第四景 オブラドイロ広場
マリアンヌは再び目をゆっくりと開くと、窓辺に佇んでいる聖母像へ顔を向けた。神の子を懐に抱くマリア像は、マリアンヌの中でうなりを上げる嵐を宥めるように、穏やかで優しい面持ちをしていた。外を吹きすさんでいた風も、おさまってきたようだった。
今この瞬間、ジャックがいれば、どれほど心強いことだろう。マリアンヌの方針と信条を支持する人々は、世界鉄道内で未だ大勢を占めている。それでも、彼女は総社長として、毅然とした態度で、一人で決断を下さねばならない時があった。今のように。その決断を下すとき、彼女はいつも孤独感に苛まれていた。
ジャックは、あっけなく死んでしまった。
あまりにも唐突だった。
マクジョゼフでジャックと会話を交わして数日後、ジャックたちはハロルドのために盛大な誕生日会を開いた。その日、ジャックは誕生日会が成功したのに気を良くして、普段は飲まないアルコールに手を出し、ひどく酔ってしまった。友人たちはジャックと一緒に帰ろうとしたが、ジャックは自分ひとりで帰れると言い張り、ハロルドの下宿を後にした。
その翌日、付近を走る貨物線で、ジャックの轢死体が発見された。陸橋から足を踏み外し、線路の上に落ちたところを、貨物列車に轢かれた、ということだった。二人だけで話をする機会があったのは、マリアンヌが実験室を訪れたあの日が最後となった。
ジャックの死後、マリアンヌは暫く姿を見せなかった。彼女の知人たちは彼の死がマリアンヌに与えたショックのせいだと考えていた。しかし、実際には、この時期、マリアンヌは非常に不思議で奇妙な体験をしていたのだった。
ジャックが急逝してから、マリアンヌは毎日、祈りを捧げるようになった。ジャックの名前に因んで、聖ヤコブを祀る教会に毎週末のように通った。何か明確な目的があった訳ではない。ただ、そうせずにはいられなかったのだ。そしてマリアンヌは初めて、巡礼本線でサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を訪れた。
石畳に、巡礼者たちがつく杖の音が響く町。幾百キロの巡礼の道の終着点のこの大聖堂には、世界中から人々が、信仰心や冒険心から足を運んできていた。初夏の大聖堂は多くの巡礼者で埋め尽くされていた。その中で、ホタテ貝を縫い付けたつばの広い帽子の男がマリアンヌの目に留まった。心なしか、男もマリアンヌの方を見ているようだった。見知らぬ人の行き交う観光地で、不思議なことに、彼女はこの男に既視感を覚えた。
大聖堂を出て、赤い屋根の建物が立ち並ぶ広場の中を、マリアンヌは一人歩いていた。ふと、自分の足音と同じ方向に進む足音が聞こえた。彼女は振り返る。そこに、先ほどのつばの広い帽子の男がいた。男の目元は陰で見えなかった。肩からマントを羽織り、杖をついた男は、他の巡礼者とは異なる空気を漂わせていた。二人は立ち止まり、暫く互いを見つめ合っていた。やがて、男の方から口を開いた。
「貴女を、探しておりました」
スペイン語だった。マリアンヌは静かに聞き返す。
「失礼ですが……貴方のお名前は、何とおっしゃいますか?」
「聖ヤコブの弟子、テオドーロだと申し上げれば、貴女は驚かれるでしょうか?」
あたりのざわめきが全て石畳の地面に吸収され、マリアンヌの耳には二人の声しか届かなくなった。マリアンヌは黙った。
「貴女が常に聖ヤコブに祈りを捧げていらっしゃったことを、私たちはずっと見てきておりました。貴女が、聖ヤコブの名前を頂くその男に、愛情を惜しみなく注いでいたことも、私たちは気づいておりました」
「聖ヤコブの名前を持つ男とは……」
「神は貴女を慈しみ、奇蹟を貴女にお授けになりました」
「恐れ入りますが、どういうことなのでしょうか、テオドーロ様……」
テオドーロは間を置き、明快な口調で次のように告げた。
「貴女は、貴女の中に、その男を身籠ったのです。これは、貴女への受胎告知です」
マリアンヌは耳を疑った。しかし、テオドーロは微動だにしない。
「意味を明確にするためにもう一度申し上げます。貴女は、その男の子供を孕んだわけではありません。そうではなく、その男自身を、この世に復活させるために、身籠ったのです」
「私が、ジャック自身を……?」マリアンヌは混乱した。「まさか、そんなこと……」
「貴女がそれを望んだのです」
「私が望んだ……?」
テオドーロは首から提げていたホタテ貝を一つ取ると、ゆっくりとマリアンヌに近づき、彼女の首に掛けた。マリアンヌはテオドーロを恐る恐る見上げた。茶褐色の、優しい瞳。その瞳に見覚えがあったが、誰の瞳かすぐには思い出せなかった。男は被っていた帽子をマリアンヌの頭に載せた。「このつばの広い帽子が、貴女を悪しき考えから守り給わんことを」次にマントをマリアンヌの肩にかける。「この肩かけが、貴女を悪しき言葉から守り給わんことを」そして最後に、長い杖をマリアンヌの右手に握らせた。「この杖が、貴女を悪しき行いから守り給わんことを」
テオドーロは、チュニックに一枚布のトガを羽織った、ローマ帝国時代の彫刻さながらの格好をしていた。思わず、マリアンヌはテオドーロの前に跪き、その荒れた手にそっと唇を載せた。テオドーロは髭の中に隠れた口を、再び開いた。
「これから臨月までの間、貴女は一切、貴女の家族や知人に、貴女が身重であることを告げてはなりません。彼らに悟られてもなりません。そして、臨月が近づく頃に、もう一度この大聖堂にお顔をお見せください。お辛いことが続くこと、ご推察致します。その際は、どうか神に祈りを捧げてください。そうすれば、私が再び貴女を迎えに参ります」
テオドーロはマリアンヌに優しく微笑みかけ、彼女の頭を帽子の上から撫でた。
「貴女は聖なる母として、奇蹟によって身籠ったその男を生むのです。それでは、私はこれで」
マリアンヌの頭から、男の手の温もりが消えた。マリアンヌは驚いて顔を上げた。ざわめきが耳に蘇り、彼女は再び雑踏の中にいた。彼女は四方を振り返り、一枚布をまとったテオドーロを探した。しかし、この大広場に、ローマ時代の姿をした聖ヤコブの弟子の姿は、見当たらなかった。あの男は、幻だったのかもしれない。そう思ったマリアンヌの頭に、つばの広い帽子が重くのしかかった。
机に置いた手紙を、マリアンヌはもう一度手に取った。
「彼」についてお話したい。
テオドーロと出会ったのは、二度目にマリアンヌがサンティアゴ・デ・コンポステーラに訪れて以来のことだった。二人の間には、二十五年もの月日が流れていた。
ノックする音がする。マリアンヌは立ち上がると、ホタテ貝と杖を元のケースに戻し、ケースの鍵をかけて、ドアを開けた。先ほどの執事が立っていた。
「奥様。旦那様が、せめてチョコレートケーキだけでも一緒に召し上がりたいとのことです」
マリアンヌはハロルドの顔を想像して、可笑しそうに微笑んだ。
「すぐ行くと伝えてください」
「畏まりました」
マリアンヌはもう一度扉を閉め、窓際に置かれたマリア像のもとに近寄った。そして、深く祈りを捧げると、顔を上げて、部屋を出て行った。




