北方戦争編 第六話 方策
帝国参謀院の会議室で、デクラスはタイラル伯爵が平静と体面を保とうと努めているのを見て取った。デクラスの観察眼が格別に優れていたからではない。額の皺の間に浮いた細かな汗の粒が、伯爵を裏切っている。
首席の席の隣には椅子が一脚、追加されていた。そこに座っているのは、帝国宰相ゴドフリー。
「タイラル卿、さて、そろそろ会議を始めようかね?」にこにこと穏やかな声で促すゴドフリーに、タイラル伯爵はひとつ咳払いをして応じた。
「諸君、昨日、玉座の間で陛下から、四日以内に敵を退ける策を出すよう命じられた。今日もまだ新たな詳しい情報は届いていないが、まずは、情報にさほど左右されぬことから話し合ってみてはどうだろう。デクラス卿、どう思う?」
言い終えると、タイラル伯爵はすかさずデクラスに目をやった。助けを求める目だ。
デクラスは上体を少し動かして背筋を伸ばし、参謀たちを見たあと、ゴドフリーに目を向けた。「皆様、ゴドフリー閣下。昨日、陛下から四日という期限を与えられましたが、この参謀院にお集まりの皆様のお力をもってすれば、さほど難しいことではないでしょう。宰相閣下、ちょうどこの席におられることですし、まずいくつか、確かめておきたいことがございます。伺ってもよろしいでしょうか」
デクラスは明瞭な声で言った。ゴドフリーは目を細めて微笑んでいる。ここが参謀院でさえなければ、白い髭をたくわえた、ごく普通の人のよさそうな老人に見えただろう。
「もちろん、もちろん。デクラス卿、何を聞きたいのかね」ゴドフリーはゆったりと答えた。
「北境で直ちに動員できる徴集兵と民兵は、合わせて何人おりますか」「八千ほどだ」
「我が国に今ある食糧で、どれほどの規模の軍を養えますか。また、どれほどの期間もちますか」
「女神のおかげで、今年は豊作だった。ヤラの戦いのあとも、まだ余りがある。一万の兵を戦に出すなら、半年ほどはもつだろう。中部と西部の民からさらに食糧を徴発すれば、一年もつかもしれん」
「現在、国庫に余裕はありますか」「十分にある。ただ、具体的な数字は財政官に聞いてくれ」
「皇帝陛下直属の鉄翎軍二千は、動かせますか」「動かせない」
ひと通り尋ね終えると、デクラスは満足げにうなずいて、宰相に謝意を示した。「いやはや、デクラス卿は実に手際がよいね」ゴドフリーが褒めた。
この宰相閣下も、まったく侮れない。処刑を見て怯え、目を覆うだけの老人ではないというわけだ。デクラスは参謀たちに目を向けた。
「では、話し合いましょう。今ある情報をもとに、何か考えのある方は遠慮なくおっしゃってください」
会議室はたちまち、意見を交わす声で満ちた。左右の者と話し合う者もいれば、腕を組み、一人で考え込む者もいる。ほどなく、下座のほうに座っていた若い参謀が立ち上がった。
「皆様、発言してもよろしいでしょうか」若い参謀はタイラルに目を向けた。伯爵のうなずきを受けて、話し始める。
「宰相閣下、伯爵閣下、男爵閣下。詳しい情報の有無にかかわらず、国境の徴集兵と民兵は直ちに動員すべきだと考えます。また、国境に住む者すべてに、手持ちの食糧を残らず携えて南へ移るよう、ただちに命じるべきです」
若い参謀はいったん言葉を切る。上席の三人は、誰も何も言わない。タイラル伯爵が手を差し出し、続きを促す。
「失礼いたします」そう断って席を離れると、若い参謀は三人の背後に掛けられた大きな軍用地図へ、足早に歩み寄る。三人も体を向け直し、若者に目を注いでいる。
「ご覧ください。まず、北の国境地帯の住民と糧秣を速やかに南へ移します。住民が去ったのち、北の国境を守る徴集兵と民兵は、ただちに防衛線を放棄し、南の、森に覆われたニフォル丘陵まで撤退し、遊撃戦でアイカド人をこの一線に釘づけにするのです……」
若い参謀は、地図上で国境の南に細長く延びる丘陵地帯を指しながら、自らの策を説明してゆく。デクラスは顎を指でつまみ、興味深げに耳を傾けている。二日前に自分が思いついた策と、重なるところはある。だが、この案では駄目だ。その判断を、口には出さなかった。
説明を終えた若い参謀は、三人に丁寧に頭を下げ、足早に自分の席へ戻って腰を下ろした。タイラル伯爵が微笑みを浮かべ、一同を見渡す。「ほかに、何か考えのある者は?」
もう一人の参謀が、どこか遠慮がちな様子で立ち上がった。「宰相閣下、伯爵閣下、男爵閣下。考えていたのですが、いま国庫に余裕があるのなら、南の国々から食糧を買い入れることはできないでしょうか」慎重な口ぶりだ。
「ほう、食糧を買う? グラテンと戦を終えたばかりだというのに、グラテン人が我々に食糧を売ってくれると思うのかね?」ゴドフリー宰相は眉をひそめた。
「いえ、宰相閣下。もちろん、グラテンから直接買うのではありません。暖陽海の都市国家を通じて買い入れるのです。たとえば、ティバラやヌリシアなどです。食糧を船に積み、船団で暖陽海から沈暮海へ回って、帝国の港から直接、北の前線へ運ぶのです」
ほう、これはいい考えだ。デクラスはタイラル、ゴドフリーと視線を交わした。
「君、そのやり方では軍糧の値がずいぶんつり上がり、国庫から大金が出ていくことになる。その点はわかっているかね?」ゴドフリーはにこにこと尋ねた。
「はい、承知しております。ですから、国庫に余裕があることが前提になります。暖陽海の都市国家は、金さえ払えば何でもしてくれます。軍糧をもっと蓄えられれば、消耗戦でアイカド人を潰すこともできます」話すうちに、参謀の口ぶりには次第に自信が満ちてきた。
デクラスは黙ってこの参謀を見つめ、先ほど発言した若者にも目をやった。二人とも、粛清のあとに新たに参謀院へ入った者ではなかったか。帝国にも、まだなかなかの俊才がいるではないか。その思いを、タイラル伯爵の声が遮った。
「デクラス卿? 何か言うことはないか?」デクラスは顎から手を離して姿勢を正し、顔をタイラル伯爵に向けた。
「お二方、今のところ、私から付け加えることはありません」少し間を置き、今度は宰相ゴドフリーに目を向ける。
「宰相閣下、私も、北境の徴集兵と民兵は直ちに動員すべきだと考えます。北境の民には、いつでも南へ移る準備を整えておくよう伝えるべきです。また、南の都市国家から食糧を買えるのであれば、それも直ちに着手すべきだと考えます」
先ほど発言した二人の参謀は、認められたかのように、ともに顔を輝かせた。ゴドフリーはうなずいて立ち上がった。
「どうやら宰相の私にも、まだまだ仕事がありそうだね。では、今日は先に失礼するとしよう。四日の期限まで、あと三日。参謀院の諸君なら、見事な成果を上げてくれると信じているよ」
一同が立ち上がって宰相を見送ると、タイラル伯爵は長く息を吐き、会議の終了を告げた。参謀たちは次々に席を離れ、日々の職務へと戻ってゆく。デクラスも退席の挨拶にうなずきかけたところで、タイラルに呼び止められた。
「デクラス卿、今夜、うちへ食事に来ないか?」タイラルはすっかり力を抜き、椅子の背にもたれている。デクラスは少し考え、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「お招きありがとうございます、伯爵閣下。明日はいかがでしょう。明日で三日目です。新しい情報が届いても届かなくても、必ずお屋敷へ伺います。そのときには、ご安心いただけるはずです。今日は戻って、自分の策をもう少し練り上げます」
「ほう。では卿は、先ほどの参謀の作戦案には賛成していない、ということか?」
「はい。賛成できません」タイラルは膝の上で両手を組み、またかすかに眉を寄せて、しばし考え込んだ。
「では、せめて卿の策にどれほどの勝算があるのか、先に聞かせてもらえないか?」デクラスは微笑んだ。「伯爵閣下、最悪の事態を想定して、手堅い策を立てます」
声はごく静かだが、口調に揺るぎはない。タイラル伯爵も、その言葉に幾分か安心したようだった。
「よし、では行くといい。そこまで言うのなら、卿にはもう成算があるのだと信じよう」
「はい、閣下。それでは失礼いたします」
翌日、宰相ゴドフリーは参謀院に姿を見せず、タイラルも全体会議を開かなかった。夕刻、早々に貴族の礼服に着替えたデクラスが自宅で待っていると、家の前に大きな馬車がゆっくりと止まった。ファスビンダーはデクラスの襟元で、長い端を垂らしたリボンタイを丁寧に整えてから、ひと言尋ねる。
「閣下、今夜は夜食をご用意いたしましょうか?」
「いや、今夜は早く寝る。明日の朝は皇帝の相手をしなければならないからな」
ファスビンダーは笑って、牛革の筒形の袋を差し出すと、玄関の扉を開けた。馬車は帝都東区の高官たちの屋敷が並ぶ一角へと、揺れも少なく進んでゆく。やがて堂々とした大邸宅の前で止まり、デクラスは執事に食堂へ案内された。タイラルとその妻、息子が、すでに立って待っていた。ひととおり挨拶を交わして席に着くと、執事と使用人たちが料理を一皿ずつ運び始めた。デクラスは食堂のしつらえに目をやる。四方の高い壁には古典的な趣の絵画が掛かり、精巧な細工を施した銅の壁灯がぐるりと並んで、柔らかな光を放っている。長大な食卓の中央には、大きく華やかな銀の燭台。料理を盛る皿も、目の前の食器も、いずれも帝国の上等な銀器だった。
「デクラス卿、そう遠慮せずにな。これからも、いつでもうちへ来てくれるといい」
タイラルはにこやかに言った。妻もまた、落ち着いた物腰で、品のある貴族の女性だ。息子は三十歳ほどに見え、デクラスよりせいぜい数歳若いくらいだろう。タイラルが合図をして先に料理に手をつけると、皆もそれに続いた。デクラスは煮た白鰱の身を銀のフォークで一切れ取り、口へ運んだ。途端に、魚の汁気と旨味、幾重にも重なる香辛料の香りが、口いっぱいにはじける。デクラスはゆっくりと、味わいながら噛みしめた。伯爵と親しくなれば、たまに飯をご馳走になりに来るのも悪くない。少なくともこの先半年は、懐具合からいって、こんな料理にはそうそうありつけまい。
「デクラス、前から聞きたかったのだが、君は帝国軍事学院の出ではないのだろう? 私は学院に二十年以上勤めていたが、君のことはまるで覚えがない」
タイラルは杯の葡萄酒をひと口飲んだ。その豊かな果実の香りだけで、グラテン王国の逸品と知れる。
「伯爵閣下、確かに私は軍事学院の出ではありません。ご記憶にないのも無理はありません」デクラスは焼いた鵞鳥の腿肉をもうひと口食べ、ナプキンで口を拭ってから続けた。
「故郷は東境にあります。初めは自分の領地で兵を率いて盗賊を討っていました。その後、帝国の北東国境の軍で書記官を務め、やがて参謀になりました。最後に、推薦を受けて帝都の参謀院へ来たのです」
タイラルはナイフとフォークを置き、笑みを浮かべてデクラスを見た。「いやはや、実戦で鍛えられてきたのか。これは得難い人材だね。うちの倅にも、地方の部隊で経験を積ませたいのだが、どうにも軍事には興味がなくてね。学問や研究ばかりやりたがる」
「まあ、何をおっしゃいます。学問だって結構なことではありませんか。少なくとも、毎日この子の身を案じずに済むでしょう」
タイラルの妻がそう口を挟み、息子に目をやった。「ええ、伯爵閣下。奥方のおっしゃるとおりです。このご時世、家族が戦火から遠く離れていられるなら、それが何よりでしょう。戦は我々が引き受ければいいんです」
デクラスも杯を取り上げ、葡萄酒をひと口飲んだ。葡萄酒の良し悪しはわからないが、なかなかうまい。故郷では、酒といえば杏の酒だった。
幾度か杯を重ね、食事も半ばに差しかかっていた。タイラル伯爵が上機嫌に昔話をしていると、食堂の扉を叩く音がして、伝令兵が慌ただしく入ってきた。慎重に一同を見回し、一瞬、ためらいの色を顔に浮かべる。この場で話してよいものか、迷っているらしい。
「構わん。話してくれ」タイラルは口を拭って促した。
「はっ。アイカドにいる密偵より急報です。敵兵およそ三万が集結し、国境へ向けて移動中です。軍旗の中にアイカドの王旗が確認されており、王族が指揮を執っている可能性があります。騎兵は確認されておらず、今のところ目撃されているのは歩兵と弓兵のみです」
報告を終えると、伝令兵は一礼し、踵を返して出ていった。食堂の空気が一気に重くなった。タイラルに先ほどまでの楽しげな表情はもうない。妻と息子も急に顔をこわばらせ、三人とも食事の手を止めて、なおも肉を口に放り込んでいるデクラスを見つめている。
デクラスは身に注がれる視線の熱を感じ、肉を噛みながら顔を上げて、タイラル一家を見た。急いで鵞鳥の肉を飲み込み、真顔になる。
「伯爵閣下」タイラルはすぐに息を詰め、次の言葉を待った。
「南の国の唐辛子を、少し買い入れさせてはいかがでしょう」「デクラス卿、それには何か深い意味があるのかね?」
「いえ。ただ、この鵞鳥の腿肉は、焼くときに南の国の赤唐辛子を少し使えば、もっとおいしくなると思いまして」
「ほう、そうか? はははは。デクラス卿が美食家とは知らなかったな」
タイラルは大声で笑い、妻と息子も笑い出した。やがて皿はどれも空になり、伯爵夫人は息子を伴ってデクラスに丁寧な挨拶をし、食堂を出ていった。デクラスは酒も十分に飲み、腹も満ちている。そろそろ、伯爵の期待に満ちた眼差しに応える頃合いだ。
「伯爵閣下、誰かに食卓を片づけてもらえますか。私は先に手を洗ってきます。地図に脂がつくといけませんから」
デクラスはそう言って立ち上がり、執事に案内されて手を洗いに向かった。その間にタイラル伯爵は使用人に命じ、テーブルクロスを外して食卓を手早く片づけさせた。
デクラスは戻ると、持参した牛革の筒形の袋から、巻いた大判の地図を指先でつまみ、慎重に引き出した。燭台の明かりの下、食卓にそれを広げ、落ち着いた口調で話し始める。
「伯爵閣下、先ほどの敵情は、私の予想の範囲内です。昨日の参謀の作戦案に私が賛成しなかった理由も、これで改めて裏づけられました」デクラスは、昨日あの参謀が指し示したニフォル丘陵を、地図の上で指さした。
「ここは山林が多く、遊撃戦には適しています。ですが、森や山での遊撃戦なら、アイカド人のほうが我々より長けています。敵が三万の兵をいくつかの兵団に分け、山や森の中でそれぞれ独立して戦わせれば、我が軍の遊撃部隊は身を隠す場所さえ失うでしょう」
タイラルは食卓に身を乗り出し、地図を丹念に見ながら、しきりにうなずいている。
「伯爵閣下、私の策では、全軍をさらに大きく後退させます。ここまでです」
デクラスは地図の上で指をさらに南へ滑らせ、川沿いの一点で止めた。そこには、一つの城堡と一つの軍鎮が記されている。
タイラル伯爵は驚いて顔を上げ、自信に満ちたデクラスを見つめた。
「帝国北部の領土の半分を、そのままアイカド人にくれてやるというのか?」
「はい、伯爵閣下。そのつもりです。詳しくご説明しますので、どうかお聞きください」
タイラルは何も言わず、椅子に腰を戻した。地図を食い入るように見つめている。
「このソーン川は、帝国最大のジラス川の支流で、冬でも凍りません。ご存じでしょうが、ここから南へ、ジラス川までの一帯が、帝国で最も重要な穀倉地帯です。そして、この北岸にあるのが鉄籬堡。ソーン川を背に、高く堅固な城壁を備えています。そこから十里足らず下流の南岸には、ストムセという軍鎮があります。堡と軍鎮を合わせれば、一万から一万二千ほどの帝国兵を収容できます。互いに援護し合える位置にあり、川を渡る唯一の石橋は、軍鎮の近くにあります」
タイラルは思考を目まぐるしく巡らせ、淀みなく続くデクラスの説明を追っていた。
「伯爵閣下、今回のアイカドは、私の予想どおり、帝国を滅ぼしに来ています。ならば、二つの川に挟まれた穀倉地帯こそ、敵が真っ先に狙う場所です。鉄籬堡から北へ、ニフォル丘陵までの間には、比較的広い平原が続いている。ここではアイカド軍も、兵団を投入しての攻城戦を強いられます。彼らの得意とする戦い方ではありませんし、騎兵がいない以上、迅速な機動もできません。ここを攻めずに迂回するなら、こちらから補給線を叩けます。ですから、まず北境の民をソーン川の南岸へ移す。そのうえで、北境の部隊、中央直属の重歩兵や軽歩兵、弓兵などの部隊、それに糧秣を、すべて鉄籬堡とストムセへ移すのです。ここで敵を一挙に打ち破れなくとも、この二か所さえ守り抜けば、持久戦でアイカド人を潰せます」
「卿の策はわかった」
地図を見つめるタイラル伯爵の目に、かすかな光が宿った。
「野戦を避け、我々の不利を抑え、強みを生かす。確かに万全の策だ。だが、皇帝がどう考えるかは、わからんな」
タイラル伯爵は立ち上がり、デクラスの肩を軽く叩いた。
「よくやってくれた。明日の玉座の間では、私から話そう」
デクラスが馬車で家に戻ると、ファスビンダーはすでに大きな桶に湯を張り、温かい牛乳も用意していた。
「閣下、今夜の会食はいかがでしたか」
ファスビンダーはデクラスが礼服を脱ぐのを手伝い、脱いだ服をきちんと掛けた。
「ファスビンダー、伯爵の屋敷はなかなかいいな。いずれ我々もあの辺りに一軒買って、引っ越すというのはどうだ?」
「閣下、まずは今年を乗り切る算段が先でしょう」
ファスビンダーはそう言った。
期限の最終日、玉座の間。
タイラル伯爵が、昨日届いた詳しい情報を居並ぶ王公大臣に報告すると、玉座の間はどよめきに包まれた。続いて、デクラスの戦略を余すところなく説明した。
アデリウス四世は黄金の王座に座り、少しも顔色を変えない。何事もなかったかのような平静な表情のまま、左手で飴を一粒つまんで口に入れ、指先をすり合わせた。
「これもまた、デクラス卿の策か?」アデリウス四世は笑みを浮かべた。
「陛下、デクラスが立案した策であり、私をはじめ参謀院の全員が認めた策でございます」タイラルは泰然として答えた。
皇帝は群臣の中に立つデクラスを一瞥した。
「諸卿が皆、賛成しているのなら、余もこれ以上は問わぬ。余からは、一つだけ手直しの案を出そう」
「陛下、お聞かせください」タイラルは謹んで耳を傾けた。
「サディス卿」アデリウス四世が名を呼ぶと、その傍らに立っていた鉄翎軍の将が、重い精鋼の鎧をまとって玉座の間の中央へ進み出て、命令を待った。
「鉄翎軍二百名を率い、急ぎ北境へ向かえ。徴集兵と民兵の指揮を執り、必ず五日間、守り抜け。戦を恐れて逃げる者は、その場で斬れ。五日後、撤退する際には村を残らず焼き払え。行け」
「はっ、陛下」サディスと呼ばれた将は、うなずいて一礼し、踵を返して足早に玉座の間を出ていった。
その命令に何の意味があるのか、デクラスにはどうしてもわからない。両手を背に回し、拳を握りしめたまま、群臣の列を離れて玉座の間の中央へ進み出た。
「陛下、率直に申し上げることをお許しください。このような犠牲は、まったく必要ではございません」デクラスは落ち着いた口調で、自らの考えを皇帝に告げた。タイラル伯爵はデクラスへ顔を向け、目を大きく見開いた。その顔には、わずかな狼狽が見える。
「ほう? デクラス卿は、余の命令が余計だと言うのか?」アデリウス四世は少し身を乗り出し、デクラスをじっと見据えた。
「いえ、帝国をお守りになろうとする陛下のご決意は、承知しております。ただ、北境の部隊も一刻も早くソーン川へ撤退させれば、我々の得意とする守城戦に、より多くの兵を投入できると――」
「どうやらデクラス卿は、余を誤解しているようだな」アデリウス四世はデクラスの言葉を遮り、そのまま続けた。「北境の徴集兵が敵を数日足止めできれば、中央の兵団がソーン川の城堡に入るにも、もっと時間の余裕ができるではないか。それに、あれほどの徴集兵や民兵が皆、ソーン川まで退いてきたところで、中央の兵団の軍糧が無駄に減るだけではないか。だから、余に忠義を尽くす機会を与えてやろうというのだ。何か悪いことでもあるか?」
デクラスは返す言葉を失った。人命を顧みない、最も冷酷な戦略の見地に立てば、皇帝の言うことは疑いなくすべて正しい。自分を慈悲深い人間だと思ったことはなく、自らの策で人が死ぬことにも抵抗はない。いつも、できるかぎり少ない代償で戦に勝とうとしてきた。だが、その計算式で犠牲の妥当性を決めるのは、死者と引き換えに得られる戦略的意義だ。北境で抵抗しなくとも、この戦には勝てる。その自信はある。だが、皇帝と帝国にとって、中央の兵団の到着を確実にし、糧秣を十分に確保することには、戦略的意義がある。その意義を否定できる理由は、デクラスには何ひとつなかった。
「失言いたしました。どうかお赦しください、陛下」デクラスは頭を下げ、真摯に詫びた。
アデリウス四世は突然、声を上げて笑い出した。しばらく笑いつづけ、ようやく静まると、飴を盛った金の皿から一粒取り、デクラスへ無造作に放る。デクラスはそれを危なげなく受け止める。
訳もわからず、思わず顔を上げる。その視線が、軽蔑を帯びた皇帝の眼差しとぶつかる。
「卿の策は実に見事だ。余がそなたを罪に問うはずがなかろう」アデリウス四世はひと呼吸置き、言い添える。
「飴を受け損ねれば、それこそ大罪だ」
デクラスは慌てて頭を下げる。
「承知いたしました」
そう答えて急いで脇に控える群臣の列へ戻り、もう一度手を開いて飴に目を落とした。そこで初めて、掌が冷や汗でびっしょりと濡れていることに気づいた。
アデリウス四世は立ち上がり、階段の手前まで進んだ。片腕をひと振りすると、鮮紅のマントが背後でひるがえる。
「諸卿、これより帝国は北方の蛮人との戦に入る。心を一つにし、力を合わせよ。戦機を逸する者、配備の命令や軍の指揮に従わぬ者は――死罪だ!」




