北方戦争編 第二十三話 逆転
ファスビンダーはソーン川を横切ろうと、必死に泳いでいた。わざわざ上流へ回ってから飛び込んだというのに、流れに押され、なおも西へ流されてゆく。このままでは南の城壁の前を通り過ぎてしまう。力の限り水をかき、ようやく南西の角に近い北岸の河原へ上がった。鼻を刺す死臭をまとって、天を揺るがすような喊声が押し寄せてくる。南の城壁の陰に身を隠し、頭を出して西の城壁のほうをうかがう。そこは大軍が攻め寄せている側ではなかったが、何本かの攻城梯がかかり、アイカド兵がなおも登っている。志願兵が一人、叫びながら城壁から転落し、城下の死体の山に落ちた。
ファスビンダーは歯を食いしばり、南の城壁の下にある排水用の暗渠へ急いだ。
入口はすぐに見つかった。身をかがめて中へ入り、鉄格子の門の向こうを見る。城内では足がせわしなく行き交い、兵たちが声を張り上げて駆け回りながら、各所へ人を振り分けている。
ファスビンダーは大声で叫び、鉄格子の門を手で狂ったように叩いた。だが、その声は城内の叫びにかき消され、誰も気づかない。焦りながら身を翻して河原へ戻り、あちこち探し回った末に、ようやく手に持ちやすい大きな石を見つけた。暗渠へ取って返し、石を鉄格子へ何度も打ちつけ、さらに大きな音を立てる。衝撃で手のひらがしだいにしびれてきても、手を止めなかった。
ようやく、走り過ぎようとした兵が一人、その音に気づいて腰をかがめた。ファスビンダーと目が合う。
「伝令だ! 総指揮官からの伝令だ! 早く開けろ!」
ファスビンダーは叫んだ。
兵は慌てて走り去った。誰かを探しに行ったらしい。ほどなく慌ただしく戻ってくると、城内側の暗渠の壁を手で探り始めた。無造作に置かれたように見える石の陰から、ようやく鍵を探り出し、腰をかがめたまま素早く鉄格子の門へ近づいて、門を開けた。
ファスビンダーは中へ飛び込むなり、その兵をつかまえて怒鳴った。
「指揮官はどこだ! 重要な命令だ!」
「だ、団長閣下は北門で防御を指揮しています。ほかの指揮官は、みな城壁の上です」
ファスビンダーは兵を押しのけ、暗渠を全速力で駆け抜けた。身を起こして鉄籬堡の中央の空き地へ出た途端、あまりの光景に立ち尽くす。口をわずかに開けたまま、呆然と四方を見回した。
城内は、見るも無残な有様だった。崩れた小屋、落ちた木の屋根、壊れた壁が、至るところにある。城壁の上には兵が重なり合うほどひしめき、四方の石壁を伝って、血が城内へ流れ込んでくる。兵たちはときおり、さまざまな姿勢で倒れる。城壁から転落し、砕けた石や干し草、土の上に落ちる者もいる。城門のあたりは、ひしめき合う背中ばかりだった。そこでどのような戦いが繰り広げられているのか、まるで見えない。あの薄暗い門洞で起きていることを言い表せる言葉は、殺戮以外に見つからなかった。血は起伏のある地面の溝を伝い、曲がりくねった小川のように交わりながら、城の中央の空き地まで延びている。重い鎧を着た兵が、後ろから次々と戦列へ加わってゆく。顔もわからなくなったアイカド兵が、その足元の隙間から、必死に外へ這い出そうとしていた。だが、兵の一人が気づかぬまま、その頭を重い足甲で踏みつける。男はついに、動かなくなった。
ファスビンダーの呼吸は荒かった。何年も前、デクラスとともに東部で賊を討ったとき、彼も戦場には出ていた。だが、こんな屠殺場さながらの光景は見たことがない。耳の奥の圧迫感が急激に強まり、耳鳴りが始まる。頭がくらくらとし、胸が激しく上下して、胃から酸っぱいものがせり上がってくる。
ファスビンダーは激しく吐いた。空になった胃が、今度は痙攣し始めた。地面に膝をつき、両腕で体を支える。痙攣が弱まり、ようやくまた立ち上がったころには、耳鳴りもだいぶ遠のいていた。腕で口をぬぐい、門洞の中を見据える。団長がいると、あの兵が言った場所だ。唾をのみ込み、歯を食いしばって駆け出した。
ひしめき合う兵たちから十数歩離れたところで足を止め、団長の姿を探して何度も目を走らせた。どの鎧も血にまみれ、見分けがつかない。何度叫んでも、誰も振り向かなかった。誰もが狂ったように叫び、斬り合いつづけている。まるで、魂を持たぬ一つの戦争機械だった。
ファスビンダーは、これまで出したこともないほどの大声を、必死に振り絞った。
「総指揮官の策は動き出した! 何としても今夜を持ちこたえろ! 勝利は、我らのものだ!」
叫び終えると二度咳き込み、目の前の兵たちを見つめた。最後列の数人には聞こえたらしい。素早く振り向いて、彼を一瞥した。
そこで、もう一度、声を限りに叫ぶ。
「総指揮官の策は動き出した! 何としても今夜を持ちこたえろ! 勝利は、我らのものだ!!!」
今度の声は、さらに大きく響いた。前列にひしめく数人も聞きつけたのか、兜がかすかに動いたように見える。あの中に第一団の団長がいるのかどうかはわからない。ファスビンダーはもう一度大きく息を吸い、さらに数歩進んで、最後列の兵のすぐ背後まで迫った。そして、門洞へ向かって声を振り絞る。
「総指揮官の策は動き出した!!! 何としても今夜を持ちこたえろ!!! 勝利は、我らのものだ!!!」
声は門洞に反響し、半円形の壁に沿って天井へ届き、そこから下へと広がった。今度は、前列の兵たちは振り向かなかった。代わりに、その声に応えるかのように、前列から一声が門洞に炸裂した。
「命尽きるまで!!!」
「おおっ!!!」
帝国の重歩兵たちが、一斉に空を貫くような鬨の声を上げた。その声が、アイカド兵の叫びを完全にかき消す。
「押し返せ!!!」
重歩兵たちの体から、凄まじい意志と力が湧き上がる。それまで片膝をついて守りに徹していた兵さえ、敵の斬撃を受けながら立ち上がる。全員が重い足を踏み出し、前へ押してゆく。その一歩一歩は、土の奥深くに張った太い木の根のように揺るがない。門内へなだれ込み、なおも激しく斬りつけていたアイカド兵は、地に押し倒され、あるいは木を伐るように斬り倒される。つい先ほどまで占めていた空間が、ますます狭く押し縮められてゆく。
効き目を確かめると、ファスビンダーはもう城門の前にとどまらず、身を翻して城壁へ駆け上がった。石床に足を踏み入れた途端、必死に戦う志願兵数人に押され、危うく城壁から落ちそうになる。身をかわし、体勢を立て直すと、壁の上を走りながら、またあの言葉を叫んだ。
「総指揮官の策は動き出した!!! 何としても今夜を持ちこたえろ!!! 勝利は、我らのものだ!!!」
通り過ぎる兵の一人ひとりが奮い立つのを、ファスビンダーは感じた。吠え声を上げる者もいれば、剣を振るう速さが明らかに増した者もいる。
効いている。本当に効いている!
城壁のあちこちを走り、叫びつづけた。
志願兵を一人斬り殺したばかりのアイカド兵が、獣のような顔で行く手を塞いだ。ファスビンダーは本能的に剣を抜き、頭上から振り下ろされる戦斧を受けようとした。その敵の背後から、不意に剣が走る。頭が胴から離れ、赤い噴水が噴き上がった。体が斜めに倒れ、その向こうに第二連隊の指揮官が現れた。
「お前、今、何と言った! もう一度叫べ!」
ファスビンダーは、全身を重い鎧で固め、顔の見えない男を見つめた。気を取り直し、もう一度、あの言葉を声の限りに叫んだ。
第二連隊の指揮官は剣を手に、周りで戦う兵たちへ怒鳴った。
「聞いたか! この屑どもを叩き落とせ!」
「おおっ!!!」
サバルトは第二連隊の指揮官のすぐそばにいた。彼も声を合わせた。ただ、全身の力を引き出すために。剣は先ほどの戦いで折れていた。今は両手で戦槌を振り上げ、城壁の上の敵の頬骨へ叩きつける。顔の半分が砕け、歯の欠片が飛び散った。敵の首が半回転し、その体が崩れ落ちる。
エドヴォンスは別の敵兵に馬乗りになり、組み合っていた。敵は両手で、エドヴォンスの重い鎧を狂ったようにかきむしる。エドヴォンスは、その首を両手で固く締め上げている。
太陽は、すでに西へ傾いていた……。
デクラスは礼服に着替え、襟元を整えた。市庁舎ではすでに酒宴の支度が始まり、ストムセの市政官たちが、不安げに傍らに立っている。
「閣下……私どもも宴にはご一緒いたします。ですが、私どもの身の安全は……どうか、必ずお守りください」
デクラスは振り返り、その不安に満ちた顔を見て、かすかに笑みを浮かべた。
「君の安全は保証できないよ」
そう言って笑顔のまま官吏の肩を叩くと、市庁舎を出て、一人、北門へと確かな足取りで歩いていった。
城内の兵の数は、目に見えて減っていた。城壁と城門に残しておいた少数の徴集兵を除けば、ほかは皆、もう隠れ終えているだろう。ファスビンダーはまだ戻らない。何事もなければいいが。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。今の私は降将だ。降将にふさわしい振る舞いをしなければ。デクラスはそう考えた。
北門の下には、サディスが数人の鉄翎軍の兵とともに立っていた。
「準備はすべて整ったか?」
デクラスが尋ねた。
「閣下、すべて整っております」
サディスは相変わらず硬い顔だった。
「よし。何人かここへ連れてきて、アイカド人を歓迎するふりをさせてくれ。お前たちは市庁舎の入口で待っていてくれ」
「閣下……」
サディスは何か言いかけ、口をつぐんだ。
「どうした?」
「……どうか、お気をつけください」
その様子を見て、デクラスは思わず噴き出した。両手を後ろで組むと、振り返りもせず城外へ歩き出す。
石橋の継ぎ目には、かつての戦いの黒ずんだ血の跡がまだ残っていた。兵たちが戦ったその跡を踏み、デクラスは橋のたもとへと歩いてゆく。ソーン川の水は絶えず流れつづけている。陽はますます西へ傾き、デクラスの長い影を、橙の光を映す川面へ落としていた。北岸へ足を踏み入れたとき、デクラスは遠くの鉄籬堡を振り返った。蝗の群れのような黒い影の広がりは、昼よりもずいぶん小さくなっている。それでも、戦いの音はまだはっきりと聞こえてくる。
今度は遠くのアイカド軍の野営地へ目を向けた。まだ動きはない。日没が近づいていた。
ファスビンダーは剣を振るい、城壁の上で凄惨な戦いに加わっていた。喉はすっかり潰れ、もう声が出ない。だが、再びあの暗渠を通って、このまま立ち去る気には、どうしてもなれなかった。剣をかざして敵の一撃を受け止めたとき、遠い橋のたもとに、小さな人影がじっと立っているのが見えたような気がした。
閣下、私は生き残ります。だから、あなたも生き残ってください。
志願兵が槍を突き出し、ファスビンダーの目の前の敵を刺し殺した。体勢を整える暇もない。すぐそばでは、別の敵が重歩兵と組み合っている。ファスビンダーは脚に力を込めて一歩踏み込み、その背から心臓めがけて、剣を深々と突き立てた……。
夕陽の下端が、遠い山の稜線に触れ始めていた。夏の風がときおりデクラスの礼服の裾をあおり、もともと乱れていた髪を、なおさら乱してゆく。風がやんだ隙に、手でひと撫でした。
動いた。
遠くのアイカド軍の野営地から、兵たちが出てきて、陣営の前に列を作り始めた。ほどなく、アイカド王家を示すあの王旗が、陣営の中からゆっくりと進み出てくる。大柄な馬に乗った一人の男が、兵の列の中に姿を現した。やがて、その男が石橋へ向かって馬を進めた。王旗を掲げる兵が常にその傍らにつき従い、後ろの兵たちは隊列を組んで続いている。
軍勢がもう少し近づいたところで、デクラスは数を見積もった。少なくとも、千五百人。
獲物が、餌に食いついた。
軍勢はデクラスから五十歩ほど離れたところで止まった。デクラスは落ち着き払って微笑んでいる。騎乗の男はさらに馬を進め、二十歩ほど手前まで近づいてきた。板金鎧に狼の毛皮のマント。首には、金の薄片と狼の牙を交互に連ねた首飾りを巻いている。旗持ちと、もう一人の男も続いて進み、騎乗の男の両脇に立った。彼らはデクラスの姿を、上から下まで念入りに眺めた。
騎乗の男がアイカド語で何かを言った。傍らの男はすぐに、ぎこちない西大陸の言葉で、デクラスへ大声で告げた。
「このお方は、アイカドの王太子アンドラク殿下だ。ひざまずけ、南の者」
デクラスは恭しく片膝をつき、頭を垂れると、よく通る声で言った。
「臣デクラス、王太子殿下に拝謁いたします」
王太子は馬上からデクラスを見下ろし、蔑むような笑みを浮かべた。通訳に何か二言三言告げ、二人で笑う。それから鉄籬堡を振り返り、また何かを言った。
「殿下がお尋ねだ。城には、まだ何人の守備兵がいる?」
「老いた者や体の弱った者ばかりの徴集兵と、弓兵が合わせて四百余名いるだけでございます」
王太子は馬上からストムセの城内をうかがった。北門は大きく開かれ、城壁の上に動く人影はわずかしかない。下僕を呼びつけるような手つきで、デクラスに来いと合図する。察したデクラスは頭を下げて馬の前へ歩み寄り、自ら手綱に手を伸ばした。そうして馬を引き、再び石橋へ踏み出す。千五百の兵が、ゆっくりとその後ろに続いた。王太子は得意げに、足でデクラスの背を軽く小突き、はははと笑った。デクラスはすぐに振り返り、愛想笑いを返す。
北門をくぐると、アイカド人を迎えるために配置された数人の「住民」が、門の内側で地面にひざまずいていた。パンと蜂蜜の壺を載せた盆を両手で掲げ、顔いっぱいに喜びを浮かべている。
「王太子殿下、どうぞお受け取りください。これが私どもの、客人を迎えるしきたりでございます」
デクラスが言った。
王太子は盆に一瞥をくれただけだった。
「ご不安でしたら、まずこの者たちに味見をさせます」
通訳が言葉を伝えると、王太子は手で合図をした。後ろから兵が一人進み出て、盆の上の品を受け取った。
「城の守備は、我々が引き継ぐ」
王太子が通訳にそう言わせた。
「もちろん、もちろんです。当然のことでございます。兵たちには、とうに言い渡してあります」
アイカド兵の二つの隊が左右に分かれ、城壁へ上がってゆく。上にいた徴集兵たちは、おとなしく武器を差し出す。デクラスは馬を引き、そのまま市庁舎へ向かう。しばらく進むごとに王太子が合図を送り、そのたびに後続の兵の一部が隊列を離れ、通りを押さえてゆく。市庁舎の前に着いたときには、付き従う兵は二百人ほどに減っていた。
市庁舎の大扉の前では、サディスと数人の鉄翎軍の兵、それに先ほどの市政官たちが列を作り、王太子の到着を恭しく迎えた。馬が止まると、デクラスは進み出たアイカド兵に手綱を渡し、王太子の下馬を手伝おうと振り返った。だが、王太子は馬上に座ったまま、動こうともしない。デクラスを指さし、次に地面を指さした。
「我らのしきたりだ。降伏した者は、馬を降りるための踏み台になる」
通訳がせせら笑いながら言った。
サディスが怒りを顔に出しかけた。デクラスが鋭く睨みつけると、サディスは辛うじてその怒りを抑え込んだ。
「わかりました、わかりました。殿下の踏み台には、私がなるのが当然でございます」
デクラスはへらへらと笑いながら馬の足元にひざまずき、そのまま四つん這いになった。王太子は馬上で体を横に向けると、悠々とデクラスの背を踏んで地面へ降りた。デクラスは立ち上がり、手についた土を払った。
「殿下、こちらの者たちはストムセの市政官、こちらは私の供の者でございます。皆、殿下をお迎えするために、私が呼び寄せました」
王太子は横目で一瞥し、通訳に言わせた。
「武器をすべて差し出せ」
「差し出せ!」
デクラスはサディスたちに命じながら、しきりに目配せをした。サディスと鉄翎軍の数人は、やむなく佩剣を外し、すでに入口を固めているアイカド兵に渡した。
デクラスが腰をかがめ、王太子と三十余名の親衛兵を市庁舎に設けられた宴席へ案内すると、楽の音が響き始めた。そのとき、最後の陽の光も消え失せ、夜の帳が下りた……。
「松明に火をつけろ! 早く火をつけろ!」
鉄籬堡の箭塔から、兵が下へ叫んでいた。だが、誰もが戦うだけで手いっぱいだ。火がともったのは、箭塔の松明だけだった。月はまだ昇らない。箭塔のわずかな明かりの中、城壁の上で人影が揺れ動いている。北と西の城壁は、すでにそれぞれ三分の一ほどをアイカド兵に奪われていた。弓兵も弩兵も、矢をすべて使い果たしている。一方、城外のアイカド兵は、平然と松明に火をともしていた。
西の城壁の箭塔にいた弓兵と弩兵の小隊が、木の弓を捨て、身につけていた短刀を抜いた。松明を持った兵を囲んで守り、一斉に箭塔を駆け下りる。城壁の各所に置かれた松明や火鉢に火をつけようとしたのだ。だが、城壁に出てみれば、松明も火鉢もあったものではない。倒れているか、とうに蹴り倒されているか、そのどちらかだった。西の城壁には尖らせた丸太が据えられ、守りについているのは教廷国の志願兵だけだ。だが、アイカド兵の中には、攻城梯から跳び、丸太の尖った先を両腕で抱え込む者がいる。その下に体をぶら下げると、力ずくで城壁へよじ登ってくる。
「くそっ、丸太に火をつけろ! 丸太を全部燃やせ!」
弓兵の小隊長が叫んだ。松明を持つ弓兵は身をかがめ、狭間から突き出した丸太へ手を伸ばし、火をつけようとする。
「隊長、火がつきません! 血だらけです! 油ももうありません!」
「藁を取ってこい! 暗闇の中で戦わせるわけにはいかん!」
数人の弓兵と弩兵が、戦いを避けながら石段へ走り、城壁を駆け下りた。
北の城門楼の下では、防御陣を組む重歩兵がますます少なくなっていた。穴の開いていた門扉は、もうほとんど砕け散っている。アイカド兵は次第に優勢となり、重歩兵たちを数尺押し戻した。門洞が、今にも突破されそうだ。北の城壁の上は、さらに凄惨だった。暗闇の中、登ってきたアイカド兵はでたらめに斧を振り回し、味方を斬ることさえ厭わない。帝国の重歩兵たちは、とうに体力を使い果たしている。志願兵たちは、あまりにも密集していた。北の城壁全体が、狂乱に呑まれてゆく。
聖騎士の鎧をまとった志願兵が一人、死体を踏んで狭間のそばの高い胸壁によじ登った。城門へ絶え間なく押し入る敵を、見下ろす。
「女神に祝福あれ!」
叫ぶと、剣を手に身を躍らせた。自分の体を、城門の外のアイカド兵へ叩きつける。
続いて二人目、三人目。「女神に祝福あれ!」の声が、城壁のあちこちから上がり始めた。二人で腕を組み、城壁の上のアイカド兵に飛びかかり、ともに城下へ落ちる者。梯子の上端へ猛然と飛びつき、梯子をつかんだまま身を投げる者。
弓兵と弩兵たちが藁の束を抱え、城壁へ駆け戻って火をつけたとき、その目に映ったのは、火明かりに一瞬浮かび、消えてゆく人影だった……。
「殿下! もう一杯、お付き合いください!」
デクラスは杯を掲げ、アイカドの王太子の前へ進み出た。
王太子は踊り子の舞に興が乗っていた。デクラスに視界を遮られると、仕方なく杯を取り上げ、形ばかりひと口飲んだ。デクラスは頭をのけぞらせ、杯の酒を一息に飲み干す。
「殿下、申し上げますがね、ここからさらに南東へ行けば、一面の穀倉地帯です。あの農地をすべて手に入れてしまえば、帝国を滅ぼす日も、そう遠くはありませんよ」
通訳が言葉を伝えると、王太子は面白がるようにデクラスを横目で見て、何かを言った。
「殿下は、南の者どもが敗れるのは、お前のように主を売って出世を望む者がいるからだと仰せだ」
「いやいや、主を売って出世を狙うだなんて。私だって、好きでこんな所へ戦をしに来たわけじゃありません。皇帝がどうしても戦えと迫るんですから、ほかにどうしようがあるんです?」
デクラスは膝をついて食卓の酒壺を取り上げ、王太子の杯をもう一度満たした。
「殿下がお尋ねだ。降伏するつもりなら、なぜ二日前には降伏しなかった?」
デクラスは自分の杯にも酒を注いだ。杯を両手で持ち、王太子と傍らの通訳へ恭しく掲げてから、またひと口飲む。それから、おどけた調子で口を開いた。
「殿下、私だって少しくらい、損得を考えてもいいでしょう? 二日前に降伏して、もし鉄籬堡が落ちなかったらどうします? あとになって、あの主戦派どもに首をはねられたら、結局、私は死ぬじゃありませんか」
通訳はその言葉に少し驚いた。王太子が、いったい何と言ったのかと、傍らから訳すようせき立てる。通訳がアイカド語で早口に訳して伝えると、王太子は意外にも、はははと大笑いした。それからデクラスを指さし、さらに何かを言った。
「殿下は、お前はまったく卑しい男だが、現実のわかる利口者でもあると仰せだ。殿下はそこをお気に召された。これから殿下のもとで働くなら、それに見合う栄華と富を与えるそうだ」
デクラスは感激した様子を装った。酒のせいで、顔はすでに真っ赤になっている。
「ありがとうございます、殿下! もう一杯、殿下に乾杯! 通訳の兄さんも、ありがとう!」
デクラスはまた勢いよく杯を空け、ふらふらと立ち上がると、舞を続ける踊り子のそばへ歩いていった。
「殿下! 私も……殿下に、ひとつ舞をご披露いたします。どうぞ、ご覧ください!」
王太子の許しを待ちもせず、デクラスは楽の音に合わせ、踊り子の横で手足をばらばらに動かして踊り始めた。その醜態は宴席の誰の目にもさらされ、居並ぶアイカド人たちがどっと笑い出す。デクラスは構わず踊り、くるりと回った拍子に、下座のほうに座るサディスを横目でうかがった。サディスは杯を手に、硬い顔のまま隣のアイカドの士官と酒を飲んでいる。だが、顔に酔いの色はなく、意識ははっきりしていた。デクラスも大声で笑った。
何度か回るうちに足元が定まらなくなり、よろめいて自分の席へ倒れ込んだ。食卓の杯をひっつかみ、震える手で掲げる。縁から酒がこぼれつづけている。
「殿下、お許しを! 酔ってしまいました。もう一杯、ご一緒に。栄華と富、しっかり覚えましたよ!」
デクラスはごくごくと美酒を喉へ流し込んだ。王太子もようやくデクラスへ杯を掲げ、一息に飲み干す。
飲みすぎた。
そう思ったとき、デクラスは目の前の食卓へ頭から突っ伏した。目の前がかすみ、ものが二重に見える。宴の広間がぐるぐると回る。
サディス、頼んだぞ。
デクラスはもう耐えきれず、目を閉じた。
サバルトは戦槌で一撃を受け止めた。だが、立っているための最後の力が、両脚から抜けた。そのまま横ざまに倒れ、戦槌も手を離れ、転がってゆく。目の前の敵が、また斧を振り下ろす。本能のままに体をずらすと、戦斧は石床を打ち、細いひびが走った。尻をついたまま両脚で地を蹴り、両手で体を支えながら後ろへ逃れる。やがて、手が城壁の縁に触れた。アイカド兵は逃げ場を失った獲物を得意げに見下ろし、仕留める快感に浸りながら、再び戦斧を振り上げる。その背後から、志願兵が一人、不意に飛び出した。アイカド兵の腰を後ろから抱え込み、そのまま前へ身を投げる。二人はサバルトの頭上を越えて城壁から落ち、城内の地面に頭から激しく叩きつけられた。
サバルトはそのまま、石床に仰向けに横たわった。かすかな明かりの中、人が挽き肉にされてゆくこの場所で、彼の重い鎧はへこみだらけになり、血がべったりとこびりついている。また一つ死体が増えたと思われるだけで、誰も気に留めない。ときおり誰かの足に蹴られても、動こうとはしなかった。ただ、そのまま横たわっている。また、星のない夜だ。面甲の隙間から空を見上げ、数か月前、南の城壁の下に取り残された夜を思い出す。あの夜は、空いっぱいに星があった。生きているうちに、もう一度、あんな星空を見ることができるだろうか。後ずさりしてきたアイカド兵の大きな背中が、視界の上に入った。その革のブーツの踵が、はずみで面甲にぶつかる。サバルトはその足首をつかみ、自分の頭の向こうへ力いっぱい引いた。男はたちまち体勢を崩し、城壁の縁から転げ落ちた。
もう一度、あんな星空が見たい。
丸一日、何も食べていない。激しい空腹が襲ってきた。胃袋がぐうぐうと何度か鳴り、全身の筋肉が強張り、震える。不意に上体を起こすと、両脚を伸ばし、そばで志願兵めがけて槌を振り下ろすアイカド兵の足を引っかけて転ばせた。石床に落ちていた何か硬いものをつかむ。そのまま男の顔へ叩きつけた。何度か殴ると、男は動かなくなった。
西の城壁は、もはや陥落寸前だった。守っていた志願兵は、ほとんど残っていない。薄い革鎧をまとった弓兵と弩兵が、城壁の両端で、アイカド兵が先へ進むのを食い止めようとしている。北の城門の下で陣を組む重歩兵は、二十人ほどしか残っていなかった。城内の空き地に残っていた志願兵たちも陣の後ろにひしめき、門洞へ石やがらくたを投げ込んでいる。城壁の上の重歩兵には、もうどこへも援護に回る余力はない。それなのに城外では、いまだ無傷の数千の敵が、城壁と城門の前で押し合っていた。
そのとき、遠くの平原に、火の光が広がった。
闇の中に、小さな影の塊が二つ。遠目には、それぞれがひとつの蟻の群れのように見えた。どちらも、鉄籬堡へと流れてくる。
サバルトには、何が起きたのかわからない。ただ、目の前の城壁から人影が減ってゆく。梯子の敵は下へ退き、中には半ばまで下りたところから飛び降りる者までいる。城門楼の下でも、敵兵が我先に門扉の破れ目をくぐり抜け、四方へ散っていった。
城内が、不意に静まり返った。ついさっきまで耳元に響いていた戦いの音は、今は鉄籬堡の外の平原から聞こえる。遠く、さらに遠くへと退いてゆく。
サバルトは狭間につかまった。頭の中は、真っ白だった。両脚から力が抜け、膝で城壁を擦りながら、ずるずると崩れ落ちる。全身の筋も骨も抜き取られ、ひとかたまりの泥になってしまったかのように。最後に目に映ったのは、城壁の上に倒れ伏す人々の姿。そして、左手の少し先に横たわる、頭のない重歩兵の体だった……。




