北方戦争編 第八話 戦報
帝国暦459年11月15日。第一報が届いた。
「十一月四日、アイカド軍が全戦線で南へ侵攻し、北境の守備軍を包囲。守備軍は敵約三千を討ち取るも、わずか四日で潰走。指揮官十余名を斬ってなお、これを食い止められず。現在、手元に残る兵は百名に満たず、これを率いてニフォルの森で敵への襲撃を継続中。敵主力はソーン川まで、なお五日ほどの行程。陛下、何とぞお赦しを」
ゴドフリーはサディスから届いた軍報を読み終え、紙の巻物を侍衛に返した。侍衛がそれを両手でアデリウス四世に差し出すと、皇帝は、ちっと舌を鳴らした。
「あの役立たずどもも、もう少しは使いものになるかと思ったが、たった四日で潰走か。タイラル卿、参謀院には何か新しい報せはないか?」
「陛下、参謀院にも軍報が届いております」タイラル伯爵は群臣の列を離れ、玉座の間の中央へ進み出た。
「読め」アデリウス四世は王座に身を斜めに預け、傾けた頭を片手で支え、脚を組んでいた。
「はっ。今回の軍を率いるヘルグ伯爵からの軍報でございます。読み上げます」
タイラルはひとつ咳払いをした。
「中央の兵団は十一月十日、鉄籬堡とストムセに到着。鉄籬堡には重歩兵第一団約千七百名と弩兵二百名を配備。ストムセには重歩兵第二団千五百名に加え、その他の歩兵・弓兵・弩兵を合わせて三千名配備。発信の時点で、敵軍はいまだ到着していない」
タイラルは朗々と読み上げ、こちらの軍報も侍衛を介して皇帝に差し出した。そのまま口を閉ざし、皇帝の言葉を待つ。
アデリウス四世は指を一本ずつ動かしながら、王座の肘掛けを叩いている。ぼんやりしているのか、何かを考えているのか、その目からは読み取れない。長い間を置いて、ようやく口を開いた。
「我が軍は七千に満たぬ。敵は二万七千だ。諸卿はどう考える?」
「陛下、鉄籬堡もストムセも、高く厚い城壁に守られております。我が軍が城を守り抜きさえすれば、冬に入ってからはアイカド人の糧秣も次第に不足してくるでしょう。いずれ我が軍が勝利を収めます。さほどご心配には及びません」
タイラル伯爵の答えには、揺るぎがなかった。「ほかの者も、同じ考えか?」アデリウス四世は群臣を見渡した。
「はっ、陛下。我らもタイラル卿と同じ考えでございます」
群臣は口々にそう答えた。デクラスはその中に立ち、ひと言も発しなかった。皇帝がちらりとこちらへ目を向けたのには気づいたが、視線を返そうとはしない。
「では、サディスには何と返事をすればよい?」アデリウス四世はさらに問う。
「陛下、サディス卿がすでにニフォルの森にいるのであれば、そのまま敵の後方を攪乱させ、どうにもならぬ場合にのみストムセへ退かせるのがよろしいかと存じます」タイラルは落ち着いた声で答えた。
「では、そうしよう」玉座の間での会議が終わり、群臣は高く重厚な扉から次々に出ていった。階段の上に立ち、タイラル伯爵はようやく安堵の息をついた。
「デクラス卿」ちょうどそばへ来たデクラスを見て、伯爵が声をかける。
「伯爵閣下。何でしょうか」
デクラスは階段の上で、その隣に並んだ。「いや、これでようやく、しばらくは安心していられると思ってね」タイラルの眉間からは皺が消え、口元には笑みが浮かんでいる。
「おや、伯爵閣下。それはどういうことですか?」デクラスが尋ねた。
「卿の策どおり、これからは守城戦だ。兵力には大きな開きがあるが、あの二つの城もそう簡単には落ちまい。敵の糧秣が尽きかけるのを待てば、戦も終わるだろう? 前線の若者たちには、しばらく辛抱してもらうことになるがね」
笑って語る伯爵は、すっかり勝利を確信しているようだった。
「そうですね。そのとおりに運べば何よりです。ただ、伯爵閣下、どうか油断はなさらぬよう」
デクラスも微笑んで応じた。
「おや、そうかね。もしものときは、また卿を頼らせてもらうよ。ははは」
タイラルは声を上げて何度か笑い、デクラスの肩をぽんぽんと叩くと、大階段を一人で下りていった。
デクラスが家に戻ると、ファスビンダーは礼服の上着を受け取って掛け、上から下へ手で撫でつけた。わずかな皺も、できるだけ伸ばすように。
「ずいぶん気が楽になったようですね、閣下」
デクラスは微笑んだ。
「ファスビンダー、このあと少し、散歩につき合ってくれないか?」
「おや、今日はそういうお気分ですか?」
デクラスは寝室の衣装戸棚から、厚手で動きやすい普段着の上着を取り出し、袖を通そうとしていた。
「六月に投獄されてから、もう半年近くになる。心が浮き立つほどではないが、ようやく、しばらくは気を楽にしていられそうだからな。あまり寒くならないうちに、少し歩くのもいいだろう?」
ファスビンダーは温かな笑みを浮かべ、返事の代わりに、自分の上着を取り出して羽織った。
「馬車を一台、呼んできてくれ」
「はい。どこへ行きましょう?」
デクラスは少し考えた。
「街の西にあるコリンズ公園へ行こう」
馬車の揺れは穏やかだった。冷気を含んだそよ風が窓から吹き込み、デクラスは思わず上着の襟を引き上げる。窓の外のルキウス大通りには、いくらか賑わいが戻っている。夏のような喧騒こそないが、通りを行き交い、さまざまな店を出入りする人々の姿が見えた。ヤラの惨禍は忘れられはじめ、人々は日々の暮らしに戻りつつあった。
馬車は彫像の下で西へ曲がり、城壁が遠くに見えるところまで走って、コリンズ公園の入口に止まった。ファスビンダーが先に飛び降りて扉を押さえ、デクラスがゆっくりと降りる。
主従は広い公園を歩いていた。道の両側の木々は、針葉樹を除けばほとんどが葉を落とし、裸の枝ばかり。ときおり枝先に一枚、二枚と残った紅葉が、風に揺れている。初冬のせいか、人影もまばらだった。革のボールを手にした子供が一人、二人と走り抜け、貴族らしい身なりの娘たちが連れ立って歩いてゆく。
公園の中央、池のほとりにあるティーハウスは、値が張るだけに客の大半が貴族だった。二人が適当に空いた席を選んで腰を下ろすと、蝶ネクタイをした給仕が微笑みながら注文を取りに来た。温かいハーブティーを一ポット頼み、あとは手持ち無沙汰に、さざ波の立つ池の水面を眺めるばかり。
「やっぱり、平和がいいな……」
デクラスは何気なくそう漏らし、言葉を継いだ。
「あの水面を見てみろ。ときには小さな波も立つが、たいていは穏やかだ。それでいいじゃないか。何も、いつも荒波を立てなくても……」
ファスビンダーに話しているようでもあり、独り言のようでもあった。
ファスビンダーもその視線を追って、池を眺める。ちょうど風がやみ、水面は再び静まっていた。まわりの木々の緑と、晴れ渡った空が映っている。
「一つ教えていただけますか。馬鹿な質問かもしれませんけど」
水面を見つめたまま、ファスビンダーは静かに言った。
「何だ? 遠慮せずに聞いてくれ」
デクラスは上等な銀製の小さなカップを持ち上げ、茶を一口すすった。
「アイカドはあれだけ土地が広くて、人は少ないでしょう。鉄や銅も豊富にある。それなのに、どうしていつも我が国を襲うんでしょう。あの地で穏やかに暮らしていれば、いいんじゃないですか?」
ファスビンダーは、教えを請うような眼差しを向けた。
「まず一つ。西大陸の女神暦で数えて千四百余年の間、アイカドは、この大陸のいかなる王朝にも国にも征服されたことがない」
デクラスはもう一口茶を飲んでカップを置き、茶色の髪に縁取られた、どこか憂いを帯びた顔に目を向けた。
「二つ目だ。ファスビンダー、お前が一国の王だったとしよう。国には鉱物資源が豊富にあるが、交易路には恵まれていない。しかも寒さが厳しく、広大な凍土を抱え、食べ物の種類も少ない。お前ならどうする?」
ファスビンダーは真剣に考え込んだ。答えを口にする前に、デクラスが続ける。
「別の例を挙げよう。お前は私の侍従騎士だ。ところがある日、お前が稼ぐ金も、育てる穀物も、私より多くなった。私は手を差し出して、金をくれ、穀物をくれと言うばかり。お前ならどうする?」
「それは、全部閣下に差し上げますよ」
心からそう言っているファスビンダーを見て、デクラスは思わず吹き出した。
「いや、私が悪かったな。お前と私の話はやめよう。別の誰かと、その臣下だと考えてくれ。その臣下はどうすると思う?」
「ああ、それなら、主君のもとを離れて、自分で暮らすんじゃないでしょうか」
「そうだ。二百年以上前に、グラテンがやったのは、それだよ」
ファスビンダーの顔が、ぱっと明るくなった。デクラスを見る目に光が宿る。
「わかりました」
ところがデクラスはカップを手に、首を横に振った。
「いや、私が言いたかったのは、戦争というものがなぜ愚かなのか、ということだよ。そこまで強く求める必要もないものを、執拗に追い求める者がいる。一方では、道理にかなった要求を通すために、いちばん暴力的な手段に訴える者もいる」
デクラスが空になったカップを置くと、ファスビンダーはすぐに茶を注ぎ足した。
いったん晴れた表情が、また重くなる。長いこと考えた末に、ファスビンダーは一言だけ口にした。
「閣下、覚えておきます」
主従はそれぞれ茶を飲み、黙り込んでいた。長い沈黙のあと、そろそろ気楽な話でもしようかというところへ、二人の娘が、一面に模様を刺繍した厚手のドレスをまとい、優雅な身のこなしで卓の前にやって来た。
「どちらのお家の方ですか? 私の友人が、あちらでずっとあなたを見ていまして。よろしければ、少しお話ししませんか?」少し手前に立っていた娘が言った。後ろの娘は恥ずかしそうに、友人のドレスの襟元を引いている。
「おや? 私はデク……」名乗りかけたデクラスを、娘が遮った。「失礼ですが、従者の方には聞いていません。あなたのご主人に伺っているのです」ほう、私が従者で、ファスビンダーが主人というわけか。デクラスは訂正せず、おとなしく口を閉じた。困惑した顔のファスビンダーを、面白そうに眺めている。
「あの、お嬢様、何か誤解なさっているようです。私は侍従騎士のファスビンダーです。こちらが私の主、デクラス男爵です」言って、ファスビンダーは気まずそうに笑った。貴族の娘はファスビンダーを見て、それからデクラスを見た。
「冗談はおやめください。あなたは顔立ちも整っていて、背筋もすっと伸びているでしょう。ひと目で、品行方正な貴族の方だとわかります。こちらの方は髪もぼさぼさで、無精髭も伸びたまま。男爵様のはずがありません」
「え? 私か? これは、さっき風に吹かれて……」デクラスが弁解しかけると、娘は見るからに不機嫌になった。むっとした顔で二人を見て、くるりと向きを変え、友人を引っ張って歩き出す。
「行きましょう、ゴシア。この方、嘘ばかりおっしゃるわ。あなたが好意を寄せるような方ではないわ」そう言って、ゴシアという娘を強引に引っ張り、足早にティーハウスを出ていった。ゴシアは名残惜しそうに、何度も振り返ってファスビンダーを見た。
「ところで、ファスビンダー……」デクラスはにやりと笑い、意味ありげに言った。「え? 何ですか、閣下」ファスビンダーはまだ、さっきの一件に戸惑ったままだった。
「お前も、私よりほんのいくつか年下なだけだろう。とっくに妻子を持ってもいい年だ。この戦が終わったら、私が縁談を探してやろうか?」デクラスの目が、悪戯っぽく光っている。
「閣下……からかわないでくださいよ。私はただの農家の息子ですから」ファスビンダーは頭を掻いた。
「なあ、さっきのゴシアという娘はどうだ? どこの家の娘か、聞いてみようか?」「閣下! わ、私は先に勘定を済ませてきます」ファスビンダーは立ち上がり、店主のほうへ足早に歩いていった。あとに残ったデクラスは、座ったまま声を上げて笑っている。だがファスビンダーは、ゴシアの消えたほうへ、こっそり二度、目をやった……。
それから半月ほど。帝国は冬を迎え、初雪が通りや屋根に降り積もっていた。人々が道具を手に通りの雪をかいているところへ、早馬が第二報をもたらした。
「三日前、敵軍約二万が鉄籬堡およびストムセに初の強襲を敢行。我が軍はこれを撃退。敵の死傷者数千、我が軍の損害は軽微。陛下、どうかご安心を」タイラル伯爵が軍報を衛兵に渡し、笑みを浮かべて元の位置に戻ると、玉座の間にはたちまち歓声と賛嘆の声が湧き起こった。アデリウス四世はひとつかみの飴を口に入れ、ようやく、いくらか不気味さの薄れた笑みを浮かべた。
「ヘルグ卿に返書を送れ。余は大いに喜んでいると伝えよ。凱旋の暁には、必ず厚く報いてやろう!」玉座の間を出て階段を下りたところで、今度はデクラスのほうから、笑顔で立ち去ろうとするタイラル伯爵を呼び止めた。
「伯爵閣下、少々お待ちください」「どうした、デクラス卿。何か用かね?」
「大したことではありません。今日の軍報で、我々の策が正しいこともひとまず確かめられましたし、私も嬉しく思っています。ただ、一つお聞きしたいのですが、今回の軍を率いるヘルグ伯爵は、頼りになる方なのでしょうか?」デクラスは笑みを浮かべたまま、声を落として尋ねる。ほかの者には聞かせたくないらしい。
「デクラス卿、どういう意味かね?」タイラル伯爵には、問いの意図がよくつかめない。
「伯爵閣下、ヘルグ伯爵については、若いころ北境を守り、長年アイカド人を相手にしてきたと聞いているだけです。その後、帝都へ転任してからは、ほとんど戦に出ていないとか。今回、主将に推したのも陛下と宰相閣下でした。ですから、もう少し詳しく知っておきたいのです」
「ああ、そういうことか。それなら心配はいらんよ。ヘルグは以前、軍事学院でも学んでいてね。兵を率いて攻めるのはあまり得意ではないが、拠点の守りを任せるだけの力はある。今回の陛下と宰相の任命に、私は問題はないと思っているよ」タイラル伯爵はにこやかに答えた。
「そうですか。それなら安心しました」別れを告げたあと、デクラスは風に身を震わせた。外套をかき合わせ、雪かきの済んだばかりの石畳を踏んで、内城の門の外へと歩いていった……。




