北方戦争編 第五話 訓練
その朝、サバルトとエドヴォンスは、突然鳴り響いた聞き慣れた角笛の音に叩き起こされた。二人は反射的に板張りの寝台から跳ね起き、寝ぼけたまま駐屯地の中央にある訓練場へ駆け出した。
日が昇ってまだ間もない。秋の夜の湿った冷気はようやく薄れたが、朝の風にはまだ冷たさが残っている。サバルトは風に身を震わせ、その冷たさで頭も少しはっきりしてきた。目をこすり、辺りを見回す。訓練場には、薄着の兵が二十数人。誰もが寝ぼけ眼で、まだぼんやりと立っている。
訓練場の中央には、サバルトがこれまで見たことのない士官が立っていた。よく磨かれた帝国重歩兵の鎧を身につけ、兜を片脇に抱え、もう一方の手には角笛を持って、ひどく厳しい顔で彼らを見据えている。
「貴様ら、それでも帝国の精鋭たる自覚はあるのか!」
突然、士官が怒鳴り声を上げた。
は? サバルトとエドヴォンスはびくりとして、顔を見合わせた。いきなり何をわめいているんだ、こいつは。エドヴォンスが肩をすくめる。男はさらに続けた。
「俺が新任の百兵長、ガソフだ! これより貴様らは、正式に帝国重歩兵第一団第二連隊の兵となる! この敗残兵どもが、何だ、そのざまは! だらけきって、帝国軍人の気概はどこへ行った! 今日から訓練を再開する。再び帝国の精鋭と呼べる兵になるまで、鍛え直してやる!」
男は一人で気炎を上げ、なおも大声でまくし立てている。
サバルトとエドヴォンスの斜め後ろで、兵の一人がこらえきれずに舌打ちし、男に言った。
「百兵長殿。失礼ながら、俺たちは戦場から戻って、まだ間もありません。傷がようやく治ったばかりで、まだ休養中です。それに、ここにいるのは二十数人だけです。兵の補充がなければ、まともに隊列も組めません。新しい鎧も武器も支給されていないのに、今訓練をして、何になるんですか」
皆が振り返ってその兵を見やり、胸の内で快哉を叫んだ。
ガソフと名乗った百兵長は、怒りをあらわにその兵へ歩み寄った。顔が触れそうなほど間近で、相手を睨み据える。
不意に、鉄の手甲に覆われた拳が、その兵の顔に叩きつけられた。左頬がたちまち赤く腫れ、口と鼻から同時に血が流れ出す。兵はよろめき、地面に倒れた。
「名誉のかけらもない臆病者ども! 戦場でおめおめと生き延びた虫けらめ! ぺっ!」
ガソフは、地面に倒れた兵に唾を吐きかけた。
驚いてその場に立ちすくんでいた兵たちは、すぐに歯を食いしばり、拳を握り締めた。今すぐ皆で飛びかかり、半殺しにしてやりたい。
「何を見ている! 全員、今すぐ訓練場を五十周走れ!」
ガソフは剣を抜いて一同に向け、有無を言わせぬ口調で命じた。
兵たちはガソフを憎々しげに睨みつけたが、誰もそれ以上、あえて逆らおうとはしなかった。倒れた仲間を助け起こし、全員で走り始めた。戦場を経験した帝国の重歩兵たちには、五十周など本来どうということもない。だが、走っている間じゅう、ガソフの罵声は途切れなかった。あまりの大声に、駐屯地の外の店主たちまでが門の前に集まり、中を覗き込んでいた……。
その晩、サバルトは兵舎の小さな木の寝台の頭もとで、壁にもたれながら両脚を揉んでいた。エドヴォンスは自分の寝台の縁に腰を下ろし、二日ほど前に買ったものをつまんでいる。今日の出来事について、二人はぽつぽつと言葉を交わす。
「サバ、今日来て威張り散らしてたあいつ、どう思う?」
エドヴォンスは燻製の干し肉を一口飲み込み、唇を鳴らした。
「ガソフのことか? 俺だって腹は立つさ。でも、俺たちは軍人だからな」
サバルトは両脚を揉み終え、寝台の頭もとの壁にまた背を預けた。
「それは俺だってわかってる。でも、ろくに休ませもしないで、いきなりあいつを寄越して、この扱いだ。わけがわからないよ」
エドヴォンスは干し肉をもう一口、強く噛みちぎった。何度か噛んでから、言葉を継ぐ。
「それに、また戦になったら、戦場であいつに命を預けるんだぞ。お前、それでいいのか?」
サバルトは両手を頭の後ろに回し、少し考えた。
「嫌だよ。けど、どうしようもないだろ。それに、戻ってすぐ第一団に編入されたって聞かされたのに、それっきり何の命令もない。いつ駐屯地を移るのか、いつ出頭するのか、何も言ってこない。上も混乱してるんだろうな」
「そりゃ混乱してるだろ。生き残ったお偉方は粛清されて、下級士官はほとんど生きて戻らなかったんだから。今は軍全体が沈んでる感じだな」
「そういえば、今の第一団の団長って誰だ? ヤラじゃ、あいつらは右翼の端に配置されてたよな?」
「ああ。だから、あいつらはとんでもなく運がよかったんだよ。王国の騎兵はみんな、俺たちのいる左翼に突っ込んできたからな。団長は替わってないらしい。前のままだ」
「エド、もう考えるなよ。食い終わったら、お前も早く寝ろ。明日また何があるかわからないんだから」
「え? 明日は安息日だぞ。まさか訓練はないよな?」
「さあな……」
ほどなく、二人の部屋の蝋燭が消えた。兵舎全体で、まだほのかな灯が揺れている窓は、一つか二つだけだった。
安息日の朝、角笛がまた鳴り響いた。サバルトとエドヴォンスは起き出して訓練場へと走る。その間じゅう、エドヴォンスは口を極めて罵りつづけ、階段を駆け下りる途中で出くわした仲間たちも、同じように悪態をついている。
「全員! 訓練用の盾と木剣を取ってこい!」
ガソフが命じた。誰も返事をしない。皆、険しい顔で倉庫へ向かった。
ほどなく、二十数人の兵が丸い木の盾と木剣を手に、訓練場の中央に整列した。ガソフは行き来しながら、鷹のような目で一同を見回している。
「二人一組で、打ち合いを始めろ!」
ガソフがまた声を張り上げると、兵たちはそれぞれ仲間と組んで打ち合いを始めた。だが、本気を出す者はいない。互いに心得たもので、一太刀ずつ交互に打ち込み合う。一見、力の入った打ち合いに見えるが、実際は訓練を形だけこなしている。
ガソフは打ち合う兵たちの間を歩き回り、あちらこちらで指導をする。サバルトとエドヴォンスは適当に剣を交えながら、ときおりガソフに目をやり、自分たちとの距離を確かめている。
「なあ、サバ」
エドヴォンスが不意に小声で言った。サバルトは何も言わず、目で先を促す。
「あいつ、あんまり実戦経験がないんじゃないか?」
エドヴォンスはそう言いながら、ガソフをちらりと見た。
サバルトは以前の戦闘訓練を思い出した。当時の教官は実戦経験豊かな古参兵で、誰が手を抜いているかを一目で見抜き、その場で蹴りを入れたものだ。その腕前には、兵たちも皆、一目置いていた。だが、今のこのガソフは、訓練の出来のよしあしさえ、まるで見分けがつかないらしい……。
「そうみたいだな。あの顔を見ろよ。ずいぶん得意そうじゃないか」
サバルトは全力を装って一太刀振るい、唇を突き出してガソフのほうを示した。
エドヴォンスは盾で受け止め、今度は上から剣を振り下ろす。その目はガソフから離れない。
「まあ、それならそれでいいさ。このまま訓練が終わるなら、悪くない。少なくとも疲れずに済む」
そのまま訓練はしばらく続いた。帝国の晩秋はもう暖かくはない。とはいえ、これほど長く打ち合って、汗の一滴もかいていない。
ひと休みを終え、皆が打ち合いを再開して間もなく、案の定、訓練場でまたひと悶着が起きた。
「百兵長殿! 戦場に出たことがあるんですか!」
とうとう一人の兵が、声を張り上げて問いただした。
ガソフは怒りで顔を真っ赤にし、目を剥いてその兵を睨みつける。だが、答えはない。
「わかりもしないのに、でたらめな指図をするな! 手をもっと上げろだの、もっと力を入れて斬れだの! 動き一つ間違えりゃ、戦場じゃ死ぬんだぞ。わかってるのか!」
兵も一歩も引かず、木剣を握り締め、真正面からガソフを睨み返す。
サバルトとエドヴォンスも打ち合いをやめ、ほかの兵たちとともにそちらを見た。兵もガソフも譲らない。二人はその場で睨み合ったままだ。
「この役立たずが。俺の剣の腕がお前より劣ると、そう言いたいのか?」
ガソフが陰にこもった声で言った。
「そうだ! あんたは戦場になんか出たことがない! 戦をしたこともないんだ!」
兵が叫ぶ。
「盾と剣を寄越せ!」
ガソフが傍らに手を差し出すと、一人の兵が言われるまま、自分の盾と木剣を渡した。
「どっちが剣を使えないか、見せてやる。この役立たずが」
ガソフは左手に盾を持ち、右手の木剣を軽く上下させてから、構えを取った。左右に動きながら、右の手首を利かせ、剣先でくるくると輪を描く。
格好だけだ……やっぱり戦場に出たことがない。
サバルトとエドヴォンスは顔を見合わせ、呆れて首を振った。エドヴォンスなどは、鼻で笑っている。
兵たちは全員、いつしか二人を囲んで輪を作っていた。その兵の構えは飾り気がなく、揺るぎない。腰を落とし、首をすくめ、左手の盾を高く上げる。盾の上から目だけを覗かせ、首も胴もすっぽりその陰に隠し、右の上腕は体にぴたりとつけ、剣を立てて脇に構えている。
ガソフが前へ一歩跳び込む。右腕を振り回し、猛然と斬りかかる。勢いこそ凄まじいが、兵はそのすべてを盾で受け止めている。反撃を急ぐ様子もない。ガソフの体力をわざと削ろうとでもいうように、ほとんど盾で防ぎつづけ、ときおり探るような突きを放っては、相手に盾を上げさせる。
サバルトは俯いて目を手で覆い、笑いに肩を震わせている。周囲の兵たちの顔にも、からかうような笑みが浮かんでいる。ガソフがどれほどの腕かは、一目でわかる。誰の目にも、あまりにお粗末だ。
ガソフは、自分と兵との腕の差に気づかず、なおも全力で攻め立てている。力いっぱい剣を振り下ろすと、兵は盾で受けず、横へ身をかわす。ガソフは勢い余って重心が前へ流れ、よろめいて倒れかける。兵は左手の盾を放り捨て、ガソフの脇へ一歩踏み込み、持ち上がった右の上腕を左腕で受け止める。木剣を持ち上げ、脇の下の鎧の隙間へ思いきり突きを入れると、ガソフは痛みに右腕をぐっと体に引きつけ、頭までそちらへ傾く。すかさず兵は木剣を下から跳ね上げ、剣先でガソフの顎をまともに突いた。
勝負はついた。ガソフは二歩後ずさり、地面に座り込んだ。驚きと屈辱と憤りの入り混じった目で、目の前に立つ兵を見上げている。
兵は構えを解き、淡々と言った。
「百兵長殿。これでわかりましたか。戦場では、死ぬんですよ」
そう言って、数歩後ろへ下がった。
「今ここでぶっ殺してやる!」
ガソフは突然跳ね起き、腰の長剣を抜いて、兵めがけてまっすぐ飛びかかる。
「百兵長殿!」
サバルトが二歩で駆け寄り、背後からガソフの両腕をがっちりと抱え込む。続いてエドヴォンスと数人の兵も飛びつき、その胴と脚にしがみつく。
「百兵長殿! 落ち着いてください!」
誰もが声を張り上げてなだめている。
兵は、殺気立つガソフをじっと見据えている。その目は絶望に満ちていた。嘲るように小さく笑うと、剣を地面に放り捨て、背を向けて兵舎へまっすぐ歩いていった。
安息日の戦闘訓練は、こうして茶番に終わった。
夕暮れどき、夕食を済ませたサバルトとエドヴォンスは、安息日の祈りを捧げに駐屯地の聖堂を訪れた。祈りが終わり、神官が説教壇からゆっくりと下りてきた。サバルトとエドヴォンス、それに数人の兵は、まだ椅子に座ったまま、帰ろうとする様子もない。神官は彼らのもとへ歩み寄った。
「どうしたんだね、みんな」
サバルトたちが顔を上げて神官を見ると、一人がこの二日間に起きたことを、事細かに話して聞かせた。神官は話を聞き終えると、しばらく考え込んだ。やがて眉間のしわを緩め、温かな慈愛をたたえた笑みを浮かべて、一同に語りかける。
「みんな。今の帝国には、兵も指揮官も足りない。君たちに訓練をさせること自体は、間違いではないと思う。ただ、ガソフの訓練のやり方には、確かに問題があるのかもしれないね。これから戦場で彼に命を預けてよいのか、それは女神だけがご存じなのだろう。今はまず、一つ約束してほしい。君たちのほうから彼を怒らせることは、もうしないでほしい。あとは、明日の朝、私が彼と話してみよう。何か方法はあると思う。それでどうかね?」
神官はそう言って、静かに返事を待った。
サバルトとエドヴォンスは顔を見合わせた。ほかに、これよりよい手があるとも思えない。二人は先に立ち上がって神官に礼を言い、聖堂を出て、体を休めに兵舎へ戻っていった。ほかの兵たちも、二人に続いて次々と聖堂をあとにした。
神官が話をしてくれたためか、それからしばらく、ガソフがあの兵に嫌がらせをすることも、ほかの誰かに目をつけて困らせることもなかった。だが、態度が改まったわけではない。それどころか、ガソフは訓練量を増やしつづけ、若者たちは連日の過酷な体力訓練に悲鳴を上げている。あの兵もガソフに口答えをしなくなり、ほかの者と同じように、黙々と訓練に加わっている。
ときおり、パンや日用品を買いに出ると、パン屋のおばさんや近所の店主たちが、心配して様子を尋ね、慰めてくれる。小さなパンやほかの品を、ただで持たせてくれることもある。サバルトとエドヴォンスも、つい店主たちにガソフへの愚痴をこぼしてしまう。
リンドヒルの木々がほとんど葉を落とし、秋も終わろうとするなか、誰もが、こんな日々がまだ続くのだと思っていた……。




