第二景 王家の丘
「全く、この家系には薄情な奴しかいないのか!」
芸術家の集まる場所と同時に、高級住宅街でもある、モンマルトルの丘。ここに、ひときわ大きな邸宅がある。白色の柱、朱色のレンガ、明るい青銅色の屋根で構成された屋敷は、広い芝生の庭に囲まれ、眼下に広がるパリの街を一望できる。内装は多くの宗教画が天井から見下ろし、ツタや龍の形をした優美な曲線のアーチで飾られたロココ建築で、見る者を圧倒する。ここに、世界鉄道総社長のマリアンヌと、その夫で副社長のハロルド・アンディの住まいがある。人々は畏敬と嫉視の念を込めて、彼らの豪邸を「王家の丘」と呼んでいた。
先ほどから広いダイニングに大声を響かせているのは、夫のハロルド・アンディだった。今日は彼の誕生日だった。彼は自分のために家族やメイドたちがサプライズ・パーティを開いてくれるものと踏んでいたようだった。マリアンヌの時は自分が陣頭指揮を取ってそれを実行したからだ。
「ニコラは政治ゼミが忙しいとかでスタンフォードから戻ってこない。リザはリサイタルがあるとかでローマから戻ってこない。マックスは何だ? ロンドンにいるくせに、父親のメールに返事さえも寄越さないじゃないか。こういうサプライズなんて誰も期待して……」
「貴方」長いテーブルの向こうに座ったマリアンヌが、自分の口を指差して静かに言った。「口に物を入れながら話してはいけません。お行儀が悪いですよ」
ハロルドは天井に突き上げた拳を、バツが悪そうに膝の上に戻した。「ごめんなさい、ママ」
食器とフォークの擦れる音。ステーキを口に運ぶ音。ワインをグラスに入れる音。
「貴方」
「何だい?」ハロルドの顔が明るくなる。
「今日、義兄様がエトワールにいらっしゃいました。貴方に、誕生日おめでとう、と」
ハロルドの顔がすぐに曇る。「フィリップの馬鹿兄貴なんかに祝われても、胸糞悪いだけだ。あの性悪野郎なんか、糞食らえだ」
「食事中は下の言葉は慎んでください」
「……許してください、ママ」ハロルドはしゅんとして、添え物のアスパラガスを口にした。
遠く離れた二人の間に、小さな蝋燭が、薄暗い炎を燃やしていた。スプーンでスープをすくう音。ナフキンで口の周りを拭く音。音だけで、声はない。外の風が、窓を時折強く叩いた。
「ママ」マリアンヌの手つきを注意深く見て、頃合いをはかってから、ようやくハロルドが口を開いた。「……何か、悩んでいないか?」
「そう見えますか?」
「普段はママ、スープから飲むのに、今日は、ステーキから食べている」
「そうでしたか?」
「そう」
「そうでしたか」
「……そうでした」ハロルドはパンくずをこぼしながら、フランスパンを貪った。
再び、音だけの間が続く。風は相変わらず強く吹いているようだった。
「ママ」ハロルドがまた口を開いた。
「この机、ちょっと長すぎないかい? 二人しかいないのに」
「貴方が、お客様をたくさん呼ぶかもしれないからって、買ったものじゃありませんか」
「そうだけど、客なんて誰も来ないし。もっと小さいの、買っても良いじゃないか?」
「まだ使えるのに、もったいない」
「……そうか?」残念そうに、上目遣いでマリアンヌを見つめる。
「そうです」マリアンヌはステーキに目を落としながら言った。
「そうですか」ハロルドは、つきそうになった溜息を、赤ワインで飲み込んだ。
夫婦仲が悪い訳ではない。むしろ良い方だ。ハロルドはマリアンヌのことを心から愛していた。マリアンヌも、がさつだが純粋なハロルドの愛情を受け入れていた。二人は三人の子宝にも恵まれた。大富豪の御令嬢と御曹司の夫婦なのだから、経済的にも何不自由ない。二人が対立する二つの派閥の出身であることが、幾分か夫婦仲に影を落としていることはある。だが、それとは違う別の何かが、二人の間に触れてはならない聖域のように存在していた。
マリアンヌとハロルドは、二人の親が決めた結婚で夫婦となった。彼らの結婚式を、マスメディアは「モンマルトルの驚愕」と呼んで報道した。それまで、グロワール伯爵家とスチーブンソン家は、互いに相容れない宿敵として、欧州の実業界や政界で熾烈な勢力争いを展開していた。その二家が突然、何の前触れもなしに子供たちの婚約を発表したのだから、「驚愕」とは至極妥当な表現だった。
ただ、二家の間では、この婚約は、青天の霹靂では到底ありえなかった。
今から二十五年前のことだ。当時の素晴ラシキ世界鉄道総社長であったグロワール伯ニコラ十一世は、ソ連のスタニスラヴォヴィッチ鉄道の買収計画を秘密裏に進めていた。ベルリンの壁が崩れる以前の話である。ニコラ十一世は、鉄のカーテンの下にレールを敷き、鉄道会社の大合併によって東西冷戦を終結させようと狙っていた。
しかし、その策略は途上で、アンティペーター・ポストに尻尾を掴まれてしまったのだ。この計画がその時点で世間の目に晒されれば、「世界鉄道によるソ連崩壊陰謀論」とでも名が付き、国際政治の流れにも大きく影響を与えかねなかった。アンティペーター・ポストのオーナーであるスチーブンソン家は、それを望んでいた。一方で、ドラグロワール側は当時、スチーブンソン銀行を脅威に晒すに足りる影響力を金融界に持っていた。両者の対立が激化するのは明らかだった。
長い逡巡の後、ニコラ十一世は、フィリップたちの父であるハロルド・スチーブンソンに、自分の娘とハロルドの息子との結婚話を持ちかけた。ドラグロワール側は、スチーブンソン銀行に攻撃を加えない。スチーブンソン家は、世界鉄道による買収計画のスクープ報道を放棄し、事実をシュレッダーにかけてしまう。その契約を遵守する証として、ニコラ十一世は、ハロルドの次男ハロルド・アンディを、自分の長女マリアンヌの婿として迎えた。
敵を敢えて自分の陣地に受け入れ、順化させてしまおうというのが、ニコラ十一世の目論見だった。かくしてマリアンヌとハロルド・アンディは、二家の協調の象徴として、厳密に言えば抗争終結の人質として結ばれることになったのだ。
デザートを食べ終えると、マリアンヌはスプーンを置いて、静かに立ち上がった。ハロルドの方は、まだムースを口に含んでいた。ハロルドはマリアンヌの姿を、報われない期待に満ちた目で見上げていた。
ノックの音が鳴り、執事が入ってきた。
「奥様。お手紙が届いております」
「ありがとうございます」マリアンヌは笑顔で封筒を受け取った。「誰からかしら?」
「それが、差出人の名前がないのです」
マリアンヌは執事を見ると、自分の手の中の封筒を裏返した。封筒の開け口に、ホタテ貝のスタンプが押されていた。マリアンヌは顔色を変えて、封筒を胸元に押し付けた。
「ありがとうございます」マリアンヌはハロルドに目もくれず、階段を駆け上がっていった。
「ちょっと、ママ!」驚いてハロルドは扉に向かって声を掛けた。ブロンドの眉が垂れ、緑色の瞳が潤み、ハロルドは泣きそうになる。「本当に今年は誰からもプレゼントなしだなんて……」
「旦那様」執事が言った。「私めから、ささやかながらプレゼントがございますが」
「爺や、ありがとう。またどうせチョコレートケーキだろう?」ハロルドは肩をすくめて、ムースの皿にスプーンを置いて呟いた。「……まあ、仕方ないのは分かっているけどさ。俺の誕生日になると、あいつのこと、思い出しちまうんだよ。マリアンヌも、俺も」




