序/北方戦争編 第一話 家へ
序章
サバルトのまぶたがわずかに動いた。体を覆う何かの隙間から、陽の光が差し込んでくるのを感じる。顔のすぐ前だけが、ほのかに明るい。感覚がゆっくりと戻り、口の中の土と草の葉の渋みがはっきりしてくる。唇と歯の間に挟まった硬い粒は、細かな小石だった。ひときわ強い臭いが口と鼻を通り、ようやく目覚めたばかりの脳へとなだれ込んでくる。乾いた咳が何度か漏れた。血と腐敗の入り混じった臭いだ。
飢え。ただ、飢えだけ。
サバルトはもがきながら体を動かしてみた。指は動く。肩も、腕も動く。苦労して腰骨のあたりのベルトを探るが、携行食の布袋があるはずの場所には、何もない。袋はとうに、どこかへ落ちてしまっていた。
腰のあたりから真上へ、あの光の差すほうへと手を伸ばし、探りつづける。体にのしかかるものは冷たく硬く、触れているのが布か、鉄か、それとも石か、指先の感触だけで確かめるしかない。ようやく、縦横に折り重なったものの中から、麻布らしい手触りの袋を探り当てた。袋の口から指をねじ込み、もとは乾いてぱりっとしていたが今は湿気て柔らかくなったものを、いくらかつまみ取る。
サバルトはつまんだものをやっとのことで口へ運び、口の中の土ごと噛んで飲み下した。麦の味がする。ビスケットだった。
不意にえずいた。体を動かす力が、いくらか戻ったらしい。胃が激しく収縮し、腰と背が弓なりに持ち上がる。その拍子に、のしかかっていたものが押し上げられ、わずかにずれる。本能的に片手を地面につき、もう片方の手を、あの光の差し込む隙間へと力いっぱい伸ばす。
死体の山の下から一本の手が突き出し、太陽の照りつける空へまっすぐに伸びた。
ソラニア西大陸暦1474年、
ヘルレン帝国暦459年、
グラテン王国暦223年、
初秋。
王国と帝国の境にあるヤラ平原で、剣と斧が振り下ろされ、血しぶきが飛び散ったあと、黒い群烏が貪るようについばむなか、一人の男が生き残った。
第一話 家へ
兜の狭い覗き穴越しに、サバルトは無数の馬の蹄が土と草の根を巻き上げ、鈍い音を立てて大地を打つのを見ていた。死の太鼓のようなその響きが迫り、兜の内にこもる自分の荒い息遣いをしだいにかき消してゆく。
「戦列を保て! 戦列を保て!」背後で指揮官が怒鳴った。
両脚は、鉛を流し込まれたように重い。ただでさえ重い鎧が、今は巨石のように両肩にのしかかる。サバルトは長槍をきつく握りしめ、震えながら斜め上へと持ち上げた。
黒く垂れこめた雲が、ついに雨を落としはじめた。視界がいっそう霞む。死神の到来に合わせ、空までもが懸命に芝居を演じているかのようだ。一列に並ぶ王国の竜騎兵の槍先が、一斉にこちらを向いた。続いて、鼓膜が裂けんばかりの鬨の声。
ドンッ!
前列の兵が盾ごと後ろへ吹き飛ばされ、サバルトにまともにぶつかった。後ろによろめき、体勢を立て直す間もなく――ガンッ! 胸甲の真ん中に強烈な一撃を受け、体が半回転して泥の上にうつ伏せに倒れた。我に返る間もなく、本能的に危険を察して勢いよく身を転がした。つい今しがた頭のあった場所を、馬の大きな蹄が踏みつけた。
蹄をかわしたサバルトは、体を半ば起こして後ろを見た。王国の竜騎兵の第一陣は、すでに帝国重歩兵の方陣の後列まで突入し、方陣全体が混乱に陥っていた。素早く辺りに目を走らせると、自分と同じように泥の中から起き上がった兵たちが、どうしていいかもわからず後方を見ている。方陣最後列の旗のそばで、指揮官が腕を上げ、前を指しながら何か叫んでいた。サバルトは耳のあたりの兜を強く叩き、耳鳴りを振り払おうとする。狂ったように叫ぶ指揮官の声が、ようやく聞き取れた。
「第二陣! 第二陣!」
サバルトもほかの兵も、勢いよく前へ向き直った。王国の竜騎兵の第二列が駆け迫ってくる。本能的に後ずさりを始める兵もいれば、武器を握ったまま全身をがたがた震わせている者もいる。そのとき、頭上で空気を裂く音がした。弩の矢が一斉に歩兵の陣を越え、迫る騎兵めがけて飛んでゆく。
ドサッ! ドサッ! 数十人の騎兵が馬もろとも地に倒れた。だが竜騎兵の列はかえって速度を上げ、長槍を一斉に構える。
雨脚は強まるばかりだった。絶叫、泣き叫ぶ声、馬のいななきが、飛び散る泥をまとって、一人ひとりの感覚にこびりついてゆく。
サバルトは地面の槍を拾い上げ、大声を上げて前へ駆け出した。ぬかるみに足を取られ、何度も転びかける。王国の騎兵とぶつかる寸前、左足を泥に踏み込んで踏ん張り、迫る軍馬めがけて全身の力で槍を投げつけた。槍はまっすぐに飛び、馬の鎧に当たって弾かれ、地面に突き立つ。ところが、その槍に馬の脚が引っかかり、ひとりの竜騎兵が馬もろとも地面に転がった。
サバルトは腰から鋼の剣を抜き、よろめきながら飛びかかって、騎兵の上に馬乗りになった。落馬の拍子に脚を折ったのか、騎兵は下半身を動かせず、地面に横たわったまま剣を抜いて必死に抗い、サバルトの斬撃を何度か受け止めた。やがて二人は剣を強く押しつけ合った。
サバルトは不意に騎兵の面頬へ拳を叩きつけた。相手の剣がわずかにぐらつく。二発目、三発目、四発目……。重い槌のような拳が、幾度も振り下ろされる。騎兵の腕が地面に力なく落ち、もはや剣を握れなくなるまで。荒い息をつきながら、サバルトは左手で面頬を跳ね上げ、右手の剣を顎の下からまっすぐ突き入れた。騎兵は二度痙攣し、魂の抜けた骸と化した。
サバルトは叫び声を上げ、剣を杖にしてどうにか騎兵の上から立ち上がった。面頬の下には、自分とさほど歳の変わらない、血にまみれて潰れた顔があった。
剣を杖に、サバルトは自分たちの戦列へよろよろと戻ってゆく。そこではもう、敵も味方も入り乱れていた。王国の騎兵が槍で兵を次々と突き殺し、帝国の重歩兵は狂ったように剣で馬の脚を斬りつけている。戦列の内側から援護に駆けつけた帝国騎兵の一隊が、何も顧みず戦場へ突っ込んできた。蹄の下に踏まれているのが敵か味方か、もう見分けもつかない。
サバルトはぐったりしたまま、どうにか兜を脱いだ。視界が開け、血の臭いに満ちた、じっとりと湿った空気が一気に鼻へ流れ込む。虚ろな目で、そのすべてを見ていた。血と泥水が幾筋もの流れとなって、しだいに集まってゆくのを見ていた。
「側面だ!」
ぼんやりと、誰かの叫びが聞こえた。
本能的に顔を上げ、右を見た。一隊の軍馬が、こちらへ突進してくる……。
「あああっ!」サバルトは叫び声を上げ、悪夢から目を覚ました。
サバルトは荒い息をついていた。頭がはっきりしてくるにつれ、全身から激しい痛みが押し寄せる。霞む目に、体のあちこちに巻かれた布がぼんやりと映った。身の下にはふかふかとした稲藁の感触。周りはただの板壁で、隅のほうからかすかに黴の臭いが漂ってくる。足元の壁にある小窓から、外の光が差し込んでいた。そのわずかな明かりの中、部屋の隅に誰かが座っているように見えた。
「動くな。横になってろ」太くしゃがれた声が、サバルトの耳に届いた。
サバルトは言われたとおり、また身を横たえた。背中に針で刺すような痛みが走り、声もなく歯をむく。視界が少しはっきりしてきた。壁際へ横目をやると、頭の禿げかけた、半白の髭をたくわえた中年の大男が、ぎしぎしと軋みつづける木の椅子に座り、陶器の杯を手にこちらを眺めている。
男は杯の中身をひと口飲んだ。髭に雫が残る。水なのか、何かの酒なのか、わからない。喉が上下するあいだも、その細い目はサバルトの寝ているところをじっと見つめていた。
「十分休んだら、さっさと出ていけ」
男は杯を手に立ち上がり、ふらつきながら木の戸へ向かった。サバルトはそのときようやく、ここが穀物倉か物置のような場所だと見て取った。
「ここは……どこですか」サバルトは横向きになり、体を支えながら身を起こし、弱々しい声でどうにか問いかけた。男は戸口で足を止めた。手はまだ戸板に添えられている。
「国境から歩いて二日ほどの村だ」男は冷たく答えた。
「それで……何人、戻ってきたんですか……」サバルトはすがるような目で男の背を見つめた。
男が戸を半ば開けると、隙間から陽の光が顔に差し、細い目がさらに細まった。
「何人かは知らん。俺たちが見たのは、隊を組んで通っていく兵隊だ。蓄えておいた食糧を、残らず徴発していった。そのあと、傷ついた兵がぽつぽつ戻ってきた」男は言葉を切り、サバルトを振り返った。その目には怒りと、やるせなさがあった。
「お前ら、そんな戦をして、国境沿いに住む俺たちの生き死にを考えたことがあるのか?」
そう言うと男は、地面に勢いよく唾を吐き捨て、何が入っているとも知れぬ杯を持ったまま、戸を閉めて立ち去った。
その後の数日は、一日に二度、決まった時刻に薄い粥がサバルトの藁の寝床のそばへ運ばれてきた。男はその間、サバルトと話をすることもなかった。サバルトは傷に巻かれた布をほどき、様子を確かめてみた。傷口は糸でいびつに縫い合わされていたが、それでも確かに、少しずつ塞がっている。肋骨は何本か折れているらしく、息を吸うたびに激しく痛んだ。幸い、両脚に大した怪我はないようだった。
一週間ほどたつと、左の肋骨あたりの痛みは残るものの、サバルトはゆっくりながらも確かな足取りで歩けるようになっていた。納屋の冷え込みは日ごとに増し、秋ももう半ばを過ぎている。そろそろ、ここを出る頃合いだ。納屋の戸を押し開け、煮炊きの煙が上がる隣の小さな木の家へ向かった。ほんの数十歩の距離を、長い時間をかけて少しずつ進む。ようやく木の戸に手が届いた。押すと、戸は妙な音を立てて開いた。屋内は薄暗く、食べ物の嫌な臭いが漂っていた。サバルトは目を大きく開いて見回し、ようやく炉火の前に男の姿を見つけた。
「助けてくださって、ありがとうございます。でも、すみません。払うお金がありません。それと、鎧を返してください」
男は炉にかけた縁の欠けた鍋で、野草と豆をどろどろに煮ていた。サバルトを振り返ってちらりと見たが、驚いた様子はまるでない。
「鎧は売って金にした。もう行け」男は小鍋を顔の前に持ち上げて中を覗き、それから小さな木の匙で煮崩れた豆をひとさじすくい、口に入れた。
「それなら、せめて着るものを一揃いください」サバルトが着ているのは、血のついた薄手の肌着だけだった。帝国の秋にこの格好では、帝都リンドヒルまで帰り着けない。それはわかっていた。
男はサバルトを見ると、憐れむようにひとつため息をついた。小鍋を石積みのかまどに置いて奥の部屋へ引っ込み、ほどなく汚れた粗い麻布の上着とズボンを持って戻ると、サバルトに放ってよこした。
サバルトは何も言わず、恭しくうなずいた。強い体臭の染みついたその麻の上着とズボンを身につけると、背を向け、木の戸を開けて外へ出た。田畑の畦道をたどり、帝都へと続く木陰の街道を目指して歩いていった……。
サバルトは三日間、物乞い同然に道を歩いた。村を見つけるたびに立ち寄り、食べ物を乞う。村人たちは敗残兵をひたすら避け、次々と戸を固く閉ざした。窓から饐えたパンを一切れか二切れ投げてよこす者もいれば、野草もろくに入っていないどろりとした汁を一椀差し出す者もいた。ある村ではどの家にも門前払いされ、仕方なくひとりで村の井戸へ水を飲みに行ったが、ひと口飲んだところで数人の子供に石を投げつけられ、村外れまで追い立てられた。夜は、運よく見つからずに済めば、どこかの家の納屋に忍び込んで一夜を過ごし、夜も明けぬうちに急いで立ち去る。運が悪ければ、少し大きな木を見つけ、その下で体を丸めて夜を明かす。もし帝国がヤラ平原で勝っていたら、それでも自分はこんな目に遭っていただろうか。考えても、わからなかった。
そうして三日が過ぎると、道幅もしだいに広くなり、ようやく背後から北へ向かう二台の荷馬車がやってくるのが見えた。無駄に声を張り上げるほどの力は、もう残っていない。サバルトはただ、駄目でもともと、と手を振った。
二台の馬車が、目の前で止まった。
御者の隣には、木綿の上着を着た中年の男が座っていた。男はサバルトを見ると、すぐに鼻をつまんだ。
「うっ、ひどい臭いだな。ヤラの敗残兵か?」
「……はい」サバルトは力なく答えた。
「何の兵だ?」男はさらに尋ねた。
「帝国……皇家重歩兵……第七団……」
男は鼻を押さえたまま少し考え、その目に光が宿った。
「リンドヒルへ行くのか? まだ剣は振れるか?」
「食べ物さえ、いただければ……それと、水を……」サバルトはすがるような目で馬車の持ち主を見つめた。
「俺たちはリンドヒルまでは行かないが、帝都のほうへ途中までなら乗せてやれる。食い物と水もやろう。その代わり、俺たちの護衛をしてもらう。それから、この馬車に何を積んでいるか、誰にも話すな。できるか?」持ち主が言い終えるや、隣の御者が口を挟んだ。
「兄貴、こいつで大丈夫ですか? こんなに弱ってるんですよ。どれだけひどい怪我をしてるかもわからない。それに、この積み荷は……」
「黙ってろ。いないよりはましだ。それに、あれだけの大敗だ。生きてるだけでも上等だろう。俺たちが何を積んでいようと、誰が気にする」
御者は肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。持ち主はサバルトに顔を向け、笑いかけた。サバルトは、わかったような、わからないようなままうなずいた。今、頭にあるのは、生きて帰ることだけだった。
「はい……女神に誓います……誰にも話しません……」
持ち主は満足げにうなずくと、首を伸ばし、幌の中に座れと合図した。サバルトは馬車の後ろへ回り、全身の力を振り絞って、ようやく幌の中へよじ登った。その顔から表情が抜け落ちた。幌の中には、刀剣、盾、長槍の穂先がいっぱいに積まれている。盾にはさまざまな紋章があり、刀剣にはどす黒い血の染みと乾いた泥がこびりついていた。王国の騎兵がこちらへ突進してくる光景が、不意によみがえる。剣先を顎の下から突き入れた、あの若い顔。あの、灰のように生気のない両の目。全身に震えが走り、サバルトは思わず体を丸めた。
「この武器は……みんな、ヤラのほうから……」力なく問いかけた。
馬車は速度を落とさず、御者台から低く沈んだ声が返ってきた。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
「……いえ……持っていけばいい……好きなだけ……」
御者台からはもう言葉が返ってこなかった。すぐにパン一切れと革の水袋が一つ、幌の中へ投げ込まれた……。
サバルト




