第一景 ビストロ「Sex On The Board」
時は移ろい、ジョヴァンニのビストロのカレンダーは六月になっていた。
人の噂も七十五日と言うが、めまぐるしく世界中で事件が起こる現代では、人々の関心が続くのはもっと短いようだ。一時は欧州理事会から改札口の封鎖を示唆された世界鉄道だったが、いつしかテロ事件のニュースはメディアから消えていった。ブリュッセルで起きたテロ事件の犯行グループは「クォー・ウァディース」と名乗る集団であったが、その出自が不明なまま、東欧のある国で鉄道警察によって逮捕された。世界鉄道の遅れた事故対応は非難を浴びたが、その後の鉄道警察の配備強化から犯人グループ逮捕までの動きは、ドラグロワール総社長の指揮のもと、鮮やかなほどに迅速に進んだ。「かがみぐさ」に対する疑念の声も鳴りを潜め、世界鉄道を巡る情勢は、以前の平静を取り戻していた。
一方、喧嘩別れしたサルヴァドーロとジーモンとの間には、いまだ平穏が帰ってきていなかった。あの日以来、ジーモンは部屋に戻らず、仮眠室で寝泊まりしている。同じ列車を担当しないよう、互いに敢えてシフトを変えていた。
「別にこっそり帰って寝てくればいいじゃないか。キッチンとバスルームは共有で自分たちの部屋はあるんだろう?」
ジョヴァンニはブラックコーヒーをジーモンに渡す。ジーモンは隈のできた目でカップを受け取った。
「何かそれだと、兄貴に申し訳ねえ。兄貴が俺に出した課題に答えねえで、何もなかったかのように振る舞うのは、俺には無理だ」
「何なら俺ん家に来るか? エトワール宮からすぐだしさ」
「すまんが、今は独りになりてえんだ」
「……そういうところは真面目だよな。なあ、これ、本当に食うの?」ホタテを盛った皿をジーモンに手渡す。ジーモンはフォークで口にホタテを運び、渋い顔をする。
「お前の言うとおりだったぜ」
「何が?」
「兄貴は、俺の怒りの沸点を知っていて、それを超えない範囲で憎まれ口を叩いていたんだ」ジーモンはホタテをコーヒーで流し込んだ。苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あの時、初めて兄貴の言葉に本気で腹が立った。兄貴がそうさせたかったからだ。……全部計算通りだったんだなって思うと、何か俺、自分が情けねえ」
「それで、その課題っていうのは、何なんだ?」
「分からねえ。でも、兄貴が言った言葉の中に、ヒントがあるはずだ」
「それで寝る間も惜しんで考えていると」ジョヴァンニはグラスを洗いながら言った。
「話変わるけどさ。お前にカミングアウトしたときのこと、覚えているか?」
「んー……」ジーモンは眉間に皺を寄せて考える。「……うろ覚えでしかねえ。それで?」
「あの時お前、『そんなことどうでもいいじゃねえか』って言ったんだ」ジョヴァンニは流しの水を止めた。「お前としては、俺のことを認めてくれるつもりで言ってくれたんだと思うけどさ、正直俺、ちょっと傷ついた」
ジーモンは目を丸くした。
「マジかよ? 俺、ジョヴァンニも怒らせたのか?」
「別に怒ってなんかないよ」ジョヴァンニは笑った。「どうでもいいことなんだったら、わざわざ勇気出してお前になんか言わないだろ。それか、お前にとってはどうでもいいのかもしれないな。まあとにかく、『俺ら』を毛嫌いする奴と、『そんなこと気にするな』って言う奴は、根は一緒なんだよ。どっちも自分のこととして直視したがらない点でさ」
ジーモンの瞳が揺れた。そして、伏し目がちになる。顔に一層疲れが見えた。
「おい、そんなにしょぼくれるなよな」ジーモンの肩を強く叩く。「お前、直情径行なところがあるけどさ、それがお前の良いところでもあるんだ。そのうち、トトとも仲直りできるさ。お前はあいつの弟分なんだろう?」
ジーモンは顔を上げた。そして、考えるように頷いた。
「だったらまずは、根を詰めずに、よく寝ろ。良いな?」
ジョヴァンニはジーモンの手からカップを奪い取ると、水とともにコーヒーを洗い流す。ジーモンは険しい顔をして、黙り込みながら、肩を掻いた。その動作で、ふと脳裏に、ある人間が思い浮かんだ。振り返って店内を見回すが、めぼしい人物は見当たらない。
「ところでよ、ジョヴァンニ」
「ん?」
「ピラトーって奴、ほら、俺が掴みかかったスモーカー、最近見なくねえか?」
「……そうだな。ジーモンがちょっかい出して、この店が嫌になって来なくなったのかもな」
「お前のノートにも書いていねえのか?」
ジーモンの言った「ノート」とは、ジョヴァンニが仕事の合間につけている備忘録のことだ。このビストロで起きた出来事やここを訪れる人が語った興味深い話を書きとめ、たまにジーモンたちに披露して、話の種にしているのだ。ジョヴァンニはレジスターの隣に立てかけてあるくたびれたノートを手に取り、ざっと中身に目を通した。
「……特になさそうだな。お前があのスモーカーと喧嘩したことは書いているけど」
「他に何か面白いことはねえのか?」
「面白いことと言えば、最近、キセル乗車が流行っているらしいよ。いかにバレずに遠くの国まで列車で行けるか競い合うのが、一部のネットユーザーの間で人気だとか」
「何だそれ。検札でどうせバレるだろうし、いくら遠くの国まで行けるっつっても、改札口で切符を見せればすぐに捕まるだろう」
「いかに白を切って改札口を出るのかも、キセル乗車の醍醐味らしいよ」
「お前……世界鉄道で働いている人間がそう言うか?」
「何だジーモン、そういうのには興味ないのかよ?」
「あるわけねえだろ。俺はこれでも一端の車掌だぞ?」
むくれるジーモンの顔を見て、ジョヴァンニは可笑しそうに声を立てて笑った。




