだもん、色んなところは見に行ったんじゃない?」
「さあな」
バルバラは思わずくすりと笑った。
「あんたの、そうムキになるところ、子供っぽいよね。ま、お姉さん、そういうの、嫌いじゃないけどさ」
「別に子供っぽくなんか……」
「ほーら、そういうところが、よ」バルバラは二重のくっきりした目で、いたずらっぽくサルヴァドーロを見た。「はい、出来上がり。熱いうちに食べよう、食べよう」
二人は窓辺に置かれた木の机に食事を並べると、席に着いた。部屋は地下にあるが、窓からはパリ中央駅の広い構内が見下ろせるので、さながら地上にいる気分だった。
「今日の昼間は、まさか自分がパリで鉄道員の家政婦さんするなんて思わなかったわ」ふざけてバルバラが言う。トルティーヤを満足げに頬張ると、柔らかな頬が薄紅色に染まる。食べ物に手をつける前に、サルヴァドーロは言葉を紡いだ。
「お前さ。さっき電車の中で、帰る場所は、自分で見つけるものって言ったよな? もしかして、それが今回の旅の目的なのか?」
バルバラは手を止め、黙って彼の蒼い瞳を見つめた。それから、噛み締めるように頷いた。
「スペインがあたしを受け入れてくれるか、なんてふうには考えない。自分の手には負えなくて、途方に暮れちゃうからね。そうじゃなくて、スペインがあたしの故郷と呼ぶに値するか、あたしが判断して、決める。馴染むかどうかじゃなく、自分がそこにいたいと思えば、それでもう、そこは故郷なのよ」
バルバラはサルヴァドーロをじっと見つめた。彼は何となく、バルバラがその目つきで同意を求めていることを察した。代わりにサルヴァドーロは、目を逸らす。
「ねえ、良かったらさ、一緒に旅、してみない?」
「どこを」
「巡礼本線」
「嫌だ。仕事でうんざりするほど行っているし」
「でも、降りて沿線を旅行することなんてないでしょう? だったらなおさ
ら」
「別に俺、旅行なんて興味、ねえし」
「つまらないこと言うわね。どうしてなの? ねえ、たまには外に出るのも
良いわよ」
サルヴァドーロはむっつりとした表情で、明かりの落ちた駅を見た。自分が改札口の向こうに行きたくない理由ははっきりとあったが、それを言うことはためらわれた。
「……分かったよ」面倒くさそうにサルヴァドーロは言った。
「やった!」バルバラは一人で手を叩いて喜んだ。「じゃあ、また連絡するわね」
「その代わり、ちゃんと切符、買えよ」
「分かっているわよ」バルバラは片手で敬礼の真似をして笑うと、トルティーヤを口に放り込んだ。
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この小説にはサンティアゴ・デ・コンポステーラを終着地とする路線が舞台の中心として登場してきます。7月25日は聖人ヤコブの日とされ、この巡礼地が一番賑わう日です。
そんな中、本日7月24日にサンティアゴ・デ・コンポステーラで高速列車の脱線事故が発生しました。事故で亡くなった人のご冥福をお祈りするとともに、救助活動が迅速に進むことを願っています。
本小説自体は既に書き上げているもので、今回の事故とは関係はありません。ただ、列車を題材にしている小説なだけに、微妙な記述があるかもしれません。ご理解・ご了承頂けますと幸いです。




