北方戦争編 第二十話 戦端
帝国暦460年7月9日。
ここ数日、デクラスは毎日欠かさずストムセの高い城壁に上がり、北を見つめていた。ときには、そのまま半日も立ちつくす。ソーン川の水は、目に見えて汚れていた。岸近くの浅瀬にも、もはや澄んだ水はない。蚊と蠅がわき、悪臭が立ちこめる。夏の南風が吐き気を催す臭いを運び、北へ吹きつける。その臭いがアイカド軍の野営地まで届くのか、デクラスにはわからない。だが、この二日ほど、北を見ていると、何人かのアイカド兵が営外へ駆け出しては立ち止まる姿を、ときおり見かけた。吐いているようにも見える。昨夜には、見張りの兵から報告があった。野営地の外、百歩ほど離れたところに木が積み上げられ、何体かの死体が運び出されて、まとめて焼かれているようだという。
もうすぐ、答えが出る。今日も城壁の上でそう思い、デクラスは背に回した両手を、ぐっと握った。斜め後ろに立つファスビンダーは、主人の一挙一動を見逃さない。長年仕えてきた中で、これほど主人の身を案じたことは二度しかない。去年、デクラスが投獄されたとき。そして、今。
「閣下、食事の時間ですよ」
ファスビンダーがそっと声をかけた。
「ん? もうそんな時間か。パンを少し、ここへ持ってきてくれ。ここで食べる」
「はい、閣下」
ファスビンダーは踵を返し、城壁沿いの石段を下りてゆく。ため息をつき、黙って首を振った。ほどなく、片手にパンをいくつか、もう片方の手に肉のスープを入れた椀を慎重に持ち、再び石段を上ってきた。だが、城壁の上にデクラスの姿が見当たらない。右手のほうで、慌ただしい足音が遠ざかってゆく。そちらへ目を向けると、東の城壁へ向かって走る主人の背が見えた。もう数十歩も先だ。
「閣下!」
デクラスが走りながら振り返る。
「早く皆を呼べ! 敵が出てきた!」
ファスビンダーはそこでようやく北を振り返った。アイカド軍の野営地の門前で、黒々とした人の群れがうごめき、南東へ向けて陣を組んでいる。肉のスープとパンが地面に散り、ファスビンダーは城内へ駆け出した。
ストムセ城壁の北東角。指揮官たちは全員、デクラスの背後に並び、遠く鉄籬堡の方角を見やっている。敵の隊列はすでに道のりの半分ほどを進み、まもなく攻撃位置に達しようとしていた。
「閣下、兵の数は前回ほどではありません。投石機も攻城弩も、それぞれ二基だけです」
重歩兵第二団の団長が、敵軍を見ながら言った。
「どれくらいと見る?」
デクラスは振り返らず、わずかに顔を横へ向けた。
「一万三、四千ほどかと」
第二団の団長が答える。
「やはり、野営地を守る兵も残しているわけか」
デクラスがあらためてアイカド軍の野営地へ顔を向けると、確かに、まだ人影が動いていた。
鉄籬堡の城壁では、重歩兵たちはすでに兜をかぶり、息を詰めて、近づいてくるアイカド軍の隊列を見つめていた。足元には石や短く切った丸太が積まれ、タールも用意されている。どの箭塔にも弓兵と弩兵がひしめいていた。教廷国の志願兵の一部は重歩兵の背後に列をなし、残りは城壁の下や塔の中に身を隠し、いつでも城壁と箭塔へ物資や矢を運べるよう備えている。
「落ち着け! まだ射るな!」
第一団の団長が声を張り上げる。
アイカド軍の隊列が攻撃位置に達し、足を止めた。後方では投石機の射角を調整している。兵たちが巨石を運び、その受け皿に載せてゆく。
「石が来るぞ! 伏せろ!」
兵たちが一斉に地に伏せる。ひゅう、ひゅう。空を切る音。二つの巨石が、城壁のはるか上を越えてゆく。一つは空き地に落ち、そのまま転がり、家禽を飼う小屋をなぎ倒した。もう一つは主楼の前の石造りの壇に激突し、階段の一部を大きく砕き落とした。
第一団の団長が、腰をかがめたまま少し身を起こし、城壁の外をうかがう。敵はまだ攻めてこない。投石機の角度を合わせ直している。その左右の二基の攻城弩も、すでに発射の準備を終えていた。
「そのまま伏せていろ!」
サバルトは重い鎧を着たまま城壁の上に伏せ、次々と響く轟音を聞いていた。頭上を越えて城内へ叩きつけられる巨石と巨大な弩矢。城壁を直撃するものもある。兜の狭い覗き穴越しに、少し離れたところで伏せるエドヴォンスが見える。背後には教廷国の志願兵が何人か、同じように伏せていた。エドヴォンスもこちらへ頭を向けている。互いに顔も表情も見えない。それでも、身ぶりでわかる。どちらも、それほど張りつめてはいなかった。エドヴォンスはサバルトに向かって城壁の石床を指し、それから親指を立てて叫んだ。
「この城壁、くそ頑丈だな!」
サバルトはうなずいた。後ろの志願兵たちは、同じように伏せていても、ずっとおびえた様子だった。よく見たが、あの酒場で大口を叩いていた連中の顔は見当たらない。そのかわり、聖騎士の鎧を着た者が一人、彼らに交じって伏せている。聖騎士が、どうしてあの連中に交じっているんだ? サバルトは一瞬、そういぶかった。
巨石と弩矢が、さらに幾度も城を叩いた。やがて、城壁の外からアイカド兵の鬨の声が上がる。
「立て! 構えろ!」
第一団の団長が再び叫んだ。
サバルトが身を起こしたとたん、攻城梯の先端が城壁の向こうからせり上がり、目の前の縁に掛かった。志願兵の一人が慌てて石を抱え上げ、叫びながら放り落とす。
「おい! まだ落とすな!」
サバルトは手を伸ばしたが、間に合わない。石は城壁の外側を転げ落ちる。梯子に取りつこうとしていた数人のアイカド兵が四方へ跳びのき、石は誰にも当たらなかった。
「慌てるな! 慌てるな! 命令に従え!」
第二連隊の指揮官がすかさず怒鳴った。その一喝が、ほかの数人の志願兵の動きを止める。
「落ち着け! 落ち着け!」
第一団の団長は左右の城壁へ目を走らせた。梯子の下にはアイカド兵がひしめき、先頭の兵は、あと数段で城壁の縁に手が届く。
「弓兵、弩兵!」
団長が叫ぶ。
たちまち、火をまとった矢が箭塔から一斉に降り注ぐ。狙いは、梯子を登る敵ではない。城壁から三十歩ほど離れた地面だ。火矢が草地に突き刺さり、帝国軍があらかじめ敷いたタールの帯に火が移った。ごう、と炎が噴き上がり、鉄籬堡をぐるりと取り巻く火の壁となる。
城壁の下に群がるアイカド兵と、後方から続く兵たちが、一瞬にして炎で隔てられた。タールのそばにいた兵の革鎧や毛皮にも次々と火がつく。全身を炎に呑まれ、悲鳴を上げて数歩走ったかと思うと、地に倒れる。
夏の南風にあおられ、火の舌が草地をゆっくりと北へ這ってゆく。濃煙が渦巻き、熱気が押し寄せる。火の壁の外側にいたアイカド兵は次々と後退し、城壁の下で何が起きているのかも見えなくなった。
火の壁の内側に取り残された敵兵の間には、いっそう激しい動揺が広がった。途中まで梯子を登っていた兵が下り始め、下にいる兵とますます押し合う。その一方で、なおも必死に上へよじ登る者もいる。
サバルトは戦槌を振るい、顔を出したアイカド兵を叩き落とした。下をのぞき込むと、地面に叩きつけられた男の頭から、脳漿が飛び散る。城壁の真下にひしめくアイカド兵の顔には、恐怖が浮かんでいる。
北門の内側には、第一団の団長が第一連隊の重歩兵たちを率いて立っていた。長剣を抜き、声を張り上げる。
「皆殺しにしろ! 武器も全部奪え!」
兵たちが北門を開く。門外のアイカド兵が目を見張る中、団長が真っ先に飛び出した。一太刀で一人の首を刎ね飛ばし、続く一太刀を、別の兵の肩口から斜めに叩き込む。剣は鎖骨を断ち、胸の奥に食い込んで止まった。第一連隊の兵たちがそのあとから北門を駆け抜け、二手に分かれて城壁沿いを左右へ突き進む。城壁の下で身を縮め、なすすべを失ったアイカド兵を、片端から殺してゆく。炎と濃煙を盾に、箭塔の弓兵と弩兵も、外から救援に向かおうとする敵へ矢を放ちつづける。遠くにいるアイカド兵は、濃煙と火の壁の向こうから届く絶叫と呻き声を、ただ聞いているしかなかった。
半時間もたたぬうちに、取り残された数百のアイカド兵は一人残らず殺された。第一連隊は全員無事に城内へ戻り、敵の武器はおろか、死体に刺さった矢まで残らず奪い取っていた。
城門が再び固く閉じる。アイカド軍はタールの帯を越えられず、炎が消え、濃煙が晴れるのを待つほかない。もはや軽々しく攻め寄せようとはしなかった。
城壁の上で、第二連隊の兵たちがようやく腕を振り上げ、歓声を上げた。教廷国の志願兵たちからも恐怖の影が消え、サバルトたちと声を合わせて叫ぶ。歓声は空に響き渡り、ソーン川を伝ってストムセの城壁まで届いた。
「これは……うまくやっているな」
腕を組んだデクラスは、指揮官たちとともに鉄籬堡を見やっていた。立ちこめる濃煙の向こう、城壁の下で何が起きたのかまでは見えない。だが、敵の動きと届いてくる歓声が、すべてを物語っている。その顔に、ようやく晴れやかな笑みが広がった。
「ええ、閣下。アイカド軍がこの調子なら、四日も守らずに済むのでは?」
第二団の団長の声にも、少し余裕が生まれた。さっき敵が攻めかかったときには、誰よりも緊張していた男だ。
デクラスは振り返り、一同に目をやった。リュッペルはいつもと変わらぬ微笑を浮かべている。サディスは珍しく顔のこわばりが解け、口の端さえわずかに上がっている。
何か言おうとしたとき、ぐう、とデクラスの腹が鳴った。とたんに気まずい顔になり、腹を手で押さえる。
「ファスビンダー! 私の昼飯は?」
鉄籬堡の外の炎が弱まり始めたのは、夜になってからだった。だが、タールから立ち昇る濃煙は、さほど薄れていない。一陣の風が吹くと、煙に切れ間ができ、その向こうにアイカド兵の姿が見えた。サバルトには、敵全体が百歩ほど後退し、鉄籬堡の弓の射程外へ出ただけだとわかった。その場で休んでいて、引き揚げる気配はない。
第一団の団長と第一、第二連隊の指揮官は、城壁の上から外を見渡し、敵にどう対処するか思案していた。
「閣下、煙が消えぬうちに、もう一手打ってはどうでしょう」
第一連隊の指揮官に問われ、団長は少し考えた。
「いや、やめておこう。敵は離れすぎている。まだ三日ある。タールなども、節約して使わねばならん」
二人の連隊指揮官は黙っていた。団長の目は、敵兵が休んでいる草地を離れない。
「お前たち、今度の敵は何か違うと思わんか?」
不意に問われ、二人は返答に詰まった。団長の視線を追い、しばらく敵の様子を丹念に見てから、互いに顔を見合わせる。
「閣下、強いて言えば……敵の戦意が、あまり高くないように思えます。そういうことでしょうか」
第二連隊の指揮官が、確かめるように答えた。
「まあ、そんなところだ。今のあいつらを見てみろ」
団長が手を上げ、遠くのアイカド兵を指す。
「戦が始まったころは、代わる代わる攻めてきて、こちらを消耗させていた。あの時分には、こんな様子はあまり見なかっただろう?」
二人は、薄く残る煙の幕を透かして、敵の姿を見極めようとした。確かに団長の言うとおりだ。遠くではあるが、草地に寝そべる者もいれば、三人、五人と集まって座り込む者もいる。昼間に一戦交えたばかりでなければ、その姿だけでは、野で飯でも炊きに来た新兵の集まりに見えただろう。
「あいつらも、本当はもう戦いたくないんじゃないか……」
第一連隊の指揮官が、独り言のようにつぶやく。
団長は聞いていたのかいなかったのか、もうしばらく外を眺めてから振り返った。
「とにかく、今夜は第一、第二連隊ともに全員で夜番に当たれ。お前たち二人も、この城壁の上で休め。いいか、決して気を抜くな」
「はっ」
二人が声を揃えた。
「ああ、それから、ストムセへ兵を一人遣れ。敵の様子と今日の戦闘の経過を簡単に書いて、届けさせろ」
「え? ですが閣下、敵はまだ城を囲んでいます。伝令はどうやって外へ出れば?」
団長はため息をついた。
「南の城壁の下にある、あの鉄格子の門を開けて、川を渡らせろ。少しは頭を使え!」
そう言い残し、団長は城壁の上を歩いて、ほかの持ち場の見回りに向かった。
少し離れたところに立っていたサバルトとエドヴォンスは、互いに肩をすくめた。
「サバ、交代で休まねえか」
エドヴォンスが言う。
「いいな、エド」
サバルトは遠慮もせず、城壁にもたれて、その場にどさりと腰を下ろした。
包囲二日目の早朝。第二連隊の兵たちが、城壁にもたれ、ばらばらの姿勢で体を休めている。結局、敵は夜のあいだには攻めてこなかった。遠くから響く騒ぎ声に、サバルトは不意に目を覚ました。城壁に手をついて立ち上がり、目をこすりながら敵陣を見やる。アイカド軍の野営地の方角から、三人の男が敵の陣へ入ってくる。一人が前を歩き、残る二人がそのあとに続いている。先頭の男は、しきりに何か叫んでいた。
エドヴォンスも目を覚まし、城壁にもたれて外を見ていた。第二連隊の指揮官も立ち上がり、同じ方角を見やっている。
男は敵陣の中でなおも叫びつづける。やがて、指揮官らしい男が一人歩み寄り、二人はアイカド語で激しく言い争い始めた。
「ごちゃごちゃと、何を揉めてんだよ」
エドヴォンスが小声でぼやいた。
言い争いはいっそう激しくなり、大勢のアイカド兵が地面から立ち上がって二人を取り囲む。やがて、来たばかりの男が背を向け、二歩進んだ。次の瞬間、男は抜刀し、振り向きざまに剣を一閃させた。罵声がぷつりと途切れる。指揮官らしい男が、棒のように前へ倒れた。
サバルトの体に、不意に震えが走った。全身の毛が逆立つ。城外は一瞬にして静まり返っていた。抜刀した男が、ゆっくりと顔をこちらへ向ける。サバルトは強烈な殺意を感じた。自分に浴びせられ、鉄籬堡の城壁全体に浴びせられる、殺意を。




