北方戦争編 第二十四話 別れ
エドヴォンスはどこだ?
七月も半ば。朝の陽射しはまだ焼けつくほどではなく、柔らかな温もりを帯びて帝国北部の大地に降り注いでいた。ソーン川は静かに流れ、ストムセ城外の河原では、数人が先日設けた簡易便所を取り壊している。城門は大きく開かれ、軽歩兵たちが南の林から切り出した木材を担ぎ、荷車や馬車に積んでいた。鉄籬堡へ運ぶ支度だ。
川向こうの遠い野営地は、一晩燃えつづけ、天幕の骨組みすら残っていない。黒い炭と天幕の布の燃えかすが、あちこちにむき出しのまま広がり、数里にわたって続いている。その中で、兵たちが金目の物や、残された情報の手掛かりを探していた。
エドヴォンスはどこだ?
「閣下? 閣下?」
デクラスがゆっくりと目を開けると、かすむ視界に、あの茶色の髪の若い顔が浮かんだ。
「水……」
デクラスはようやく、そのひと言を唇の間から絞り出した。
ファスビンダーは身を翻して駆けてゆき、ほどなく大きな陶器の杯に水を入れて戻ると、デクラスの口元へ差し出した。デクラスはゆっくりと首を横に振った。目が回り、苦しくて顔がゆがむ。どうにか片手を持ち上げ、自分の顔を指した。
「……かけろ……早く……」
ファスビンダーは酔いの抜けぬ主人の顔を見て、思わずくっくっと笑い出した。
「閣下、かけますよ?」
デクラスは苦しげに「うん」と声を漏らした。ばしゃっ! 大きな杯いっぱいの水が、勢いよくその顔に浴びせられた。
「聖職者と治療兵を全員、すぐに鉄籬堡へ送れ!」
デクラスは勢いよく身を起こし、叫んだ。市庁舎の宴の広間で掃除をしていた者たちが、驚いて一斉に振り向く。
「閣下、落ち着いてください。とっくに向かわせていますから。大丈夫ですよ」
ファスビンダーがデクラスの背を支えた。
エドヴォンスはどこだ?
デクラスは「ああ」と声を漏らし、両手のひらを額の両側に押し当て、強く揉んだ。歯をむき出すように顔をしかめ、しばらくしてようやく落ち着くと、少しは意識がはっきりしたようだった。
「ファスビンダー、今はどうなっているんだ?」
食卓にあった、中身の残る杯を無意識に取り上げ、水だと思ってひと口飲んだ。すぐに、ぶっと吹き出す。それは昨夜の宴の麦酒だった。泡はとうに消え、夏の夜にひと晩置きっぱなしになっていた麦酒は、ひどく酸っぱく渋くなっていた。ファスビンダーは慌ててまた水を汲んできた。デクラスは何口も勢いよく飲み、それから両手へ水を注ぐよう合図して、顔を何度も強くこすった。
「閣下、策は成功しました。アイカドの王太子と、大勢の親衛兵を捕らえました。今はリュッペル閣下とサディス閣下が、兵を率いてアイカド軍を追っています」
「そうか、よし。それはよかった。お前はいつ戻った?」
「夜が明ける少し前に戻ったんです。閣下をさんざん探して、やっと、ずっとここで寝ていらしたとわかりました」
デクラスは、自分がまだ宴の広間にいることをようやく思い出した。四方を見回すと、ひどい有様だった。エド。食卓はどれも倒れたり傾いたりしていて、ヴォンス、食べ物と酒が床いっぱいに散らばり、市庁舎の職員が数人、箒で掃いている、どこだ。昨夜、サディスたちがいったいどんな目に遭ったのか、見当もつかない。
「起こしてくれ。外を見に行こう」
デクラスは手を伸ばし、ファスビンダーの肩につかまった。ファスビンダーが片手を脇の下へ差し入れ、支える。デクラスはようやく立ち上がった。
外へ出た途端、陽の光に目が開けられなくなった。夏の風がゆるやかに吹き抜け、頭は冴えてくるのに、激しい頭痛がした。目をこすればいいのか、頭を押さえればいいのか、一瞬わからなくなる。
「閣下、昨日はいったいどれだけ飲んだんです?」
ファスビンダーはデクラスを支えていた。明るい陽の下で、デクラスは初めて、彼の簡素な鎧にどれほどの血がこびりついているかをはっきりと見た。
「覚えていない……行こう。少し歩くから、付き合ってくれ」
デクラスはストムセの北門を指し、ふらふらと歩き出した。
「閣下!」「閣下!」
通りで出会う兵も、すれ違う兵も、皆、誇らしげな顔をし、感服した様子で声をかけてきた。デクラスは手を振って応えた。
通りの脇には、縛られたアイカド兵が大勢いた。一人ずつ手足を縛ったうえで、さらに数人まとめて何本もの長い縄でくくられている。ここまで歩いただけでも、少なくとも数百人はいた。
「……鉄籬堡のほうは、どうなっている?」
デクラスは遠くの城門を見ながら、歩きつつ尋ねた。
ファスビンダーの笑みが一瞬にして消えた。声も低くなる。
「閣下、あちらは、ひどい有様です」
デクラスは何も言わなかった。足取りはいくらか軽くなり、体も少しずつ酒の支配から抜け出してゆく。もうファスビンダーの支えは借りず、彼を連れて城門へと歩みを速めた。エドヴォンス
城門脇の城壁の下には、大きな檻がいくつか並び、人が閉じ込められていた。二人が近づくと、檻の中から激しいアイカド語の罵声が噴き出した。デクラスは檻の前まで進み、中をよく見た。
「おや、王太子殿下と通訳殿ではありませんか」
デクラスはからかうように、王太子へ貴族の礼をしてみせた。王太子は惨めな姿で檻の中にうずくまっていた。犬を入れる檻と、さほど変わらない大きさだった。中では背を伸ばすこともできず、身を縮めてうずくまるしかない。衣服は破れ、ブーツも狼の毛皮のマントも、首に巻いていた狼の牙と金の薄片の首飾りも、なくなっている。今はただ、災難に遭った普通のアイカド兵にしか見えない。通訳は、ほかの兵数人と一緒に、隣の檻に入れられていた。どこだ
王太子はまだ狂ったように罵っている。デクラスは指で耳をほじり、通訳へ顔を向けた。
「お前の王太子は、何と言っているんだ?」
「ぺっ! くそ野郎! 汚い策ばかり使う卑怯者! 大地と森の怒りと、幾千幾万のアイカドの英霊の罰が、必ずお前に降りかかる!」
通訳は目に凶暴な光を浮かべ、歯を食いしばって、ぎこちない西大陸の言葉で叫んだ。
「おやおや、怖くて死にそうだ」
デクラスはファスビンダーに向かって肩をすくめ、続けた。
「な、私だって昨夜は楽じゃなかったんだ」
「ええ、閣下。それは大変だったでしょうね」
デクラスはファスビンダーを連れて立ち去ろうとしたが、ふと足を止め、通訳にひと言付け加えた。
「ああ、そうだ。お前の王太子に言っておいてくれ。今なら、西大陸の言葉を覚える時間はたっぷりある。な? そのほうが、これから話もしやすい」
また激しい罵声が上がった。デクラスは両手で耳をふさぎ、ファスビンダーを連れて城門の下へ歩いてゆく。
「馬を二頭、用意してくれ。鉄籬堡へ行こう」
「閣下、今、馬に乗れるんですか?」
「余計な心配をするな。ゆっくり行けばいい」
「はい、閣下」
北門を出た二頭の馬が、北岸へ続く石橋を渡ってゆく。馬はのんびりと尾を振り、人ものんびりと肩を揺らしていた。
エドヴォンスはどこなんだ。サバルトは魂の抜けたように城壁の上を何周か歩いた。目を覚ましたときには、もうすっかり明るくなっていた。
城壁沿いのあの石段を下り、城壁の下に積み上がった死体の山をかき分けている。
「頭は? 頭は?」
サバルトはひとりつぶやいた。
死体の片づけを手伝うため、ストムセから送られてきた一隊の軽歩兵が近づいた。ここの死体を運び始めようとしたところで、サバルトがにこにこと笑い、穏やかな小声で尋ねる。
「すみません。エドヴォンスの頭、見ませんでしたか?」
そう言いながら、手でその大きさを示した。
血まみれの体、へこんだ鎧、うつろな両目。それなのに口調は落ち着き、顔には笑みが浮かんでいる。その姿に、軽歩兵たちはおびえて後ずさりし、必死に手も首も振った。
「見てないんですか。俺、どこを探しても見つからないんですよ。これくらいの頭なんですけど、どこにあるんでしょうね?」
軽歩兵の一人が、恐怖のあまりその場にどさりと膝をついた。
「女神に誓います。本当に、俺たちは見ていません」
「じゃあ、どこにあるんでしょうね? どうしてないんでしょうね?」
「サバ! サバ!」
第二連隊の重歩兵が一人駆け寄り、後ろからサバルトを抱きとめた。
「サバ! やめろ! もうやめろ!」
サバルトは振り返って、その男を見た。最初の二十六人のうちの一人だった。
「違うんだよ。エドの頭が見つからないんだ」
「隊長殿! 隊長殿!!!」
兵が叫ぶと、もう一人の重歩兵も駆けつけ、二人でサバルトを押さえた。
第二連隊の指揮官が足早に近づき、サバルトの顔に平手を打ちつける。
「サバルト! しっかりしろ!」
指揮官が怒鳴った。
「違うんです、隊長殿。エドの頭が……」
二発目の平手が、その顔を打つ。
「隊長殿、エドが……」
三発目の平手が、その顔を打つ。
第二連隊の指揮官はサバルトの両肩をつかみ、力任せに揺さぶった。
「目を覚ませ、くそっ! みんな死んだんだ! みんな死んだんだよ!」
サバルトは呆然とした。自分を激しく揺さぶる指揮官を、うつろな目で見つめる。サバルトの顔が、少しずつ苦痛にゆがんでゆく。我に返った。だが、目の前はもうよく見えない。
二人の兵と抱き合い、三人で声を上げて泣き出した。第二連隊の指揮官は顔をそむけた。目を潤ませたまま、もう何も言わなかった。二頭の馬が、鉄籬堡の壊れた北門からゆっくりと入ってきた。乗っていた二人は馬を下り、城門のそばにつなぐ。今朝、応援に送られてきた軽歩兵の指揮官が、すぐに駆け寄ってきた。
デクラスは泣き声のするほうへ目をやった。
「あちらは、どうしたんだ?」
「閣下、戦友が戦死したのでしょう」
軽歩兵の指揮官が答えた。
「そうか……第一団の団長は?」
「……戦死しました」
デクラスは厳しい顔で何度かまばたきをした。深く息を吸い、重いため息を吐く。
「何人残っている?」
「閣下……今朝、人数を確かめましたが、重歩兵、弓兵と弩兵、教廷国の志願兵を合わせて、二百人も残っていません」
「わかった。仕事に戻ってくれ。ああ、そうだ。聖職者を一人呼んで、あの泣いている兵たちを癒やしてやってくれ」
「はっ、閣下」
軽歩兵の指揮官は踵を返し、死体の運搬と負傷者の治療の指揮に戻った。デクラスは振り返り、意味ありげな眼差しでファスビンダーを見た。
「お前は昨夜、ここで一晩戦っていたんだな……そうか」
ファスビンダーはただうなずき、何も言わなかった。デクラスが先に身を翻して城壁へ上がり、ファスビンダーがそのあとに続く。
北門の門楼では、数人の兵が木桶で汲んできた水で、城壁や石床を洗い流していた。血の混じった汚水が一気に流れ広がり、デクラスの革のブーツを濡らす。彼は両手を後ろで組んで城壁の縁まで歩き、かつてアイカド軍の大きな野営地があった場所を遠く眺めた。ファスビンダーはその傍らに立っている。
「あと一日早く降伏を装っていたら、何もかも違っていたのだろうか。そんなことを考えていた」
デクラスは、目の前を吹き抜ける風と、飛び交う群烏に向かって言った。
「閣下、ご自分を責めないでください。あまり悲しまないでください」
「いやいや、ファスビンダー。私は自分を責めてはいないし、自分の選択を後悔もしない。ただ、私にも見落としがあったと思ってね。連中がいきなり全軍を投入してくるとは、まったく考えていなかった。これは私の判断の誤りだ」
「閣下、そういうことは、私には閣下に代わって判断したり、策を練ったりはできません。でも、これだけは言わせてください。二つの川の間で暮らす民は救われました。私が言いたいのは、それだけです」
デクラスはファスビンダーに笑いかけ、彼を連れて城壁を一周した。それから城内の空き地や主楼を回り、兵たちの傷の具合を確かめ、治療兵や聖職者を率いる者たちにも指示を出した。ここの兵たちは、ストムセの兵のように、敬意と誇りに満ちた笑顔を向けてはこなかった。
二人は馬に乗り、ストムセへ戻った。市庁舎の中はすでに片づけられ、あの指揮用の天幕も、もうなくなっている。
デクラスはファスビンダーに、従軍書記官とストムセの市政官を呼んでくるよう言い、自分は市庁舎の中で適当な場所を見つけて腰を下ろした。ほどなく、二人の役人が恭しくその前に立った。
「市政官、戦は終わった。そこで提案があるんだが、ストムセの資金の一部を軍の給金に回して、兵たちに支払ってやろうじゃないか。どうだろう?」
市政官はもじもじと手をすり合わせ、困り果てた様子だった。傍らのファスビンダーにきつく睨まれ、ようやく口を開く。
「閣下、一部だけということでしたら、加減を考えていただければ、私に異存はございません」
その様子を見て、デクラスは昨日のことを思い出した。この市政官は、宴の席では自分たちを守ってほしいと、懇願していたのだった。昨夜、そのあと何があったのかは知らないが、よほど怖い思いをしたのだろう。
「わかった。加減は考えるよ。書記官」
「はい、閣下。何をいたしましょう」
「前に作らせた名簿を、もう一度確認してくれ。戦死した兵の給金は五倍。戻ったら、必ず遺族の手に渡るようにするんだ。生き残った兵には三倍、今夜のうちに支払え。全部でいくら必要になるか計算して、その半分をストムセの財庫から出してもらってくれ」
夜になった。鉄籬堡を守っていた兵たちが、ようやくストムセへ帰ってきた。大半は傷を負い、荷車や馬車に横たわっての帰還だった。サバルトたちが城門をくぐるや、住民たちが押し寄せてきた。食べ物を押しつける者もいれば、涙を流しながら祝福の言葉をかける者もいる。だが、兵たちは誰もが無表情だった。中身をすっかり抜き取られてしまったかのように。
彼らには、城内でも指折りの、大きく立派な兵舎が数棟あてがわれた。もう藁の寝床ではない。木の寝台がずらりと並んでいる。第二連隊で戻ってきたのは、全部で五十八人。サバルトと同じ旧重歩兵第七団第三連隊の二十六人は、五人しか残っていなかった。
サバルトは口の中のパンを機械的に噛みながら、寝台に横たわり、兵舎の天井を見つめていた。ここからは星が見えない。空さえも、見えない……。
「閣下、リュッペル閣下とサディス閣下がお戻りになりました」
伝令兵が報告に来た。
月はすでに空の真ん中まで昇っていた。デクラスの待っていた二人の指揮官が、ようやく戻ってきた。
リュッペルとサディスは、一方は白銀、もう一方は黒みを帯びた精鋼の鎧をまとい、旅塵にまみれて入ってきた。中央に座るデクラスを見ると、二人も両脇に用意されていた椅子に腰を下ろした。
「戦況は?」
デクラスが尋ねた。
「閣下、ご命令どおり兵を率いてニフォルの森の近くまで追撃し、そこで引き返しました。アイカドの残兵千人余りが森へ逃げ込みましたが、それ以外はすべて殲滅しました」
リュッペルは笑みを浮かべて報告した。
「よし、よし。サディス殿、昨夜は、どんなふうに事を運んだんだ?」
デクラスは今度はサディスへ顔を向けた。サディスは相変わらずの硬い顔で、真面目に答える。
「閣下。昨夜、閣下が踊られたあと、アイカド人はすっかり気を緩め……」
「待て、ちょっと待て」
デクラスは不意に話を遮り、戸惑いと気まずさの入り混じった顔で、自分を指した。
「私が……昨夜……踊ったのか???」
サディスも少し気まずそうだった。思い出したくもない過去が蘇ったかのように、いつもの硬い顔が、ひくひくと引きつる。
「……はい、閣下。踊られました……それはもう、ひどく……醜い踊りでした」
リュッペルとファスビンダーは、ひどく驚き、面白がるような顔でデクラスを見た。デクラスは椅子の肘掛けに肘をつき、手で顔を覆った。目も鼻も口もくしゃくしゃにゆがめ、しばらくしてようやく、また口を開く。
「サディス殿……踊りのことは、陛下に報告しないでもらえないか……」
「……閣下。陛下が宴の細かな様子をお尋ねにならなければ……私からは申し上げません」
デクラスはこらえるように拳を握った。
「よし、それで決まりだ。続けてくれ」
「はい、閣下。昨夜、閣下が踊られたあと、アイカド人はすっかり警戒を解きました。私も酒を勧めるふりをして、その隙にブーツに隠していた小刀で王太子を人質に取りました。私の兵が親衛兵を数人始末し、市庁舎の周囲に潜んでいた軽歩兵と重歩兵も一斉に襲いかかりました。王太子は命が惜しかったのでしょう。配下全員に降伏を命じました。それで、難なく制圧できたのです」
デクラスはうなずき、リュッペルを見た。
「閣下、こちらも実に順調でした。昨夜、ひそかに城壁へ上がると、敵の守備兵は酒を飲んでいました。ですから、城壁も城門も難なく奪えました。軽歩兵のほうは、通りを制圧する際に少し抵抗を受け、何人か死んだそうです。おおむね、そのようなところです」
リュッペルも、昨夜の部隊の動きを報告した。
「戦も終わったことだし……」
デクラスは両手で太腿を叩き、立ち上がった。
「皆、今夜はしっかり休んでくれ。明日の正午、陣を払い、引き揚げる」
「はっ! 閣下!」
サバルトは寝台の上に身を起こした。昨日のあの激戦が、エドヴォンスが、ヤラで死んだ、鉄籬堡で死んだ戦友たち一人ひとりの顔が、頭の中を埋め尽くしている。
静かに立ち上がり、ゆっくりと兵舎を出た。壁に背を預け、地べたに腰を下ろす。少し離れた木の幹から、蝉の声がしきりに聞こえる。月は西へ傾き始め、空には星がいくつか浮かんでいた。座ってまだ間もないうちに、同じ第七団第三連隊にいた四人の兵も兵舎から出てきて、隣に並んで腰を下ろした。五人は揃って空を見上げる。どの顔にも疲れがにじんでいた。そのまま、しばらく誰も口を開かなかった。
「みんなも眠れないのか?」
サバルトが尋ねると、四人ともうなずいた。
「実は……考えてることがあるんだ」
サバルトはそのまま話し始めた。
「何を考えてるんだ?」
一人が尋ねた。
サバルトはうつむき、足元の草を一本、何気なくむしった。指でしばらく揉んでから地面へ捨てる。草の葉と土の匂いが、胼胝のできた指の節に残った。
「俺……もう、やめたい」
「サバ、どういう意味だ?」
「俺、軍を離れたいんだ」
四人の顔に、かすかな驚きが浮かんだ。
「サバ、脱走する気か?」
一人が言った。
「ああ、逃げたい。もうたくさんだ。お前らなら、わかってくれるだろ?」
サバルトは穏やかな顔で四人を見た。誰も答えない。足元の草をいじり始める者もいれば、小石をひとつかみ拾い、一つずつ投げる者もいる。
「一緒に逃げないか?」
サバルトが続けた。
四人はかすかに笑い、そのうちの一人が口を開いた。
「サバ、俺たちはお前と違う。みんな、リンドヒルに家族がいるんだ。俺たちが脱走したら、家族がひどい目に遭う。でも、お前は逃げろ。遠くまで逃げて、もう戦なんかするな」
サバルトは「ああ」と答え、久しぶりに笑みを浮かべた。
「今夜、逃げるつもりなのか?」
別の兵が尋ねた。
「いや。城門が開いてるかどうかもわからないし。帰りの行軍中に、機会を見つけようと思って……」
「何を話している」
不意に、傍らの兵舎の入口から低い声がした。
五人が振り返ると、第二連隊の指揮官が背後に立っていた。
五人はぎくりとして、その場で身を固くした。誰も声を出せない。第二連隊の指揮官は数歩近づき、サバルトの前で足を止めた。
「話は全部聞いた。部下が脱走するのを止めなければ、俺もただでは済まん」
サバルトは指揮官を見上げたが、何と言えばいいのかわからなかった。顔をそむけ、もうその目を見ることもできない。指揮官は責めもせず、ただ小さくため息をついた。
「逃げる前に、それとなく俺に合図しろ。俺を一発殴ってから逃げろ」
第二連隊の指揮官は、先ほどと変わらぬ厳しい口調でそう言った。その言葉に五人とも驚いた。ほかの四人はこわばっていた顔をほころばせ、一斉にサバルトを見る。
「隊長殿……俺……」
サバルトはようやく、もう一度指揮官の目を見ることができた。
指揮官は両手で服のあちこちを探り、内ポケットから銀貨を数枚取り出した。皆が驚いて見守る中、それをサバルトへ差し出す。
「持っていけ。道中で使え」
サバルトは何も答えず、手を差し出すこともできずにいた。指揮官はその片手をぐいと取り、強引に銀貨を握らせた。
「サバ、ちょっと待ってろ」
四人もそう言って兵舎へ駆け戻り、ほどなくまた出てきた。皆が、それぞれ何枚かの銀貨をサバルトの手に無理やり押し込んだ。
「サバ、持っていけよ。今日はたっぷりもらったんだから」
一人の兵が言った。
サバルトは銀貨を両手に受けたまま、皆を見つめた。感謝をどう言葉にすればいいのか、わからない。
「よし、全員戻って寝ろ。明日は出発だぞ」
第二連隊の指揮官はそう言い渡すと、欠伸を一つした。それから真っ先に背を向け、伸びをして兵舎へ戻っていった。皆も静かにそのあとに続いた。
正午、デクラスはストムセの官吏たちに別れを告げ、道の両側に並ぶ民に見送られながら、先頭に立って馬で城門を出た。鉄翎軍、聖騎士、志願兵がそのあとに続き、第二団の団長が残りわずかな重歩兵を率いて、最後尾を歩いた。
大勢の負傷兵を抱え、隊列の歩みはひどく遅かった。夕暮れ、薄暗くなり始めたころ、全軍は河原に陣を張り、食事の支度に取りかかった。皆が天幕を張ったり、川へ水を汲みに行ったりと忙しく立ち働くなか、サバルトは四人それぞれに、微笑んでうなずいた。四人は競うようにサバルトの肩を叩き、その腕をつかんでぎゅっと握る。それを見ていた第二連隊の指揮官は、微笑みながら首を横に振り、それからサバルトに目配せをする。
「お前たちはここでおとなしくしていろ! 俺は小便してくる!」
そう言って第二連隊の指揮官は一人で立ち上がり、隊から離れて、少し先の灌木の茂みのそばへ歩いてゆく。
サバルトも立ち上がってそのあとに続き、茂みのそばまで来ると、指揮官の肩を軽く叩く。
「隊長殿、すみません。またいつか、どこかで」
言い終えるなり、指揮官の顔に重い一発を叩き込む。
サバルトは茂みを跳び越え、両脚で地を蹴って駆け出す。夕陽が最後に残す温かな赤い光へ向かって、その命に宿る力をすべて使い果たすかのように、全力で走る。
「脱走兵だ!」
異変に気づいた別の兵が叫んだ。たちまち陣中にざわめきが広がった。
張られたばかりの天幕の中に座っていたデクラスとファスビンダーにも、外の騒ぎが聞こえた。すぐに兵が一人駆け込んできて、声を張り上げた。
「閣下! 脱走兵です!」
サディスは勢いよく立ち上がったが、デクラスに呼び止められた。
「いい。行かせてやれ」
サディスは仕方なく座り直した。リュッペルとファスビンダーの顔には、笑みが浮かんでいた。
さらに二日行軍したのち、道の分かれ目で、リュッペルは聖騎士と生き残った数十人の志願兵を率い、デクラスに別れを告げて教廷国の方角へと去っていった。別れ際には、時間ができたらぜひ教廷国を訪れ、聖山の壮麗な景色を見てほしいと、デクラスを誘った。デクラスは笑って、行くと答えた。
さらに数日進むうちに、土地は次第に高くなっていった。広大な丘陵へと上ると、そこにリンドヒルがあった……。




