北方戦争編 第二十五話 恩賞
「陛下の勅命である! デクラス卿は全軍を率い、明朝、リンドヒルの南門、凱旋門より入城せよ!」
リンドヒルの西門から数里の街道で、伝令兵が帰還する軍を呼び止め、皇帝アデリウス四世の命を高らかに読み上げた。伝え終えると、そのまま馬を返して去っていった。
デクラスは苦笑を漏らし、もう目と鼻の先にあるリンドヒルの西門と、その向こうにかすかに見える王城の塔の群れを眺めた。それから、ファスビンダーとサディスに顔を向けた。
「やれやれ、ここまで来て、どうしても凱旋式をやりたいらしい。おかげで、また城外でもう一晩野宿か」
デクラスは馬上で肩をすくめた。
「全軍に伝えろ。南門の外へ回って、陣を張る」
帝国暦460年7月22日。ソーン川での大勝利の報は、すでに帝都の隅々まで行き渡っていた。
7月23日、午前。
デクラスは千人ほどの軍を率い、凱旋門へ続く街道を進んでいた。昨夜のうちに兵全員に命じ、鎧を洗って磨き直させてある。血の汚れをできるだけ落とし、少しでも光るように。
城門までまだ二里もあるところで、門外に出迎えの人々が列をなしているのが見えた。
馬が城門の前まで来ると、官吏たちを従えた宰相ゴドフリーが、喜びに顔をほころばせて両腕を広げた。その中にはタイラル伯爵をはじめ、参謀院の同僚たちの姿もある。誰もがこの上なく嬉しそうな顔で、デクラスを見つめていた。デクラスはファスビンダー、サディスらとともに馬を下りた。
「デクラス卿! 勝利の栄光を携え、よくぞ戻ってきてくれた!」
年老いたゴドフリーは小刻みな足取りで近づいてきた。口元は笑みでほころび、顔に刻まれた皺にまで興奮がにじんでいる。両手でデクラスの手を取り、固く握りしめた。
「宰相閣下、身に余るお言葉です。将兵が血を流し、死力を尽くして戦ってくれたからこその勝利です」
デクラスは礼儀正しい微笑みを返した。
「さあ、さあ! 私と一緒に来たまえ」
ゴドフリーは有無を言わせず、デクラスの手を引いて、あらかじめ用意されていた凱旋の馬車へ連れていった。金色の飾り帯を幾重にもまとった四頭の白馬が牽く、屋根のない馬車だった。車上には金張りの欄干に囲まれた高い台が設けられ、その周囲を花が埋め尽くしていた。デクラスは少しばかり抵抗したものの、ゴドフリーと数人の大臣に押されるまま、その金色の欄干に囲まれた台の中央へ上がった。ゴドフリーもその隣に立ち、御者が鞭をひと振りすると、馬車は城門の内へと動き出した。ファスビンダーとサディスは再び馬に乗り、軍を率いてそのあとに続いた。
凱旋したというのに、座らせてもくれないのか。
デクラスは胸の内でぼやいたが、口には出さなかった。何日も馬に揺られて行軍してきたせいで、ただでさえ股のあたりの筋肉が痛む。立ち方もぎこちなく、それでもどうにか威風堂々とした姿を保つしかない。
大通りの両側にも、建物の屋根の上にも、窓の中にも、大勢の民が詰めかけ、凱旋する軍へ声を限りに歓声と祝福を送っている。人々は、栄光に満ちた勝利を切実に求めていた。空を覆うほどの花びらが降り注ぎ、歓声が天地を揺るがす。デクラスがぎょっとすると、隣のゴドフリーがそっとその襟元を引き、笑顔を崩さぬまま小声で言った。
「ほら、手を振ってやらないと……」
ああ、そうだ。手も振らなければ。
ようやく気づいたデクラスは腕を伸ばし、道の両側を埋める民に、ひっきりなしに手を振って応えた。ファスビンダーはこうした場がどうにも苦手らしく、馬上で身を固くし、ぎこちない笑みを浮かべるばかり。その点、いつも仏頂面のサディスは、今ばかりはひときわ大将の風格を漂わせている。
「奇跡の子!!!」
「帝国の奇跡の子!!!」
道端の人々が、馬車に向かって繰り返し声を揃えて叫ぶ。デクラスには、何のことやらさっぱりわからない。
「民が卿につけた異名だよ。そのうち慣れるさ」
ゴドフリーが隣で小声で説明した。
私が? 奇跡の子?
デクラスの胸には、さまざまな思いが入り混じっていた。皇帝はいったい、前もってどんな宣伝をして、民の間にこんな名を広めたのだろう。
馬車はルキウスの巨像へまっすぐ進んでゆく。目の前のルキウス大帝を見上げると、この大げさな凱旋式にも、不意に納得がいった。だが、こんな凱旋式は、二度と御免だった。
皇帝の差配で、凱旋の軍はルキウス大通りをまっすぐ王城へ向かうことなく、リンドヒルの市中を大きく一巡した。民の誰もが勝利の喜びを存分に味わったところで、ようやく西側から回り込み、王城の南門前へたどり着く。やっと馬車を下りたデクラスの両脚は、じんとしびれていた。頭に積もった花びらを振り落とし、襟元を整える。
第二団の団長は重歩兵たちを率いて駐屯地へ戻り、鉄翎軍もサディスの指示で城内の兵舎へ引き揚げた。デクラスは、馬の手綱を引いているファスビンダーを見た。
「先に帰って、家で待っていてくれ。今日は陛下にちょっとお目にかかるだけだ。そう遅くはならないと思う」
「はい、閣下。それでは、お先に」
馬を引いて去ってゆくファスビンダーの背中を見送り、デクラスはもう一度襟元と髪を整えた。それからサディスとともにゴドフリーのあとに続き、久しぶりに王城へ足を踏み入れた。
「思いのほか、よくやったではないか」
アデリウス四世は人差し指で頬を掻き、首を傾げ、何とも名状しがたい笑みを浮かべて、玉座の間の中央に立つデクラスを見据えていた。
「陛下のおかげでございます。私は、なすべきことをしたまでです」
デクラスはうつむいたまま、皇帝と目を合わせることもできなかった。
「卿も、そう謙遜することはない。サディスからの戦報はすべて読んだ。奇策を次々に繰り出し、見事な指揮でアイカドの蛮族どもをほぼ全滅させたそうではないか」
アデリウス四世は座り直し、両手の指を組んで膝の上に置いた。いかにもくつろいでいる様子だった。
デクラスは顔を伏せたまま、皇帝の傍らに立つサディスをちらりと見た。視線に気づいたサディスは、踊りのことは絶対に話していない、とでも言うように、かすかに首を横に振った。
それでようやく、デクラスも胸をなで下ろした。
「陛下、サディス殿をはじめ、指揮官たちが勇敢に戦い、見事に兵を率いてくれたおかげで……」
「よい、よい。そういう余計な口上は聞き飽きた。卿も疲れておろう。今日は帰って休め。褒美については宰相たちに評議させている。数日したら申し渡そう」
「はっ、陛下」
アデリウス四世は黄金の王座の肘掛けに手をついて立ち上がった。群臣に無造作に手を振ると、サディスと護衛を伴い、王座の背後にある皇家専用の扉から退出した。
ようやく臣下たちが、一斉にデクラスのもとへ祝いを述べに押し寄せた。
「デクラス卿! めでたい、実にめでたい!」
「デクラス殿、これで前途は洋々ですな!」
人の輪に押し込められたデクラスは、何を言えばよいのかもわからず、ただ愛想笑いを返すばかりだった。
祝いの言葉がひとしきり続いたあとで、ようやくゴドフリーが進み出た。
「さあ、もうそのくらいにして、解散したまえ。デクラス卿にも早く帰って休ませてやろう」
そこでようやく、群臣も散っていった。デクラスはひと息つき、宰相ゴドフリーに礼を述べて玉座の間を出た。幅の広い石段を下り、王城の正門を出て、さあ家へ帰ろうとしたところで、突然、大きな手が伸びてきて、その腕をがっしりとつかんだ。
「さあ、うちへ来たまえ! 飯にしよう!」
タイラル伯爵が、愛想よく笑っていた。
「閣下、その、私は……明日ではいけませんか? 少し、家に帰りたくて」
「何を言っている。出立前に、帰ったら祝いの席を用意すると約束したではないか。帝都で一番の料理人を呼んであるんだ。さあ、行こう、行こう」
「いや、閣下。閣下ってば……」
なおも辞退しようとするデクラスを、タイラル伯爵は有無を言わせず王城の門前の馬車へ引っ張り込んだ。馬車は東区のタイラルの屋敷へと走っていった……。
野で食べ、野で眠りながら数日逃げつづけた末、サバルトはようやく、追手など来ていないことに気づき、歩みを緩めた。重い鎧はとうに捨ててある。道中の町で買ったのは、真新しい麻のシャツとズボンだった。粗い織り目を夏の風が通り抜け、肌にかすかな涼しさを運んでくる。背が高く、体つきががっしりしていることを除けば、今のサバルトは、どこにでもいる町の住人と変わらない。
みんな、もう帝都に着いたころだろうか。あの駐屯地の兵舎は、今も使われているんだろうか。あの百兵長の死体が見つかったりしないだろうか。駐屯地の外のパン屋のおばさんは、俺が逃げたと知ったら、悲しむだろうか。
小さな町の宿の一室で、サバルトは寝台に横たわり、とりとめもなく考えていた。だが、何かを思い出そうとすると、浮かんでくるのは軍にいたころのことばかり。どんなことを考えていても、最後には、笑っているエドヴォンスの顔に行き着いてしまう。頭を抱え、寝台の上で体を丸めて、苦しげに転げ回る。
だめだ。このままじゃだめだ。あいつらが金を全部くれたんだ。俺は、ちゃんと生きていかなきゃならない。
そう思い、自分の頬を何度か叩いてから起き上がり、部屋に置かれた、水をいっぱいに張った洗面鉢に顔を埋めた。
顔を拭き、外へ出て少し歩いてみることにした。
三十軒ほどの家があるだけの、小さな町だった。折しも夕暮れ。でこぼこの土の道に、夕焼けの赤い光が差している。畑仕事を終えたばかりの農夫が数人、農具を肩に担いで家路についていた。野良犬が何匹か、尾を振りながら近寄ってきて、サバルトの周りでひとしきり匂いを嗅ぐと、つまらなそうに離れていった。
いくらも歩かぬうちに、杯の絵が描かれた木の看板が掛かった家が目に入った。入口でしばらく迷ったすえ、扉を押して中へ入る。
酒場は思ったよりも賑やかだった。いくつもの卓で、人々が食べたり笑ったりしながら、盛んに話をしている。サバルトが隅の席に腰を下ろすと、すぐに店の者がやってきた。
「何にする?」
笑顔で尋ねられ、サバルトは言葉に詰まった。
「あ……その……俺は……」
品書きを長いこと眺めても、何を頼めばよいのかわからない。この何年か、外で食事をするときはいつもエドヴォンスと一緒で、注文はすべて彼に任せていた。並んでいる料理の名は、どれも読める。だが、どう選べばいいのかがわからない。サバルトは適当に一つ指さした。
「ああ、これを頼む」
店の者は少し不思議そうに、目の前の大柄な若者を眺めた。
「それだけでいい? その体だと、ちょっと足りないかもしれないよ」
「じゃ、じゃあ、ほかには何があるんだ? 何か、おすすめを教えてくれないか」
サバルトは少し恥ずかしくなり、品書きを相手のほうへ押しやった。
「今選んだのは肉団子でね、前菜くらいの量なんだ。鶏のローストもどう? それに、うちで仕込んだ麦酒は、この辺りじゃ評判なんだよ。一杯飲んでみない?」
品書きに目をやると、勧められた料理は、いちばん値の張るものというわけでもなかった。それでサバルトも安心した。
「ああ、うん。じゃあ、それで頼む」
店の者が奥の厨房へ引っ込むと、半時間もたたぬうちに、肉団子と鶏のロースト、麦酒がすべて卓に並んだ。サバルトはもう遠慮せず、鶏の脚を手でつかんで引きちぎり、肉を一切れ口へ放り込む。香辛料と唐辛子がほのかに利いた腿肉は、肉汁がたっぷりで、ひどくうまかった。指をしゃぶり、陶器の杯を取って一口飲んだ。
「兄ちゃん、この辺の人じゃないだろう?」
四十過ぎに見える男が二人、不意にやってきた。笑顔で声をかけたかと思うと、断りもなくサバルトの向かいに腰を下ろす。
サバルトは左手に鶏肉を持ったまま、卓の下に隠した右手を固く握りしめた。
「ああ、違う。通りがかっただけだ」
用心しながら、向かいの二人を見る。
二人には、どうも敵意はなさそうだった。酒で顔を赤くし、髭に肉のかけらをいっぱいつけて、にこにこしている。
「いやあ、ここじゃ、よそから来る人は珍しくてな。兄ちゃん、どこから来たんだ? これからどこへ行く?」
「帝都から来た。故郷へ帰る途中なんだ」
まだ相手の目当てがわからず、サバルトは適当なことを言ってごまかした。ところが二人は、さらに細かく聞いてくる。
「故郷って、どの辺りなんだ?」
困った。そこまで聞かれるとは思っていなかった。どこと答えたものか、すぐには浮かばない。そのとき、隣の卓では、誰かが以前海辺へ行ったときの愉快な出来事を大声で話していた。サバルトはとっさに口を開いた。
「沈暮海のほうだ。今、帰るところで」
意外にも、二人はそれ以上尋ねなかった。ただ髭を撫で、互いに言い合う。
「へえ、海辺の生まれか。いいなあ」
「まったくだ。俺なんか、生まれてこの方、海を見たこともねえよ。はっはっは!」
「ジェレミー! この兄ちゃん、少しまけてやれよ。家までまだ遠いんだからな」
一人が振り返って店の者に声をかけた。勘定台の前にいた店の者は「ああ」と返事をし、呆れたように目を上へ向けた。
どうやら、人のいい農夫たちらしい。
サバルトはようやく安心し、卓の下でひそかに握っていた拳も緩めて、また肉団子を口へ放り込んだ。そのあとも二人の農夫は、酒の匂いを漂わせながら、あれこれと取りとめもなく話しかけてきた。話の大半は、この町の暮らしや習わしについて。サバルトはあまり口を開かなかったが、聞いていると面白く、時折声を上げて笑った。勘定をするとき、ジェレミーという店の者は、驚いたことに、ほんの少しではあるが本当にまけてくれた。
夜、宿へ戻ったサバルトは、寝台に横たわり、ぼんやりしていた。
海辺か。本当に行ってみるのも、悪くないかもしれない。俺だって、生まれてから一度も海を見たことがないんだ……。
豪華な食堂で、タイラル伯爵夫人が、肉を一切れ、また一切れと、熱心にデクラスの前へ差し出していた。デクラスは、まるでこの二か月何も食べていなかったかのように、皿の料理を片端から平らげてゆく。タイラル伯爵は傍らで、にこにことそれを眺めている。
「デクラス卿、もう少しゆっくり食べたまえ。喉に詰まらせるぞ」
「大丈夫ですよ、閣下。詰まらせません。いや、前線の食事のまずいことといったら。うまいものを食べるためにも、もう前線で指揮を執らせないでくださいよ」
デクラスは口の中のものをのみ込み、酒をひと口飲んだ。やはり酒は、食事と一緒にゆっくり飲むほうがうまい。
食事がひととおり済み、杯も幾度か重ねたところで、伯爵夫人が席を立った。
「それでは、お二人でお話しなさって。私はこれで失礼しますね」
夫人は笑顔でそう言うと、食堂を出て扉を閉めた。
タイラルは、帝国のために大きな功を立てて帰ってきた参謀を、相変わらず笑みを浮かべて見ている。当のデクラスは、食べ物で膨れた腹を楽にしようと、ズボンのベルトを緩めていた。
「デクラス、聞かせてくれ。今回、前線で指揮を執ってみてどうだった?」
デクラスは少し考えてから答えた。
「伯爵閣下も戦報はお読みになったでしょう。おおよそ、あそこに書かれているとおりです。付け加えることも、そうありません」
そう言ったあとも、言おうか言うまいか迷うように、タイラルを見ていた。
「ほう。何か、話したいことがあるのか?」
何か察したのか、タイラルが尋ねる。
「はい、閣下。実は一つ、北方戦争が始まって間もないころ、まだ帝都にいたときから考えていたことがあります。前線でこの二か月を過ごして、その思いがいっそう固まりました。数日たってからお話しするつもりでしたが、せっかく今日こうしてお宅に伺ったのですから、この場で申し上げようと思います」
「ほう?」
タイラルは興味をそそられた様子で、続きを待った。
デクラスは少し間を置き、きっぱりと告げる。
「閣下、帝国情報院の設立を提案したいのです」
タイラルの表情が、一瞬にして厳しくなった。顎に手を当て、しばらく考え込んでから、目だけをデクラスへ向け、鋭く見据える。
「デクラス卿、その提案が何を意味するか、わかっているのか?」
「はい、閣下。わかっています」
タイラルは顎に手を当てたまま、かすかにうなずいた。同意しているのか、それとも考えながら無意識にそうしているだけなのか、わからない。
「魔王戦争が終わってからの数十年で、私が知る限りでも、情報院の話は二度出ている。一度目は、当時の陛下が、大戦が終わったばかりで民が疲弊しているという理由で退けられた。二度目は先帝の御代だ。そのときも、帝国は引き続き民を休ませ、国力の回復に努めるべきだとして、先帝に退けられた。そして、今の陛下がどういうお方かは、卿も知っている。今、情報院の設立を提案することが何を意味するのか、本当にわかっているのか? 陛下ご自身でさえ触れるのをためらっておられる禁忌を、卿が取り払って差し上げるようなものだぞ」
タイラルは再びデクラスをちらりと見た。声は低かった。
「はい、閣下。その意味は十分にわかっています。いえ、むしろ、陛下があのようなお方だからこそ、これからさらに戦禍を招くおそれがあります。だからこそ、情報院は今、設けるべきなのです」
デクラスの口調に揺らぎはない。
「もし私がその案に賛成するなら、情報院を任せる相手には必ず卿を推す。それもわかっているのだろうな?」
デクラスは苦笑した。
「わかっています、閣下。本心では引き受けたくありません。ですが、これをやるとなれば、確かに私がいちばん適任なのかもしれません……」
「デクラス、ここには私と卿しかいない。ひとつ聞かせてくれないか。この提案には、どんな私心がある?」
タイラルは一瞬目を細めたが、すぐに、その眼差しにはかすかな誠実さがにじんだ。
「ご冗談を、閣下。今回の北方戦争も、もっと早く情報院があれば、前線であれほど苦しい、凄惨な戦いをせずに済んだのではないか。私はただ、そう思っているだけです」
タイラルは少し意外そうな顔をし、笑い声まで漏らした。
「苦しい? 何を言っている。卿は八百人の死傷者と引き換えに、アイカドの二万近い軍勢をほぼ全滅させたのだぞ。都の者たちが、卿を『奇跡の子』と呼んでいるのは知っているだろう?」
デクラスは、食卓の上に残る空の皿や食べかすを、どこかうつろな目で見つめている。
「閣下、教廷国の志願兵も人間です。北境の難民も、あの八千人の徴集兵も、人間です。奇跡の子などという呼び名より、鉄籬堡で生き残った守備兵たちが私を何と呼んでいるか、そのほうが気にかかります」
「ほう。何と呼んでいるのだ?」
「鉄籬堡の屠夫」
豪華な調度に囲まれた食堂に、しばし沈黙が落ちた。いくらか重くなった空気の中、先に口を開いたのはタイラルだった。
「デクラス卿、その考えは危ういぞ。情報院を設けるべきかどうか、もう一度よく考えてみてはどうだ?」
デクラスは不意に顔をタイラルへ向け、硬い眼差しで、その目をまっすぐに見据えた。
「伯爵閣下、私個人の思いが、戦略や決断を左右することはありません。ご心配には及びません。こうして提案した以上、どうすべきかは心得ています」
タイラルは、自分を見据えるその目に、ある種の強い意志を読み取った。顔のこわばりがほどけ、再び、いくらか温和な笑みが浮かぶ。
「わかった。この一両日中に宰相閣下と話して、あの方も卿の案に賛成なさるかどうか確かめてみよう」
「では、よろしくお願いいたします」
一度に食べすぎて腹が張っていたので、デクラスは腹ごなしに歩いて帰るつもりだった。だが、タイラル伯爵はどうしても馬車で送ると言って譲らず、その厚意を断りきれなかった。別れ際、閉じかけた扉の隙間に、タイラルの老練な、含みの深い笑みが見える。
家に帰ると、ファスビンダーはエプロンをつけ、鼻を覆うように手拭いを巻き、モップと雑巾で家中を猛烈な勢いで掃除している。食卓には、手つかずの夕食が残っている。デクラスの姿を見るなり、ファスビンダーはモップを放り出した。
「閣下! 帰ってきた初日から、もう外でお食事ですか!」
「ああ、いや、タイラル伯爵に無理やり連れていかれてな……」
デクラスは気まずそうに頭を掻くと、そのまま階段を上がり、寝室の寝台に仰向けになった。
「閣下、起きてください! 寝室はまだ掃除していません!」
「ああ、いいじゃないか。腹が張って苦しくて、たまらないんだ」
「閣下! それでも帝国の奇跡の子ですか!」
寝台に寝そべり、腹だけを大きく突き出した主人の有様に、ファスビンダーは不満げに文句を言う。
「頼むから、やめてくれ。お前までそう呼ぶのか……」
デクラスはげっぷをひとつ漏らした。柔らかな寝台に横たわるその顔が、不意に険しくなる。それからは、ファスビンダーが何を言っても、黙って天井を見つめるばかりだった。
「閣下、どうなさったんです?」
ファスビンダーが不思議そうに尋ねた。
長い間を置いて、ようやくデクラスはひと言返した。
「いや、何でもない。ただ、この先はもっと疲れることになりそうだと思ってな」
そう言って、疲れた目をゆっくりと閉じた。
数日後、玉座の間。
アデリウス四世は、いくらか驚いた様子で、広間の中央に立つ二人を面白そうに眺めていた。
「これは本当に、デクラス卿の提案なのか?」
アデリウス四世の口の端がつり上がる。興奮を抑えようとしているのか、その体はかすかに震えていた。
「はい、陛下。確かにデクラス卿からの提案でございます」
タイラルは恭しく答えた。
「ゴドフリー、卿まで、デクラスを情報院の首席に据えることに賛成するのか?」
このどこか信じがたい話を確かなものにしようとするかのように、アデリウス四世は重ねて尋ねる。
「はい、陛下。私もタイラル殿も、賛成しております」
宰相ゴドフリーは顔を伏せ、落ち着いた声で答えた。
アデリウス四世はゆっくりと手を上げ、群臣の列に立つデクラスを指さして、その指を小さく振った。
「お前、出てこい。前へ出てこい」
デクラスは命に従って玉座の間の中央へ進み、二人の隣に立つ。
「デクラス、本当によいのだな?」
「はい、陛下。帝国が百戦不敗であるように、帝国の情報を預かる重責をお引き受けいたします」
デクラスは揺るぎない口調で答えた。
皇帝は突然、傍若無人に大声で笑いだした。笑う理由は誰にもわからない。まるで、難しい一局をようやく勝ち切ったかのようだった。その耳障りな笑い声は長く続き、やがて少しずつ弱まっていったが、肩はまだ震えつづけている。
「いやはや、では、余はデクラス卿に帝国情報院の設立を命じる。あわせて、情報院首席に任ずる」
「はっ、陛下」
「ちょうどよい、ちょうどよい。卿への褒美も決まったところだ。さあ、読み上げてやれ」
アデリウス四世が手を振ると、一人の侍従が進み出て、手にした紙の巻物を広げ、朗々と読み上げた。
「帝国男爵デクラスは、北方戦争においてたびたび奇策を用い、巧みに軍を指揮し、寡兵をもって大軍に当たり、蛮軍を殲滅し、さらにその王太子を捕らえるという奇功を立てた。よって、以下の恩賞を授ける。子爵に陞爵し、封邑に七百戸を加え、金貨五百枚ならびにリンドヒル東区の邸宅一棟を賜う」
「臣デクラス、陛下のご恩に感謝申し上げます!」
北方戦争編 完
第一篇「北方戦争編」完結のご挨拶
『凛風大陸 ~陰影の誓い~』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
これをもちまして、第一篇「北方戦争編」は完結となります。
現在、第二篇の執筆を進めておりますが、最近は仕事が忙しく、作品の質を大切にしながら、じっくりと書き進めているため、少し時間がかかっています。
第二篇を最後まで書き上げてから、連載を再開する予定です。
しばらくお待たせすることになりますが、引き続きお付き合いいただければ幸いです。
最後になりますが、ここまで読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました!




