北方戦争編 第四話 陰雲
帝国暦459年10月24日、深夜。
デクラスは寝衣に着替えたばかりで、床につこうとしていた。大粛清のあと、帝国参謀院で相次ぐ煩雑な人事異動と、それに伴う数々の会議に追われ、疲れ果てていた。脚の病は癒えたばかりだが、帝国の晩秋の冷えはこたえる。歩くのにもう支障はないが、膝の関節には、ときおり鈍い痛みが走る。
蝋燭を吹き消し、夜具をかけたとたん、扉がとん、とんと小さく鳴った。続いて、ファスビンダーの声がした。
「閣下、たった今、使いが参りました。参謀院で緊急の参謀会議が開かれます。すぐにお越しくださいとのことです。馬車が玄関の前で待っております」
デクラスは眉をひそめた。まったく、一日たりとも休ませてくれない。
「わかった。馬車を少し待たせておいてくれ」
デクラスは身を起こし、いま脱いだばかりの服をまた身につけた。体のぬくもりが残り、まだ少しも冷えていない。銅鏡を手に取って身だしなみを確かめ、扉を開けると、ファスビンダーが外で待っていた。
二人で玄関まで行くと、デクラスは振り返った。
「温かい牛乳と麦粥を用意しておいてくれ。戻ってからもらおう」
「はい、閣下」
デクラスは用意されていた馬車に乗り込み、帝国参謀院へと急いだ。
帝国参謀院の会議室では、新任の首席タイラル伯爵が、眉間に深く皺を寄せ、参謀たちが揃うのを立ったまま待っている。五十代の、経験豊かで才腕にも優れた貴族であり、もともとは参謀院に属していなかった。大粛清のあと、宰相ゴドフリーの推挙を受け、皇帝の命によって帝国軍事学院の院長から参謀院首席へと直接転任した。だが今は、気が気ではない。
子夜が近づき、参謀たちが次々と集まってくる。早く着いたデクラスは、まずタイラルから自分だけに何か話があるだろうと思っていた。だが、そうした話もないまま全員が揃うと、伯爵はそこで初めて羊皮紙の巻物を取り出し、会議卓の上へ放り出した。
「皆、目を通してくれ。今夜届いたばかりの、北方からの急報だ」
タイラルはそう言うと、両手を背に回した。その顔は厳しく、何か考え込んでいるようにも見える。
会議室の空気が、一瞬にして張りつめる。参謀たちも、この夜の緊急会議が、これまでの人事や定例の会議とは違うと気づいたらしい。次席のデクラスは、自分の席から手を伸ばして巻物を取り、慎重に広げ、その文面をじっと見つめた。
羊皮紙には、こう記されていた。
アイカド王国、戦争動員を完了。
近日中に帝国への侵攻を開始するものと予想される。
今回の規模は尋常ならず。
我が軍の速やかな配備と対応を望む。
デクラスは読み終えても口を開かず、巻物を隣の参謀へ回した。だがそのときにはすでに、寒気が背骨を伝って、頭のてっぺんまで駆け上がっていた。思考が猛烈な勢いで巡っている。
隣の参謀が、皆に向けて文面を読み上げる。その瞬間、デクラスは、自分を襲った寒気がその場の全員に伝わったと確信した。参謀たちはみな顔色を失い、一斉にタイラル伯爵を見た。
「意見を出してくれ。明日には陛下に報告せねばならん。どう申し上げればよいのか。皆、意見を出してくれ」
タイラル伯爵の声は低く、額には深く皺が寄っていた。
会議卓を囲む参謀たちは、みな小声で話し始めた。デクラスは加わらず、頭を垂れたまま、片手で高い鼻梁をきつくつまみ、険しい顔で考え込んでいる。
「伯爵閣下、軍報には規模が尋常ではないとしか書かれていませんが、実際どれほどの兵力なのか、つかめているのでしょうか」若い参謀が立ち上がって尋ねたが、タイラルはただ首を横に振った。
「伯爵閣下、では、アイカド軍の進出先や集結地点についての情報は。一点突破を図るつもりなのか、それとも全面侵攻なのか」
別の参謀が立ち上がって尋ねた。タイラルはまた首を横に振るだけだった。
「伯爵閣下、具体的な情報が何もないのに、どうやって策を立てればよいのでしょうか」参謀の一人には、すでに焦りが見えている。タイラル伯爵を問い詰める口調ではないが、誰もが抱えている不安を口にしている。
「新しい情報はいずれ届く。だが、そのころには主導権を失っているだろう」タイラル伯爵は、どうにもならぬという口ぶりでそう言い、首席の大きな椅子に腰を下ろした。
「今だって、我々に主導権などないでしょう」デクラスはようやくその一言を絞り出し、目を上げてタイラル伯爵を見、それから一同に目を向けた。
「我が国は敗れたばかりです。具装騎兵部隊は王国軍に殲滅されました。かつての精鋭、重歩兵第一・第三・第五・第七団も、再編後は一個団半しか残っていません。北部国境の徴集兵と民兵を合わせても、せいぜい数千人。今回アイカドが国家規模で動員し、冬の危険まで承知で攻めてくるのなら、こちらに息をつく間も与えぬつもりなのは明らかです。つまり……」
デクラスは一度言葉を切り、一同を見回してから続けた。「つまり、こちらの息の根を止めに来る。そうだとすれば、我々にはもはや、戦略的主導権などありません」
デクラスはそう言って腕を組み、卓を囲む、軍学に秀でた帝国の俊才たちを見た。いま言ったことに、この者たちが思い至らぬはずはない。だが、事実を目の前に突きつけられたとき、いったい何人がそれを認めようとするだろうか。
「デクラス閣下、それほど悲観すべき状況でしょうか。アイカドとは長年、国境で戦ってきましたが、毎回三百から五百ほどの兵で襲撃をかけ、村を略奪する程度でした。それほどの軍事動員力があるのでしょうか」
「そうです。まだ詳しい情報が何もないのに、そこまで悲観するのは早計ではありませんか」
案の定、参謀たちからは次々に疑問が上がる。デクラスは黙っている。自分の頭にも、まだ対処の案は何一つまとまっていない。
「私もデクラス卿と同意見だ」タイラル伯爵は、はっきりとデクラスの判断を支持した。デクラスには、いささか意外だった。伯爵の言葉に、疑問を口にしていた参謀たちも口を閉ざした。
「情報が揃わぬ今は、最悪を想定しておくべきだと私は思う。だが、当面いちばん厄介なのは、万全の対応策を練ることではない。明日、皇帝陛下に何と申し上げ、陛下のお尋ねにどうお答えするかだ」
タイラルは疲れのにじむ目で一同を見渡した。「ここにいる者の半数は、私と同じく、参謀院に転任したばかりだ。皆、ヴラド元侯爵と、この参謀院の前首席、前次席のお二方のことは、まだ覚えているだろう」
タイラル伯爵の言葉に、会議室の温度が氷点まで下がる。そこにいる誰にとっても、迫るアイカドの侵攻より、皇帝アデリウス四世のほうがはるかに恐ろしい。死んだような沈黙が続く。
デクラスは会議卓に肘をつき、手で顎を支えて、タイラル伯爵をちらりと見た。この爺さんが軍事に秀でているかどうかは、まだわからない。だが、少なくとも、その話しぶりや気性は気に入った。
「こうしましょう、タイラル閣下」デクラスが再び口を開くと、会議室の一同は彼に目を向け、言葉の続きを待った。
「いずれにせよ、明日はまず通常どおりご報告しましょう。陛下に問われたら、敵を退ける策を練っていると申し上げればよいでしょう。とにかく、まずは手順どおり北部国境の徴集兵と民兵を動員する。あとはその後で考えましょう」
「デクラス卿、それは陛下をごまかそうということか」タイラルは少し驚いた様子でデクラスを見た。
「滅相もありません。ですが、これが実情です。今夜ここで時間を費やしても、何にもなりません。明日までに陛下へ完璧な答えをお出しできると期待するより、まずは具体的な情報が届くまで時間を稼ぎ、それから考えるほうがよいでしょう。それに……」
デクラスは少し考えてから、続けた。「亡くなったばかりの同僚たちには不敬かもしれませんが、陛下もおわかりのはずです。アイカドが本当に南へ侵攻してくるとすれば、その事態を招いたのは、ほかならぬ先ごろ処刑された大臣たちです。ですから明日、陛下も我々にそれほど厳しくはなさらないと思います。以上です」
「ふふ、デクラス。陛下のご気性に賭けているのか」タイラルは、右隣の次席に座る若い俊才を横目で見て、冷ややかな笑いを漏らした。
「もともと賭けですよ。ただ、賭けているのは陛下の気性ではなく、この戦に勝てるかどうかです。どのみち負ければ、我々は皆死ぬ」
「では、デクラス卿はすでに、敵を退ける良策を考えついたのか」タイラルはさらに問いかけた。
「いいえ。やはり具体的な情報を待たねばなりません。ただ、いざというときのために、いくつか考えてはいます。詳しい話は、改めて皆さんと相談しましょう」
タイラル伯爵の口元の笑みが、少し深くなる。「よかろう。そこまで言うなら、明日はひとまず陛下をごまかすとしよう。その後で、卿の高見を聞かせてもらおう」
タイラル伯爵はデクラスの言葉に同意し、立ち上がって一同に向き直った。「諸君、我が国は敗れたばかりで、今また大敵を前にしている。帝国の盛衰は我々にかかっている。今こそ心を合わせ、力を尽くすべきときだ。誰一人、ほかの思惑を抱いてはならん。肝に銘じておいてくれ」タイラル伯爵は両手を卓につき、一同を見渡し、誰にもこれ以上発言する様子がないのを見て、黙ってうなずいた。
「ほかに意見がなければ、これで散会としよう」
満月はすでに西へ傾いている。デクラスを乗せた馬車が住まいに戻ると、その音を聞きつけたファスビンダーが、すぐに玄関の扉を開けた。デクラスは足早に書斎へ向かい、部屋中の蝋燭を灯して、卓に帝国の軍用地図を広げた。そこへ、麦粥と温かい牛乳を手にしたファスビンダーが入ってくる。
「麦粥はここに置いてくれ。牛乳はいらない」デクラスは振り返りもせずに言った。「閣下、また夜更かしですか」デクラスはただ笑みを浮かべた。ファスビンダーは麦粥を置くと、踵を返して部屋を出ていった。
皇帝アデリウス四世は黄金の王座に座り、上体を前に傾け、開いた両膝に手を置いて、玉座の間の中央に立つタイラル伯爵を興味深げに見下ろしている。「卿は、アイカドが間もなく我が国へ侵攻してくるというのに、参謀院ではまだ策ひとつ出せぬと言うのか」皇帝は微笑んでいる。だが、群臣の列に並ぶ参謀院の者たちは、すでに額一面に冷や汗を浮かべていた。デクラスは皇帝と目を合わせぬよう、わずかにうつむきながら、タイラル伯爵の身を案じずにはいられなかった。
「陛下、策を出せぬのではございません。具体的な情報が届くまでは、軽々しく申し上げるわけにはまいりません。今ここで大言を吐き、後になって情報と食い違っていたとわかれば、それこそ陛下への不敬となりましょう」タイラルは少しも動じず、堂々と言い切った。その答えには、つけ入る隙がない。
「よい、よい」皇帝は太腿を叩いて上体を起こし、群臣をじっと見下ろした。その視線は、変わらず臣下を威圧している。
「タイラル卿がそう言うなら、余がこれ以上問い詰めては、まるで人情を解さぬ者のようではないか。では、次の情報はいつ届くのだ」「遅くとも三、四日のうちには、新しい情報が届く見込みでございます」タイラルもまた賭けているのだと、デクラスにはわかった。三、四日のうちに新しい情報が届くかどうかなど、誰にもわからない。これはタイラルがデクラスに与えた、策をまとめるまでの期限であり、同時に皇帝が待っていられる限度でもある。
「では、あと四日やろう。そのときには、余の満足のゆく策を出してもらうぞ」アデリウス四世はそう言うと、群臣の列の先頭へ目を向けた。「ゴドフリー卿」宰相ゴドフリーも、震えながら、おぼつかない足取りで玉座の間の中央へ進み出て、皇帝の命を待った。
「ゴドフリー卿、この数日はタイラル卿によく力を貸してやれ。国境での動員、兵糧の調達と輸送、そうしたことはタイラル卿の求めるとおりに進めよ。何かあれば、いつでも余に報告するがよい」ゴドフリーとタイラルは、頭を下げたまま互いに目をやった。「はっ、陛下」二人は声を揃えて答えた。
群臣は玉座の間の外の大階段をゆっくりと下り、それぞれに去ってゆく。ゴドフリーとタイラルは階段のいちばん下で短く挨拶を交わした。タイラルが帝国宰相の背を見送っているところへ、疲れた目をしたデクラスが、ちょうど階段を下りてきた。伯爵の視線をわざと避け、その脇を通ってまっすぐ家へ帰ろうとした。
「デクラス! デクラス!」背後からタイラル伯爵の呼ぶ声がした。伯爵が小走りに追ってくる。デクラスは長いため息をついて、足を止めた。「タイラル伯爵閣下、何かご用でしょうか」上役に向ける型どおりの笑みを、どうにか顔に浮かべた。
「デクラス卿、一緒に参謀院へ戻ろう。少し話がしたい」デクラスには、いまの伯爵の顔が少しおかしく見えた。先ほど玉座の間で見せた老練さと落ち着きは、もう跡形もない。その顔に浮かぶのは、焦りと不安ばかりだ。
デクラスは伯爵を眺めた。その礼服は精緻で華やかで、毛足のある黒い布地に、金糸で縁飾りと紋章が刺繍されている。だが、襟から上だけを見れば、頭頂の髪はもとより少なく、その幾筋かが帝都の秋風に乱れている。その表情と相まって、帝都のどこにでもいる、厄介事を抱えた年配の男そのものだ。デクラスはこみ上げる笑いを懸命にこらえた。
「伯爵閣下、申し訳ありませんが、お断りいたします。昨夜は一睡もしておりません。今はどうしても、家に帰って休みたいのです」デクラスは穏やかに、しかしきっぱりと言った。タイラル伯爵は一瞬、戸惑った。部下にこれほどあっさり断られるとは、思ってもいなかった。
「ああ、では、先に休んでくれ。明日、参謀院でまた話そうか。ゴドフリーは、陛下が我々の監視役に寄越したのだ。それはわかっているだろう?」「わかっています、わかっています。閣下、ご心配なく。たとえ四日以内に詳しい情報が届かなくとも、陛下にご満足いただける策を、必ずお出しします」
デクラスは、立っているだけでも体が揺れる気がした。瞼が勝手に閉じそうになる。タイラル伯爵もその疲れを見て取り、それ以上、言葉を重ねるわけにもいかなかった。「よし、では帰るといい。ゆっくり休んでくれ。では、また明日な」
デクラスは軽くうなずいてから向きを変え、ルキウス大通りへ歩いていった。四日。詳しい情報が届こうと届くまいと、それだけあれば十分だ。眠気にすっかり呑まれる前に、デクラスはそう思った……。




