北方戦争編 第三話 小憩
十数日後。リンドヒルの街頭の泣き声がようやく静まり、贖罪広場の杭に見せしめとして晒されていた首も取り下ろされて間もないころ、一台の馬車が凱旋門の内側に停まった。
サバルトは幌の中から這い降りた。地面に足が着くと、左の肋骨のあたりに、まだはっきりと痛みを感じる。思わず歯を食いしばった。
ようやく、帰ってこられた。
密かに兵器を運ぶあの馬車に乗って、まず三日を過ごした。持ち主は毎日、十分な食べ物と水をくれた。幸い、道中で護衛の出番は一度もなかった。大きな分かれ道で馬車を降ろされ、さらに二日歩いて、また乗せてくれる馬車に出会った。そうしてようやく帝都リンドヒルへたどり着いたときには、すでに十月も中旬に入っていた。
遠くにかすかに見えるルキウス一世の像へ目を向けた。剣を振るって、自分を迎えているようだった。八月半ばには、万を超える大軍とともに、ここから戦場へ向かったのだ。見送りの民が歓声を上げ、喜びに沸いていた光景は、今も鮮やかに残っている。だが今は、たった一人でこの通りに戻ってきた。胸にやるせない寂しさが満ちてくる。
サバルトは馬車の持ち主に礼を言い、ゆっくりと足を運んで像へ向かった。ルキウス大通りの辻から西へ数百歩。そこから南へ折れ、路地を少し入れば、重歩兵第七団第三連隊の駐屯地がある。脳裏ではヤラ平原の影が少しずつ薄れ、兵舎の部屋にある、あの狭い木の寝台がくっきりと浮かび上がる。疲れ果てた心にも、ようやくかすかなぬくもりが生まれた。痛みをこらえ、サバルトは足を速めた。
「そこの者、止まれ」
ルキウスの像の下で道を折れ、まだ数歩も行かないうちに、サバルトは帝都守備軍の巡察兵数人に呼び止められた。巡察兵たちは、サバルトを上から下まで眺めまわした。
「ヤラ帰りか?」兵長が尋ねた。
「はい」とサバルトは答えた。
「所属はどこだ?」
「皇家重歩兵第七団第三連隊です」
兵長は一瞬、動きを止めた。後ろにいた守備兵の一人が、小声で言い添えた。
「いちばんひどくやられた部隊です……」
サバルトには、その言葉はよく聞き取れなかった。兵長はうなずき、さらに尋ねた。
「なぜ戻るまでに、こんなにかかった?」
「何日も気を失っていて、村人に助けられました。そのあとも何日か養生して、動けるようになってから、ここまで戻ってきたんです」
兵長はもう一度、サバルトを念入りに見た。服までまくり上げ、体に巻かれた布を確かめて、ようやく手を離した。
「もう駐屯地へ戻ってもいいですか?」サバルトは憤りを抑え、できるだけ平静な声で尋ねた。
「いいだろう。ただ、伝えておく。お前たちの第七団は解体された。旧第七団と第三団の残存兵は、すでに重歩兵第一団に編入されている。駐屯地は当面そのままだ」
サバルトは兵長の目をまっすぐ見据えた。ようやく、それまで深く考えることさえ恐れていた問いを、ゆっくりと口にする。
「第七団は、何人戻ってきたんですか?」
「百人もいない」兵長の声は平静で、何の感情も表れていなかった。
「では、団長のシュヴァルド子爵は?」厳しく号令を下し、巧みに兵を率いていたあの中年の貴族の姿が、サバルトの脳裏に浮かんだ。
「ああ、あと数日早く戻っていれば、贖罪広場に晒されていたシュヴァルド元子爵の首が見られた」兵長の口調にからかいの色はない。ただ、何でもないことのように、一つの事実を述べているだけだった。
サバルトは、歯茎から血がにじみそうなほど強く歯を食いしばった。最も聞きたくなかった事実を、とうとう自分の耳で確かめてしまった。二千人いた第七団で、戻ってきたのは百人にも満たない。団長も処刑された。一緒に飯を食い、訓練し、兄弟同然に過ごしてきた仲間たち。みな、帰ってこなかった。脳裏に浮かんでいた、兵舎の小さな木の寝台。さっきまでのぬくもりが、不意に痛みに変わった。深く息を吸うと、左の肋骨のあたりがまた痛んだ。もう何も言わず、元の駐屯地へと足を向けた。
なじみの路地を抜けると、軍の駐屯地が見えてきた。サバルトに最初に気づいたのは、戦友ではなく、駐屯地の外でパン屋を営むおばさんだった。サバルトが第三連隊の駐屯地に近づいたとき、おばさんはちょうど店の外で小麦粉を運んでいた。その小さな通りに現れた、ぼろをまとい、全身から悪臭を放つ若者を、長いことしげしげと見つめてから、首を伸ばし、確かめるように尋ねた。
「サバ? サバなのかい?」
「はい、おばさん。サバルト、帰ってきました」
そう口にしたとたん、もう抑えきれなかった。胸の奥から、思いが激しく込み上げてくる。
「サバが帰ってきたよ! サバが帰ってきたんだよ!」
パン屋のおばさんはサバルトに近寄って抱きしめ、声を張り上げて近所の人々を呼んだ。
「痛い、おばさん、痛いって!」
サバルトは目の縁を赤くしながら、左の肋骨のあたりに走る痛みをこらえていた。
おばさんは慌てて手を離した。ふっくらした顔いっぱいに、明るい笑みが広がっている。隣の服屋や薬屋の店主たちも次々と外へ出てきて、サバルトを見るなり、興奮した声を上げた。この駐屯地にいる自分たちの子供が、また一人帰ってきたかのように。
「早く! 誰か駐屯地の神官さんを呼んできて! サバの傷を治してもらわないと!」
おばさんに言いつけられ、その場にいた一人が駐屯地の中にある女神の聖堂へ走っていった。
服屋の店主は店に戻って真新しい肌着とズボンを持ってきて、どうしてもその場で着替えさせようとする。サバルトは少し恥ずかしくなり、服を受け取って何度も礼を言うだけだった。おばさんも店から椅子をいくつか運び出し、サバルトを道端に座らせた。皆がその周りに集まり、口々に話し始めた。
しばらく話すうちに、サバルトの疲れはずいぶん薄らいでいた。戦争の前もそうだった。休みの日に買い物に来ては、この店主たちに呼び止められ、話し込んだものだ。いつしかそれが、休みの日の決まりごとのようになっていた。遠くから、駐屯地の神官が店主の一人について慌ただしく走ってきて、有無を言わせず治癒魔法でサバルトの傷の具合を調べ始めた。サバルトは笑みを浮かべ、されるがままになっていた。
「このあいだエドが帰ってきたときもね、サバはもう帰ってきたかって聞いてたんだよ。みんなで、サバならきっと無事だって言ってたんだ。ほら、そのとおりだっただろう」
パン屋のおばさんはサバルトの手を握り、話し続けた。涙でいっぱいになった目を、手でぬぐった。
「エド? エドヴォンスが帰ってきたんですか? 生きてるんですか?」
エドの名を聞いて、サバルトは一気に気持ちが昂ぶった。両の目を燃えるように輝かせ、おばさんの袖を固く握りしめた。
エドヴォンスは、第七団の親友の一人だった。二人は十七歳で入隊した同期で、その後はともに重歩兵第七団第三連隊に配属され、兵舎の部屋まで同じだった。この二年、二人の若者は同じ道を歩み、同じ喜びと悲しみを分かち合ってきた。パンの好みさえ、ほとんど同じだった。ヤラ平原の戦場では、エドヴォンスはサバルトの右方の戦列にいた。王国の竜騎兵が荒波のように襲いかかってきてから、その姿を見ていなかった。
「生きてるよ。エドは生きてる。最初に帰ってきた傷兵たちの中にいたんだよ」
おばさんはうなずき、はっきりと言った。
サバルトは勢いよく立ち上がったが、すぐに神官に押さえつけられ、椅子へ戻された。待ちきれない思いで兵舎を見つめる。頭の中は、死をくぐり抜けた友との再会の光景でいっぱいだった。
「肋骨が三本折れている。もう自然に治り始めているよ。あとは毎日、駐屯地の聖堂へ治療に来るといい」
神官は治癒魔法をやめ、かすかな笑みを浮かべて続けた。
「ほかの傷は大したことはない。それより、君の衛生状態のほうが、よほど深刻だね」
神官はそう言って、はははと笑った。
サバルトは少しはにかんで、うつむいた。今ここにいるのは、両手を血に染めた戦士ではない。近所の店主たちにいたわられる、ただの十九歳の少年だ。
神官はサバルトの肩を軽くたたいた。
「さあ、行こう。中まで一緒に行くよ」そう言って、神官は立ち上がった。
サバルトも立ち上がり、周りの店主たちにひとまず別れを告げた。それから神官のあとについて、一歩ずつ駐屯地へ入っていった……。
見慣れた部屋の扉の前で、サバルトは懸命に気持ちを落ち着けようとしていた。この扉の向こうに、エドヴォンスがいるかもしれない。今はどこかへ出かけているかもしれない。だが、ほかにも誰かいるだろうか。
思い浮かぶのは、出征前のある晩のこと。部屋では何人かが木の札を使う流行りの賭け事に興じ、サバルトは寝台に寝そべって、エドヴォンスが銅貨をすっかりすってしまうのを見ている。ほかの連中がどっと笑う。そのあと、兵長が皆を祈りに導き、蝋燭を吹き消す。誰のものとも知れない凄まじいいびきが響くなか、部屋の十人はいつしか眠りにつく。
この部屋について思い出せる、最後の記憶だった。サバルトはようやく息を吸い、木の取っ手に手をかけて扉を開いた。
エドヴォンスは扉に背を向け、板張りの寝台に横になっている。音に気づいて寝返りを打ち、戸口に立つサバルトを少し驚いた様子で見た。二人はしばらく、そのまま見つめ合う。
「よう、サバ。帰ってくるって、わかってたよ」エドヴォンスは、いつもと変わらぬ口調で言った。
サバルトは飛びかかった。悪臭を放つ上着を脱いでエドヴォンスの顔に押しつけ、肋骨の痛みをこらえながらじゃれ合っている……。
五日後。
駐屯地の神官の治癒魔法のおかげで、サバルトの折れた肋骨はほぼ治っていた。上体をひねっても、もうほとんど痛まない。エドヴォンスの傷は、サバルトが帰ってくる前にすっかり治っていた。
だが、同じ部屋に戻ってきたのは二人だけだった。五百人いた第三連隊も、駐屯地に残っているのは二十数人。最も階級の高い者でさえ、十人の隊を率いる兵長にすぎない。第一団への編入を命じられたものの、命令の内容は曖昧で、いつ新しい部隊に出頭すべきかといったことも示されていなかった。それで彼らは、毎日兵舎で寝転がるか、外をぶらつくかして過ごしていた。まるで帝国に忘れられてしまったかのように。
この数日、ときおり戦死が確認された者の家族が駐屯地を訪れ、身内の遺品を引き取っていった。それよりも多くの者は、行方不明の扱いになっている。あの戦のあと、帝国はまともな遺体収容隊すら派遣しておらず、誰が戦死したのかは、生還者の話だけを頼りに判断されている。
サバルトは服屋の店主にもらった服を着て、兵舎の自分の寝台に座っていた。窓の隙間から秋風が吹き込み、少し肌寒い。その目の前で、エドヴォンスが帰ってこない仲間たちの寝台の下を、一つずつ探っている。
「おかしいな。あいつら、金をどこにしまってたんだ」
エドヴォンスは手で探りながら、ぶつぶつ言う。
「エド、そんなことしていいのか?」
サバルトは少し気まずそうに笑った。
「いいって、いいって。みんな仲間だろ。俺がいつか死んだら、残った金はサバに使ってもらえりゃ嬉しいよ」
そう言っているうちに、その手が膨らんだ小さな布袋に触れた。
「あっ、あった!」
エドヴォンスは引っ張り出した布袋を手の上で軽く弾ませた。なかなかの重みがある。嬉々として袋を開け、中をのぞく。銅貨が数十枚。銀貨は一枚もない。たちまち、がっかりした顔になった。
サバルトが見ていると、エドヴォンスは残りの寝台の下も片っ端から探り、さらに小さな布袋をいくつか見つけ出した。金をひとまとめにして一つの袋に入れると、サバルトと連れ立って部屋を出た。
駐屯地の神官は、小さな聖堂で一人の兵士と祈りを捧げていた。扉が開く音に気づき、入口を振り返る。
「よう、神官の兄さん」
エドヴォンスはサバルトを連れて、小さな聖堂に入ってきた。
「やあ、君たちか。何か用かい?」
神官は、少し元気を取り戻した二人の若者に、満面の笑みを向けている。
「兄さん、教会じゃ戦没者の遺族への寄付を受け付けてるんだろ?」
エドヴォンスが尋ねた。
「ここではやっていないけれど、地区の教会では受け付けているよ。どうしたんだい?」
その答えを聞くと、エドヴォンスは硬貨の入った大きな袋を神官の胸へ放り投げた。神官はどうにか受け止め、きょとんとしている。
「じゃあ兄さん、この金を地区の教会に渡しといてくれよ! 俺たち、もう行くから」
神官の返事も待たず、エドヴォンスはサバルトを引っ張って聖堂を出た。
「全部やったのか? 格好つけやがって」
サバルトは、少し得意げなエドヴォンスを横目に見て、からかった。
エドヴォンスは歩きながら上着のポケットから銀貨を二枚取り出し、サバルトの目の前で振ってみせ、したり顔で言った。
「ほら、何だと思う? 兵長の寝台で見つけたんだ。へへっ」
サバルトはエドヴォンスの尻に一発、蹴りを入れた。二人はじゃれ合いながら駐屯地の門を駆け抜け、ルキウス一世の像へ走っていく。
日が暮れ、一日ぶらついていた二人は、ルキウス大通りの脇の路地から出てきた。背後の路地からは酒場のざわめきが聞こえてくる。帝都も日ごとに、少しずつ活気を取り戻していた。昼間買った新しい冬服と、果物や干し肉などの食べ物を抱え、二人はのんびりと駐屯地へ歩いてゆく。夜のルキウス大通りはがらんとしている。二人の朗らかな笑い声がひときわよく響き、かすかにこだまする。ルキウス一世の像まであと少しというところで、騎士を乗せた馬が一頭、凱旋門から疾走してきて、危うくサバルトにぶつかりかけた。
「人が見えねえのか、この野郎!」
エドヴォンスの罵声に、近くを巡回していた巡察兵が気づく。サバルトは巡察兵に愛想笑いを向け、エドヴォンスを引っ張って像の下から西へ歩いていった。
リンドヒルの夜は、静かで少し肌寒い。梟が二声、鳴いた。一輪の満月に見つめられ、兵舎の蝋燭の火が、若者たちの談笑の声のなかで消えた。




