北方戦争編 第二話 粛清
命乞いと悲鳴が、高いアーチを頂く玉座の間に重くこだましていた。衛兵たちはその者たちを両脇から抱え、一人ずつ引きずり出して牢へ放り込もうとしている。靴が石床を擦り、ざりざりと音を立てる。
愚か者どもめ。この期に及んで、貴族としての最低限の尊厳まで失い果てたか。デクラスはそう思った。片側に居並ぶ群臣の中、両手を背に回して立ち、とうに予見していた事態が行き着いた恐ろしい結末を、冷ややかに眺めていた。先ごろ地下牢に投げ込まれた際に患った脚が、まだ鈍く疼いている。王権の輝くこの玉座の間では、ほんのわずかな判断の誤りでさえ命取りになりかねない。その疼きが、絶えずそう告げているかのようだった。
「引っ張るな!」
全身に傷を負った大柄な将軍が、力任せに衛兵の手を振りほどいた。精鋼の重厚な鎧には至るところに深いへこみがあり、縁は破損し、頭に巻いた布にはとうに乾いた暗赤色の血の染みが残っていた。
「陛下、ヤラでの敗北は私の罪です。死をもって責めを負う覚悟でおります。ですが、この大臣たちは戦場で指揮を執っておりません。死罪には及びません!」
将軍は床に膝をつき、皇帝に死諫した。
将軍がひたと見つめるその先、純金で造られた帝国の王座に、あの男がいた。右手で頭を支え、左手の指で肘掛けを叩きながら、冷酷な顔で、王座へ続く階段の下を見据えている。
「ヴラド卿、何を言っている」
帝国皇帝アデリウス四世が、粗野でいて、どこか異様な調子で口を開いた。
「この者たちは皆、開戦前には余に大口を叩き、偽グラテン国を必ずや余の威名のもとに取り戻すと請け合っておきながら、余に恥をかかせたではないか。ヴラド卿、余はそなたを大切に思っているのだ。あの者たちをそなたの連れにしてやって、何がいけない?」
アデリウス四世はそう言うと、手で首をぐいと曲げ、それからわずかに身を乗り出し、開いた両脚にそれぞれ手を置いた。衛兵が大臣たちを引きずってゆく様子を、興味深げに眺めていた。
「行くがよい、ヴラド卿。数日のうちに、そなたの家族も、妻も子も、そなたのもとへ送ってやろう」
皇帝が手を振ると、衛兵たちはヴラドを両脇から抱え、力ずくで玉座の間の大扉へと引きずっていった。ヴラドは歯を食いしばり、それ以上は何も言い返さなかった。血走った両の目。その重い瞼を、呪いでも込めるかのように、ゆっくりと閉じた。
泣き叫ぶ声が遠ざかってゆく。玉座の間に立ち並ぶ群臣は、死んだように静まり返っていた。次は皇帝の怒りが自分に及ぶのではないかと、誰一人、何ひとつ議題を持ち出すこともできない。
晩秋の寒風が、玉座の間の高い壁に施された精巧な透かし彫りの隙間から吹き込み、ただでさえ殺気を帯びた空気をさらに冷やしてゆく。皆が皇帝の顔色をうかがい、気だるげでありながら冷たい光を宿すあの目が、自分に向けられぬようひそかに祈っていた。
アデリウス四世は王座の脇の金の皿から無造作に飴を数粒つまみ、口を開いて歯をむき出しにし、その歯の隙間へゆっくりと押し込んだ。群臣の耳には、その咀嚼の音が骨を噛み砕く音のように恐ろしく響く。数人の気の弱い文官は、もう両脚の震えを抑えられずにいた。
「デクラス卿、いるかね?」
皇帝が、ついに次の名を呼んだ。
デクラスはまだ少し不自由な脚を引きずり、玉座の間の中央へ進み出た。頭を垂れ、揺るぎない声で答えた。
「陛下、ここにおります」
「おや、いたのか? 地下牢で脚を患ったと聞いたが、病を理由に家で休んでいるものと思っていたぞ」
皇帝の口の端がわずかに上がった。
「もとの職に復したからには、身を尽くして陛下にお仕えするのは当然でございます。脚の病は、務めの妨げにはなりません」
「聞いたか。皆もよく聞くがよい」
皇帝はデクラスを指さし、次いで脇に並ぶ群臣にも指を向けた。それからまた飴を一粒口に入れ、噛みながら言う。
「三か月前、ヴラドらがここで偽国への征伐を論じていたとき、そなたは何と言っていたかな? もう一度言ってみよ」
デクラスは内心ぎくりとした。三か月前、帝国がグラテン王国への征伐を論じたとき、開戦に強く反対し、ヤラで正面から決戦に臨めば帝国は必ず敗れると断じた。そのため皇帝に地下牢へ投げ込まれ、三か月を過ごすことになった。そこで死ぬものと思っていた。それがまさか、もとの職に戻されるとは。だが、いま皇帝にこう問われては、何も答えられない。
「陛下、あのときの罪は、すでに深く自覚しております。あのような禍乱を招く言葉を、再び口にすることはできません」
「かまわん。罪には問わぬ。ただ、もう一度そなたの話を、この者たちにも聞かせたいだけだ」
皇帝は噛みかけの飴を床へぺっと吐き出し、笑みを浮かべてデクラスを見ていた。
「陛下の仰せであれば、もう一度申し上げます」
デクラスはひと呼吸置き、頭をわずかに上げた。
「魔王戦争から、すでに五十余年が過ぎました。カラグニアは失われ、諸国が廃墟から復興し、栄え始めるまでに要したのは、わずか一世代です。肥沃な農地の大半は南方の偽国領内にあり、帝国の北にはなお、アイカドが虎視眈々とこちらをうかがっております。兵力こそ帝国が偽国を上回っておりますが、兵糧、補給、背後の脅威を考えれば、帝国に明らかな優位があるとは申せません。また、ヤラ平原は偽国の王都により近く、偽国軍は兵を休ませ、疲れた我が軍を待ち受けられます。ヤラの後方には、防衛の要衝たる巨人堡もあります。この状況で我が帝国の大軍がヤラ平原で偽国軍との決戦に臨めば、たとえ運よく勝利しても、敵軍は巨人堡へ退いて我が軍を長期の消耗戦に引きずり込みます。我が軍の敗北は必至です。偽国の領土を取り戻すには、教廷を味方に引き入れ、テルソン川の上流からカラカ湖と偽国の王都を奇襲するよりほかに、勝機は望めません。当時は、そう申し上げました」
デクラスは言い終えると頭を垂れ、黙って皇帝アデリウス四世の反応を待った。だが意外にも、皇帝は何も言わない。かすかに陰険さをにじませた笑みで、なおもデクラスを見つめている。そして金の皿から左手で飴をひとつかみ取り、右腕を振り上げては、一粒ずつ床へ叩きつける。
五、六粒投げつけたところで、皇帝は残りを一度に撒き散らし、両手をはたいた。
「デクラス卿、そなたの家は確か、准男爵だったか? 牢に入る前は参謀院の第三席。そうだったな?」
「おっしゃるとおりでございます、陛下。私の家は帝国東部、タリソ地方の准男爵家でございます。封邑は百戸にすぎません。投獄される前は、参謀院の第三席を務めておりました」
「ちょうどよい。そなたの上にいた首席と次席は、今しがた二人とも引きずり出されていった。そなたを次席に上げてやろう。それから、男爵に取り立て、封邑を三百戸加えてやる」
デクラスは右膝をつき、右の拳を床についた。
「陛下、感謝申し上げます!」
アデリウス四世は黄金の王座に両手をついて立ち上がった。数人の侍従と衛兵が、慌ててそばへ寄ってくる。
「あの奸人どもが空けた残りの席だが、ゴドフリー卿、そなたも頭を使って、余に人事案を出せ」
皇帝は群臣の最上席に立つ老人を一瞥した。ヘルレン帝国の現宰相である。
「それから、戦で潰れた軍団も、必要な補充はしておけ。人が足りぬなら捕まえてこい。今日はここまでだ」
皇帝はそう言うと向きを変え、背にかかる紫のビロードの華麗なマントをひと振りし、侍従と衛兵を従えて黄金の王座を回り込み、その背後の皇家の内門を抜けて去っていった……。
群臣は皇帝の足音が遠ざかるのを静かに待ってから、官位の高い者から順に玉座の間を出ていった。ゴドフリーは首を振って真っ先に踵を返し、老いのにじむ足取りでデクラスのそばを通り過ぎざま、そのいくぶん若く見える顔を、意味ありげに一瞥した。
玉座の間の大扉をくぐったデクラスに、昇進と叙爵を祝いに来る者はいなかった。皆がまだ、命拾いした安堵の余韻に浸っていることはわかっていた。振り返りもせず、そのまま幅広い石段を下りる。もっと速く歩きたい。だが、病んだ脚がそれを許さない。もう片方の脚を、できる限り大きく踏み出すしかなかった。足取りがいくらか危うくなろうとも……。
帝都で最も賑わうルキウス大通りを抜けてゆく。高級ホテルやカジノが軒を連ね、本来なら喧噪に満ちているはずの通りが、いまは死んだように静まり返っていた。ときおり階上の窓から泣き叫ぶ声が漏れ、喪服姿の人々が至るところに見える。
一か月前、帝国軍が出征した日のことを思い出した。あの日、デクラスは地下牢の、汚水にまみれた冷たい石床に、力なくうつ伏せになっていた。壁の上部の狭い通気孔から、空を埋め尽くすほどの歓声が響いてきた。あのときのルキウス大通りには、帝国軍の凱旋を待ち望む熱狂した人々が、両側に詰めかけていたはずだ。あの熱に浮かされた愚か者どもを悲劇が襲うのが先か、それとも自分の死が先かと、ひそかに自嘲もした。
いまも、自分は生きている。脚を引きずって大通りの端まで来ると、そこにはヘルレン帝国の初代皇帝、ルキウス一世の壮大な石像がそびえていた。デクラスは少し足を止め、その像を見た。石像は、真南の凱旋門に顔を向け、大通りと皇城を背に、頭を高く上げて剣を振るっている。デクラスは冷ややかな笑いを漏らした。この華やかな大通りが悲しみに沈んでゆくさまを、いま冷めた目で見届けているのは、結局、自分一人だけなのだ……。
日が暮れた。窓の外では、ときおり野良犬がひと声、ふた声吠える。デクラスが机に向かい、ヤラ平原での惨敗を報じる軍事報告書を読み込んでいると、扉を軽く叩く音がした。すぐに、同じ年頃の従者が盆を手に入ってきた。
「閣下、お食事の時間です」
柔らかく、それでいて力のある声だった。
デクラスは盆にちらりと目をやった。
「ファスビンダー、夕食は野菜の粥だけか?」
ファスビンダーは、少し気まずそうに笑った。
「お忘れですか、閣下。少し前、閣下が地下牢へ連れていかれたあと、皇帝が人をよこして家財を没収させたでしょう。鉄翎軍の者たちが、金も金目の物も、すべて持ち去ってしまって……」
デクラスは報告書を置き、頭を掻いた。
「そうだったな。また忘れていた。苦労をかけるな、ファスビンダー。家にまだ、何か売れる物はあるか?」
「本と日用品しか残っていません。本まで売るわけにもいかないでしょう? ご昇進なさったと聞きました。参謀院から俸給が出るまで、もうしばらくの辛抱です。そうすれば、少しは楽になります」
ファスビンダーはそう答えた。
デクラスは少し考え、立ち上がると、壁一面を占める大きな書棚へ歩み寄った。無造作に数冊抜き取り、ファスビンダーに渡す。
「明日、このぼろ本を売ってきてくれ。それでも足りなければ、とりあえずカジノのそばの貸金屋で少し借りてこい。借りるのは私だと言って、利息を少し安くしてもらえないか聞いてみろ。それから聖職者を一人呼んでくれ。この脚を治してもらいたい」
そう言うと、デクラスは再び机の前に腰を下ろし、報告書の検討に戻った。
ファスビンダーは手にした本を見た。いずれも帝国の歴史を扱ったものだった。頁はどれも黄ばみ、下の縁が丸まっているものもある。
「承知しました、閣下。では、まずお食事を。お済みになったら、扉の前に置いておいてください」
そう言ってファスビンダーは身を返し、部屋を出ようとした。戸口まで来たところで、デクラスが顔も上げずに呼び止める。
「なあ、ファスビンダー。このまま私についていれば、お前もいずれ命を落とすぞ」
ファスビンダーは振り返り、机に向かって一心に報告書を読んでいるデクラスを見て、かすかに微笑んだ。
「何をおっしゃいます。この命は、とうに閣下のものです。それから、もしよろしければ、私のことはレネとお呼びください」
デクラスは顔を上げ、蝋燭の明かりに照らされたファスビンダーの、柔らかな顔立ちと意志の強い眼差しを見て、口の端をわずかに上げた。
「そうもいかない。お前もれっきとした騎士だろう。もういい、下がってくれ」
「はい、閣下」
ファスビンダーは部屋を出て、扉を閉めた。袖に隠れた腕に目を落とす。三か月前、鉄翎軍が家財を没収しに来たとき、素手で抵抗して一太刀浴びていた。傷はもう癒えている。いまは、その傷痕がかすかに痒い気がする……。
帝国暦459年9月23日
帝都リンドヒルの北、開けた土地に広い処刑台が組まれていた。帝国の処刑場として使われるこの場所を、地元の民は贖罪広場とも呼んでいた。
デクラスは群臣とともに、処刑台の後方に列をなして立っていた。群臣の前には幅広い木の机が据えられ、その後ろには椅子が二脚、並べて置かれている。処刑のたびに、監督役の官吏が座る席だ。この日、その二つの席に座っていたのは、皇太子ヴィルザスと宰相ゴドフリーだった。
台の周囲はすでに民衆で埋まり、黒々と人の頭が連なっている。見たところ、千人は下らない。罪人が引き出される前から、罵声と泣き叫ぶ声が天を震わせる。身内の無念の死の責任を負うべき者たちの首に、刃が振り下ろされるのを、誰もが待ち望んでいた。
罪人たちが、一列ずつ連れ出されてきた。元侯爵ヴラドと、その妻子を含む家族、合わせて十八人が最前列に跪いている。妻と子供たちはまだ泣き叫んでいたが、ヴラドは髪を乱し、その顔は死人のように青ざめていた。群衆の手から、無数の石やがらくたが跪く罪人たちへと飛ぶ。ヴラドの幼い末息子の額に何かが当たった。たちまち血が流れ出し、子供は意識を失った。少し離れたところで、母親が狂ったように叫びつづけている。その頬も、投げつけられた物で腫れ上がっていた。
デクラスは空を仰いだ。屠殺の日だというのに、空はひときわ晴れ渡っている。雲ひとつない青空に太陽がかかり、頭上から照りつける陽射しは、熱いほどだった。両手を胸の前に上げ、片方の手で天を、もう片方の手で地を指して、心の中で祈り始めた。
「処刑せよ! 処刑を始めよ!」
皇太子ヴィルザスが、甲高く歪んだ声で命じた。刃が一列ずつ振り下ろされる。ヴラドと妻子の首が地面を転がってゆく。ついに、ひとところに集まることはなかった。
デクラスは、処刑を監督する二人の背を見た。どちらの体も震えつづけている。だが、ゴドフリーは顔を横に向け、手で顔を覆い、全身をかすかに震わせていた。一方、ヴィルザスは両腿を固く閉じ、爪先をわずかに立て、腹と背、両脚を大きく震わせている。
リンドヒルの空には日が高く懸かっていた。驚きに満ちたデクラスの眼差しの先で、この惨劇は、千百の民の慟哭と皇太子の絶頂のうちに幕を閉じた……。
デクラス




