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北方戦争編 第二十四話 別れ

 エドヴォンスはどこだ?

 七月も半ば。朝の陽射しはまだ焼けつくほどではなく、柔らかな温もりを帯びて帝国北部の大地に降り注いでいた。ソーン川は静かに流れ、ストムセ城外の河原(かわら)では、数人が先日設けた簡易便所を取り壊している。城門は大きく開かれ、軽歩兵たちが南の林から切り出した木材を担ぎ、荷車や馬車に積んでいた。鉄籬堡(てつりほう)へ運ぶ支度だ。

 川向こうの遠い野営地(やえいち)は、一晩燃えつづけ、天幕(てんまく)の骨組みすら残っていない。黒い炭と天幕の布の燃えかすが、あちこちにむき出しのまま広がり、数里にわたって続いている。その中で、兵たちが金目の物や、残された情報の手掛(てが)かりを探していた。

 エドヴォンスはどこだ?

「閣下? 閣下?」

 デクラスがゆっくりと目を開けると、かすむ視界に、あの茶色の髪の若い顔が浮かんだ。

「水……」

 デクラスはようやく、そのひと言を唇の間から絞り出した。

 ファスビンダーは身を翻(ひるがえ)して駆けてゆき、ほどなく大きな陶器(とうき)の杯(さかずき)に水を入れて戻ると、デクラスの口元へ差し出した。デクラスはゆっくりと首を横に振った。目が回り、苦しくて顔がゆがむ。どうにか片手を持ち上げ、自分の顔を指した。

「……かけろ……早く……」

 ファスビンダーは酔いの抜けぬ主人の顔を見て、思わずくっくっと笑い出した。

「閣下、かけますよ?」

 デクラスは苦しげに「うん」と声を漏らした。ばしゃっ! 大きな杯いっぱいの水が、勢いよくその顔に浴びせられた。

「聖職者(せいしょくしゃ)と治療兵を全員、すぐに鉄籬堡へ送れ!」

 デクラスは勢いよく身を起こし、叫んだ。市庁舎の宴の広間で掃除をしていた者たちが、驚いて一斉に振り向く。

「閣下、落ち着いてください。とっくに向かわせていますから。大丈夫ですよ」

 ファスビンダーがデクラスの背を支えた。

 エドヴォンスはどこだ?

 デクラスは「ああ」と声を漏らし、両手のひらを額の両側に押し当て、強く揉んだ。歯をむき出すように顔をしかめ、しばらくしてようやく落ち着くと、少しは意識がはっきりしたようだった。

「ファスビンダー、今はどうなっているんだ?」

 食卓にあった、中身の残る杯を無意識に取り上げ、水だと思ってひと口飲んだ。すぐに、ぶっと吹き出す。それは昨夜の宴の麦酒(ばくしゅ)だった。泡はとうに消え、夏の夜にひと晩置きっぱなしになっていた麦酒は、ひどく酸っぱく渋くなっていた。ファスビンダーは慌ててまた水を汲(く)んできた。デクラスは何口も勢いよく飲み、それから両手へ水を注ぐよう合図して、顔を何度も強くこすった。

「閣下、策は成功しました。アイカドの王太子と、大勢の親衛兵(しんえいへい)を捕らえました。今はリュッペル閣下とサディス閣下が、兵を率いてアイカド軍を追っています」

「そうか、よし。それはよかった。お前はいつ戻った?」

「夜が明ける少し前に戻ったんです。閣下をさんざん探して、やっと、ずっとここで寝ていらしたとわかりました」

 デクラスは、自分がまだ宴の広間にいることをようやく思い出した。四方を見回すと、ひどい有様だった。エド。食卓はどれも倒れたり傾いたりしていて、ヴォンス、食べ物と酒が床いっぱいに散らばり、市庁舎の職員が数人、箒(ほうき)で掃いている、どこだ。昨夜、サディスたちがいったいどんな目に遭ったのか、見当もつかない。

「起こしてくれ。外を見に行こう」

 デクラスは手を伸ばし、ファスビンダーの肩につかまった。ファスビンダーが片手を脇(わき)の下へ差し入れ、支える。デクラスはようやく立ち上がった。

 外へ出た途端、陽の光に目が開けられなくなった。夏の風がゆるやかに吹き抜け、頭は冴(さ)えてくるのに、激しい頭痛がした。目をこすればいいのか、頭を押さえればいいのか、一瞬わからなくなる。

「閣下、昨日はいったいどれだけ飲んだんです?」

 ファスビンダーはデクラスを支えていた。明るい陽の下で、デクラスは初めて、彼の簡素な鎧(よろい)にどれほどの血がこびりついているかをはっきりと見た。

「覚えていない……行こう。少し歩くから、付き合ってくれ」

 デクラスはストムセの北門を指し、ふらふらと歩き出した。

「閣下!」「閣下!」

 通りで出会う兵も、すれ違う兵も、皆、誇(ほこ)らしげな顔をし、感服した様子で声をかけてきた。デクラスは手を振って応えた。

 通りの脇には、縛(しば)られたアイカド兵が大勢いた。一人ずつ手足を縛ったうえで、さらに数人まとめて何本もの長い縄でくくられている。ここまで歩いただけでも、少なくとも数百人はいた。

「……鉄籬堡のほうは、どうなっている?」

 デクラスは遠くの城門を見ながら、歩きつつ尋ねた。

 ファスビンダーの笑みが一瞬にして消えた。声も低くなる。

「閣下、あちらは、ひどい有様です」

 デクラスは何も言わなかった。足取りはいくらか軽くなり、体も少しずつ酒の支配から抜け出してゆく。もうファスビンダーの支えは借りず、彼を連れて城門へと歩みを速めた。エドヴォンス

 城門脇の城壁の下には、大きな檻(おり)がいくつか並び、人が閉じ込められていた。二人が近づくと、檻の中から激しいアイカド語の罵声(ばせい)が噴き出した。デクラスは檻の前まで進み、中をよく見た。

「おや、王太子殿下と通訳殿ではありませんか」

 デクラスはからかうように、王太子へ貴族の礼をしてみせた。王太子は惨(みじ)めな姿で檻の中にうずくまっていた。犬を入れる檻と、さほど変わらない大きさだった。中では背を伸ばすこともできず、身を縮めてうずくまるしかない。衣服は破れ、ブーツも狼(おおかみ)の毛皮のマントも、首に巻いていた狼の牙(きば)と金の薄片の首飾りも、なくなっている。今はただ、災難に遭った普通のアイカド兵にしか見えない。通訳は、ほかの兵数人と一緒に、隣の檻に入れられていた。どこだ

 王太子はまだ狂ったように罵っている。デクラスは指で耳をほじり、通訳へ顔を向けた。

「お前の王太子は、何と言っているんだ?」

「ぺっ! くそ野郎! 汚い策ばかり使う卑怯者(ひきょうもの)! 大地と森の怒りと、幾千幾万のアイカドの英霊(えいれい)の罰が、必ずお前に降りかかる!」

 通訳は目に凶暴な光を浮かべ、歯を食いしばって、ぎこちない西大陸の言葉で叫んだ。

「おやおや、怖くて死にそうだ」

 デクラスはファスビンダーに向かって肩をすくめ、続けた。

「な、私だって昨夜は楽じゃなかったんだ」

「ええ、閣下。それは大変だったでしょうね」

 デクラスはファスビンダーを連れて立ち去ろうとしたが、ふと足を止め、通訳にひと言付け加えた。

「ああ、そうだ。お前の王太子に言っておいてくれ。今なら、西大陸の言葉を覚える時間はたっぷりある。な? そのほうが、これから話もしやすい」

 また激しい罵声が上がった。デクラスは両手で耳をふさぎ、ファスビンダーを連れて城門の下へ歩いてゆく。

「馬を二頭、用意してくれ。鉄籬堡へ行こう」

「閣下、今、馬に乗れるんですか?」

「余計な心配をするな。ゆっくり行けばいい」

「はい、閣下」

 北門を出た二頭の馬が、北岸へ続く石橋を渡ってゆく。馬はのんびりと尾を振り、人ものんびりと肩を揺らしていた。

 エドヴォンスはどこなんだ。サバルトは魂(たましい)の抜けたように城壁の上を何周か歩いた。目を覚ましたときには、もうすっかり明るくなっていた。

 城壁沿いのあの石段を下り、城壁の下に積み上がった死体の山をかき分けている。

「頭は? 頭は?」

 サバルトはひとりつぶやいた。

 死体の片づけを手伝うため、ストムセから送られてきた一隊の軽歩兵が近づいた。ここの死体を運び始めようとしたところで、サバルトがにこにこと笑い、穏やかな小声で尋ねる。

「すみません。エドヴォンスの頭、見ませんでしたか?」

 そう言いながら、手でその大きさを示した。

 血まみれの体、へこんだ鎧(よろい)、うつろな両目。それなのに口調は落ち着き、顔には笑みが浮かんでいる。その姿に、軽歩兵たちはおびえて後ずさりし、必死に手も首も振った。

「見てないんですか。俺、どこを探しても見つからないんですよ。これくらいの頭なんですけど、どこにあるんでしょうね?」

 軽歩兵の一人が、恐怖のあまりその場にどさりと膝(ひざ)をついた。

「女神に誓います。本当に、俺たちは見ていません」

「じゃあ、どこにあるんでしょうね? どうしてないんでしょうね?」

「サバ! サバ!」

 第二連隊の重歩兵が一人駆け寄り、後ろからサバルトを抱きとめた。

「サバ! やめろ! もうやめろ!」

 サバルトは振り返って、その男を見た。最初の二十六人のうちの一人だった。

「違うんだよ。エドの頭が見つからないんだ」

「隊長殿(たいちょうどの)! 隊長殿!!!」

 兵が叫ぶと、もう一人の重歩兵も駆けつけ、二人でサバルトを押さえた。

 第二連隊の指揮官が足早に近づき、サバルトの顔に平手(ひらて)を打ちつける。

「サバルト! しっかりしろ!」

 指揮官が怒鳴った。

「違うんです、隊長殿。エドの頭が……」

 二発目の平手が、その顔を打つ。

「隊長殿、エドが……」

 三発目の平手が、その顔を打つ。

 第二連隊の指揮官はサバルトの両肩をつかみ、力任せに揺さぶった。

「目を覚ませ、くそっ! みんな死んだんだ! みんな死んだんだよ!」

 サバルトは呆然(ぼうぜん)とした。自分を激しく揺さぶる指揮官を、うつろな目で見つめる。サバルトの顔が、少しずつ苦痛にゆがんでゆく。我に返った。だが、目の前はもうよく見えない。

 二人の兵と抱き合い、三人で声を上げて泣き出した。第二連隊の指揮官は顔をそむけた。目を潤(うる)ませたまま、もう何も言わなかった。二頭の馬が、鉄籬堡(てつりほう)の壊れた北門からゆっくりと入ってきた。乗っていた二人は馬を下り、城門のそばにつなぐ。今朝、応援に送られてきた軽歩兵の指揮官が、すぐに駆け寄ってきた。

 デクラスは泣き声のするほうへ目をやった。

「あちらは、どうしたんだ?」

「閣下、戦友が戦死したのでしょう」

 軽歩兵の指揮官が答えた。

「そうか……第一団の団長は?」

「……戦死しました」

 デクラスは厳しい顔で何度かまばたきをした。深く息を吸い、重いため息を吐く。

「何人残っている?」

「閣下……今朝、人数を確かめましたが、重歩兵、弓兵と弩兵(どへい)、教廷国の志願兵を合わせて、二百人も残っていません」

「わかった。仕事に戻ってくれ。ああ、そうだ。聖職者(せいしょくしゃ)を一人呼んで、あの泣いている兵たちを癒(い)やしてやってくれ」

「はっ、閣下」

 軽歩兵の指揮官は踵(きびす)を返し、死体の運搬と負傷者の治療の指揮に戻った。デクラスは振り返り、意味ありげな眼差(まなざ)しでファスビンダーを見た。

「お前は昨夜、ここで一晩戦っていたんだな……そうか」

 ファスビンダーはただうなずき、何も言わなかった。デクラスが先に身を翻(ひるがえ)して城壁へ上がり、ファスビンダーがそのあとに続く。

 北門の門楼(もんろう)では、数人の兵が木桶で汲(く)んできた水で、城壁や石床を洗い流していた。血の混じった汚水(おすい)が一気に流れ広がり、デクラスの革のブーツを濡らす。彼は両手を後ろで組んで城壁の縁(ふち)まで歩き、かつてアイカド軍の大きな野営地があった場所を遠く眺めた。ファスビンダーはその傍らに立っている。

「あと一日早く降伏を装っていたら、何もかも違っていたのだろうか。そんなことを考えていた」

 デクラスは、目の前を吹き抜ける風と、飛び交う群烏(むらがらす)に向かって言った。

「閣下、ご自分を責めないでください。あまり悲しまないでください」

「いやいや、ファスビンダー。私は自分を責めてはいないし、自分の選択を後悔もしない。ただ、私にも見落としがあったと思ってね。連中がいきなり全軍を投入してくるとは、まったく考えていなかった。これは私の判断の誤りだ」

「閣下、そういうことは、私には閣下に代わって判断したり、策を練ったりはできません。でも、これだけは言わせてください。二つの川の間で暮らす民は救われました。私が言いたいのは、それだけです」

 デクラスはファスビンダーに笑いかけ、彼を連れて城壁を一周した。それから城内の空き地や主楼(しゅろう)を回り、兵たちの傷の具合を確かめ、治療兵や聖職者を率いる者たちにも指示を出した。ここの兵たちは、ストムセの兵のように、敬意と誇りに満ちた笑顔を向けてはこなかった。

 二人は馬に乗り、ストムセへ戻った。市庁舎の中はすでに片づけられ、あの指揮用の天幕(てんまく)も、もうなくなっている。

 デクラスはファスビンダーに、従軍書記官とストムセの市政官を呼んでくるよう言い、自分は市庁舎の中で適当な場所を見つけて腰を下ろした。ほどなく、二人の役人が恭(うやうや)しくその前に立った。

「市政官、戦は終わった。そこで提案があるんだが、ストムセの資金の一部を軍の給金に回して、兵たちに支払ってやろうじゃないか。どうだろう?」

 市政官はもじもじと手をすり合わせ、困り果てた様子だった。傍らのファスビンダーにきつく睨(にら)まれ、ようやく口を開く。

「閣下、一部だけということでしたら、加減を考えていただければ、私に異存(いぞん)はございません」

 その様子を見て、デクラスは昨日のことを思い出した。この市政官は、宴の席では自分たちを守ってほしいと、懇願(こんがん)していたのだった。昨夜、そのあと何があったのかは知らないが、よほど怖い思いをしたのだろう。

「わかった。加減は考えるよ。書記官」

「はい、閣下。何をいたしましょう」

「前に作らせた名簿を、もう一度確認してくれ。戦死した兵の給金は五倍。戻ったら、必ず遺族(いぞく)の手に渡るようにするんだ。生き残った兵には三倍、今夜のうちに支払え。全部でいくら必要になるか計算して、その半分をストムセの財庫(ざいこ)から出してもらってくれ」

 夜になった。鉄籬堡を守っていた兵たちが、ようやくストムセへ帰ってきた。大半は傷を負い、荷車や馬車に横たわっての帰還だった。サバルトたちが城門をくぐるや、住民たちが押し寄せてきた。食べ物を押しつける者もいれば、涙を流しながら祝福の言葉をかける者もいる。だが、兵たちは誰もが無表情だった。中身をすっかり抜き取られてしまったかのように。

 彼らには、城内でも指折りの、大きく立派な兵舎が数棟あてがわれた。もう藁(わら)の寝床ではない。木の寝台(しんだい)がずらりと並んでいる。第二連隊で戻ってきたのは、全部で五十八人。サバルトと同じ旧重歩兵第七団第三連隊の二十六人は、五人しか残っていなかった。

 サバルトは口の中のパンを機械的に噛みながら、寝台に横たわり、兵舎の天井を見つめていた。ここからは星が見えない。空さえも、見えない……。

「閣下、リュッペル閣下とサディス閣下がお戻りになりました」

 伝令兵(でんれいへい)が報告に来た。

 月はすでに空の真ん中まで昇っていた。デクラスの待っていた二人の指揮官が、ようやく戻ってきた。

 リュッペルとサディスは、一方は白銀、もう一方は黒みを帯びた精鋼(せいこう)の鎧(よろい)をまとい、旅塵(りょじん)にまみれて入ってきた。中央に座るデクラスを見ると、二人も両脇に用意されていた椅子に腰を下ろした。

「戦況は?」

 デクラスが尋ねた。

「閣下、ご命令どおり兵を率いてニフォルの森の近くまで追撃し、そこで引き返しました。アイカドの残兵千人余りが森へ逃げ込みましたが、それ以外はすべて殲滅(せんめつ)しました」

 リュッペルは笑みを浮かべて報告した。

「よし、よし。サディス殿、昨夜は、どんなふうに事を運んだんだ?」

 デクラスは今度はサディスへ顔を向けた。サディスは相変わらずの硬い顔で、真面目に答える。

「閣下。昨夜、閣下が踊られたあと、アイカド人はすっかり気を緩め……」

「待て、ちょっと待て」

 デクラスは不意に話を遮(さえぎ)り、戸惑いと気まずさの入り混じった顔で、自分を指した。

「私が……昨夜……踊ったのか???」

 サディスも少し気まずそうだった。思い出したくもない過去が蘇(よみがえ)ったかのように、いつもの硬い顔が、ひくひくと引きつる。

「……はい、閣下。踊られました……それはもう、ひどく……醜(みにく)い踊りでした」

 リュッペルとファスビンダーは、ひどく驚き、面白がるような顔でデクラスを見た。デクラスは椅子の肘掛(ひじか)けに肘をつき、手で顔を覆(おお)った。目も鼻も口もくしゃくしゃにゆがめ、しばらくしてようやく、また口を開く。

「サディス殿……踊りのことは、陛下に報告しないでもらえないか……」

「……閣下。陛下が宴(うたげ)の細かな様子をお尋ねにならなければ……私からは申し上げません」

 デクラスはこらえるように拳(こぶし)を握った。

「よし、それで決まりだ。続けてくれ」

「はい、閣下。昨夜、閣下が踊られたあと、アイカド人はすっかり警戒を解きました。私も酒を勧めるふりをして、その隙(すき)にブーツに隠していた小刀(こがたな)で王太子を人質に取りました。私の兵が親衛兵(しんえいへい)を数人始末し、市庁舎(しちょうしゃ)の周囲に潜んでいた軽歩兵と重歩兵も一斉に襲いかかりました。王太子は命が惜しかったのでしょう。配下全員に降伏を命じました。それで、難なく制圧できたのです」

 デクラスはうなずき、リュッペルを見た。

「閣下、こちらも実に順調でした。昨夜、ひそかに城壁へ上がると、敵の守備兵は酒を飲んでいました。ですから、城壁も城門も難なく奪えました。軽歩兵のほうは、通りを制圧する際に少し抵抗を受け、何人か死んだそうです。おおむね、そのようなところです」

 リュッペルも、昨夜の部隊の動きを報告した。

「戦(いくさ)も終わったことだし……」

 デクラスは両手で太腿(ふともも)を叩き、立ち上がった。

「皆、今夜はしっかり休んでくれ。明日の正午、陣を払い、引き揚げる」

「はっ! 閣下!」

 サバルトは寝台(しんだい)の上に身を起こした。昨日のあの激戦が、エドヴォンスが、ヤラで死んだ、鉄籬堡(てつりほう)で死んだ戦友たち一人ひとりの顔が、頭の中を埋め尽くしている。

 静かに立ち上がり、ゆっくりと兵舎を出た。壁に背を預け、地べたに腰を下ろす。少し離れた木の幹から、蝉(せみ)の声がしきりに聞こえる。月は西へ傾き始め、空には星がいくつか浮かんでいた。座ってまだ間もないうちに、同じ第七団第三連隊にいた四人の兵も兵舎から出てきて、隣に並んで腰を下ろした。五人は揃(そろ)って空を見上げる。どの顔にも疲れがにじんでいた。そのまま、しばらく誰も口を開かなかった。

「みんなも眠れないのか?」

 サバルトが尋ねると、四人ともうなずいた。

「実は……考えてることがあるんだ」

 サバルトはそのまま話し始めた。

「何を考えてるんだ?」

 一人が尋ねた。

 サバルトはうつむき、足元の草を一本、何気なくむしった。指でしばらく揉(も)んでから地面へ捨てる。草の葉と土の匂いが、胼胝(たこ)のできた指の節に残った。

「俺……もう、やめたい」

「サバ、どういう意味だ?」

「俺、軍を離れたいんだ」

 四人の顔に、かすかな驚きが浮かんだ。

「サバ、脱走する気か?」

 一人が言った。

「ああ、逃げたい。もうたくさんだ。お前らなら、わかってくれるだろ?」

 サバルトは穏(おだ)やかな顔で四人を見た。誰も答えない。足元の草をいじり始める者もいれば、小石をひとつかみ拾い、一つずつ投げる者もいる。

「一緒に逃げないか?」

 サバルトが続けた。

 四人はかすかに笑い、そのうちの一人が口を開いた。

「サバ、俺たちはお前と違う。みんな、リンドヒルに家族がいるんだ。俺たちが脱走したら、家族がひどい目に遭う。でも、お前は逃げろ。遠くまで逃げて、もう戦なんかするな」

 サバルトは「ああ」と答え、久しぶりに笑みを浮かべた。

「今夜、逃げるつもりなのか?」

 別の兵が尋ねた。

「いや。城門が開いてるかどうかもわからないし。帰りの行軍中に、機会を見つけようと思って……」

「何を話している」

 不意に、傍(かたわ)らの兵舎の入口から低い声がした。

 五人が振り返ると、第二連隊の指揮官が背後に立っていた。

 五人はぎくりとして、その場で身を固くした。誰も声を出せない。第二連隊の指揮官は数歩近づき、サバルトの前で足を止めた。

「話は全部聞いた。部下が脱走するのを止めなければ、俺もただでは済まん」

 サバルトは指揮官を見上げたが、何と言えばいいのかわからなかった。顔をそむけ、もうその目を見ることもできない。指揮官は責めもせず、ただ小さくため息をついた。

「逃げる前に、それとなく俺に合図しろ。俺を一発殴(なぐ)ってから逃げろ」

 第二連隊の指揮官は、先ほどと変わらぬ厳しい口調でそう言った。その言葉に五人とも驚いた。ほかの四人はこわばっていた顔をほころばせ、一斉にサバルトを見る。

「隊長殿(たいちょうどの)……俺……」

 サバルトはようやく、もう一度指揮官の目を見ることができた。

 指揮官は両手で服のあちこちを探り、内ポケットから銀貨を数枚取り出した。皆が驚いて見守る中、それをサバルトへ差し出す。

「持っていけ。道中で使え」

 サバルトは何も答えず、手を差し出すこともできずにいた。指揮官はその片手をぐいと取り、強引に銀貨を握らせた。

「サバ、ちょっと待ってろ」

 四人もそう言って兵舎へ駆け戻り、ほどなくまた出てきた。皆が、それぞれ何枚かの銀貨をサバルトの手に無理やり押し込んだ。

「サバ、持っていけよ。今日はたっぷりもらったんだから」

 一人の兵が言った。

 サバルトは銀貨を両手に受けたまま、皆を見つめた。感謝をどう言葉にすればいいのか、わからない。

「よし、全員戻って寝ろ。明日は出発だぞ」

 第二連隊の指揮官はそう言い渡すと、欠伸(あくび)を一つした。それから真っ先に背を向け、伸びをして兵舎へ戻っていった。皆も静かにそのあとに続いた。

 正午、デクラスはストムセの官吏(かんり)たちに別れを告げ、道の両側に並ぶ民に見送られながら、先頭に立って馬で城門を出た。鉄翎軍(てつれいぐん)、聖騎士、志願兵がそのあとに続き、第二団の団長が残りわずかな重歩兵を率いて、最後尾を歩いた。

 大勢の負傷兵を抱え、隊列の歩みはひどく遅かった。夕暮れ、薄暗くなり始めたころ、全軍は河原(かわら)に陣を張り、食事の支度に取りかかった。皆が天幕(てんまく)を張ったり、川へ水を汲(く)みに行ったりと忙しく立ち働くなか、サバルトは四人それぞれに、微笑んでうなずいた。四人は競うようにサバルトの肩を叩き、その腕をつかんでぎゅっと握る。それを見ていた第二連隊の指揮官は、微笑みながら首を横に振り、それからサバルトに目配(めくば)せをする。

「お前たちはここでおとなしくしていろ! 俺は小便してくる!」

 そう言って第二連隊の指揮官は一人で立ち上がり、隊から離れて、少し先の灌木(かんぼく)の茂みのそばへ歩いてゆく。

 サバルトも立ち上がってそのあとに続き、茂みのそばまで来ると、指揮官の肩を軽く叩く。

「隊長殿(たいちょうどの)、すみません。またいつか、どこかで」

 言い終えるなり、指揮官の顔に重い一発を叩き込む。

 サバルトは茂みを跳び越え、両脚で地を蹴(け)って駆け出す。夕陽(ゆうひ)が最後に残す温かな赤い光へ向かって、その命に宿る力をすべて使い果たすかのように、全力で走る。

「脱走兵だ!」

 異変に気づいた別の兵が叫んだ。たちまち陣中にざわめきが広がった。

 張られたばかりの天幕の中に座っていたデクラスとファスビンダーにも、外の騒ぎが聞こえた。すぐに兵が一人駆け込んできて、声を張り上げた。

「閣下! 脱走兵です!」

 サディスは勢いよく立ち上がったが、デクラスに呼び止められた。

「いい。行かせてやれ」

 サディスは仕方なく座り直した。リュッペルとファスビンダーの顔には、笑みが浮かんでいた。

 さらに二日行軍したのち、道の分かれ目で、リュッペルは聖騎士と生き残った数十人の志願兵を率い、デクラスに別れを告げて教廷国の方角へと去っていった。別れ際には、時間ができたらぜひ教廷国を訪れ、聖山の壮麗(そうれい)な景色を見てほしいと、デクラスを誘った。デクラスは笑って、行くと答えた。

 さらに数日進むうちに、土地は次第に高くなっていった。広大な丘陵(きゅうりょう)へと上ると、そこにリンドヒルがあった……。

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