北方戦争編 第十九話 おとり
十日のあいだに、こうした陽動は五度行われた。一度に動かす兵は数百人。それ以上では、夜間に泳いで川を渡るのが難しくなる。また、いつまでも続ければ、一つの城堡にあまりにも多くの兵を送り込むことになり、かえって不自然だ。デクラスは頃合いと見て、陽動を打ち切った。あの奇妙な軍旗は、すべて鉄籬堡の主楼の屋上に立てられていた。
アイカド軍には、何の動きもなかった。
リンドヒルを発ってから、まもなくひと月になる。デクラスはずっと、胸の内で日を数えていた。もう、次の手を打つほかない。再び、軍議を招集した。
「ストムセ城内の全将兵と住民に、布告を」
指揮官たちは一心にデクラスを見つめ、次の軍令を待っている。だがデクラスは一度言葉を切り、席に着いた一同を見渡してから、ようやく続きを口にする。
「本日より、城内の便所の使用を禁じます。兵に命じてソーン川のほとりに簡易の便所を設けさせてください。兵も住民も、用を足すときは川辺へ行くこと。あるいは、糞尿を集めて川へ捨てるように。日々の暮らしで出る汚水も、同じく川へ流してください」
命令を下したものの、デクラスは指揮官たちと目を合わせるのをためらう。ところが、いささか意外なことに、この命令に不満はないようだ。
「閣下、敵の水源を汚すおつもりですか?」
第一団の団長が尋ねる。
「そうです」
「我々は構いません。城の住民には苦労をかけますが」
別の指揮官が言葉を添えた。
「城内の井戸の水で、どうにか足ります。当分、住民には暮らしに使う水をできるだけ節約するよう伝えてください」
デクラスはそこまで言って少し考え、さらに続ける。
「それと、精鋭の重歩兵六百、弓兵と弩兵を合わせて二百。それに教廷国の志願兵全員を、鉄籬堡の守備に回します」
「閣下、それはなぜです?」
デクラスは鼻筋の付け根をつまんだ。その目には、かすかに疲れがにじんでいる。このところ、ろくに眠れていない。
「鉄籬堡に増援を送ると見せかけたのも、水源を汚すのも、アイカド軍に撤退を強いるためです。ただ、万一、それでも敵が退かなければ――水源が汚れた後、間を置かず鉄籬堡への総攻撃に出ると、私は見ています」
指揮官たちは顔を見合わせる。上座のサディスとリュッペルは、黙ったままだ。
「閣下、鉄籬堡に増援を送ると見せかけた以上、敵はそのぶんストムセの守りが手薄になったと考えるはずです。なぜ、ここではなく鉄籬堡を総攻撃するとお考えなのですか?」
軽歩兵の指揮官が疑問を口にした。
デクラスはすぐには答えず、身じろぎして、少し楽な姿勢に座り直す。それから、サディスに顔を向けた。
「サディス殿。あなたがアイカドの王太子だとしましょう。鉄籬堡には兵が増え、ストムセは手薄に見える。一方で、使える水は間もなく尽きる。死力を尽くして一か八かの勝負に出るなら、どちらを攻めますか?」
総指揮官から不意に問いを向けられ、先ほどから思案していたサディスは、もう一度じっくりと考えた。そして、きっぱりと答える。
「鉄籬堡です」
軽歩兵の指揮官が、腑に落ちない様子でサディスを見る。
「皆にも、説明していただけますか」
デクラスは疲れのにじむ顔に、かすかな笑みを絞り出した。
サディスは胸の前で腕を組み、いつもの鉄のように冷徹な、無表情の顔でデクラスを一瞥する。それから口を開いた。
「ストムセだけを落としても、何の意味もありません。鉄籬堡という釘を抜かぬかぎり、敵はいつでも退路と補給を脅かされることになる」
「それに、今のアイカド軍の兵力では、二手に分かれて両方を攻めるのは難しいと見ています。攻めるとすれば、主力は鉄籬堡へ向けるでしょう。少数の兵を残して野営地を守らせ、ストムセを監視させるのです」
デクラスが補うと、一同にもようやく合点がいった。もう異を唱える者はいない。ただ、重歩兵第一団と第二団、それぞれの団長の顔は、いっそう険しさを増してゆく。
「閣下、こう理解してよろしいのでしょうか。アイカド軍が退けば、それでよい。ですが、おっしゃるとおり鉄籬堡を攻めてきた場合、敵はそこに数千の兵がいると思っている。ところが、実際に主力となるのは六百の重歩兵だけ。ほかには弓兵と弩兵、それに教廷国の志願兵。つまり、あの者たちを囮に使うおつもりなのですね」
第一団の団長の声は低かった。「囮」。その言葉に、デクラスは膝の上で両手を一瞬、固く握る。ファスビンダーはその動きに気づいた。
「……そうです」
デクラスは答えた。
「閣下。あの偽の軍旗を作らせたときから、あの者たちを囮に使う策を考えておられた。私の部下六百人に、一万を超えるアイカド兵の攻撃を食い止めさせるおつもりだった。そうですね?」
「そうです」
「失礼を承知で伺います、閣下。では、なぜ鉄翎軍と聖騎士を向かわせないのですか?」
「彼らには、別の任務があります。彼らが勝利をもたらしてくれます」
第一団の団長が冷たく鼻を鳴らす。どこか焦点の定まらぬ目が、天幕の中をさまよう。うつむいて地面を見、顔を上げて天幕の天井を見る。あるいは、何も見てはいなかったのかもしれない。誰も口を開かず、厳しい面持ちで彼を見つめていた。やがて、その目に再び焦点が戻る。このわずかなあいだに何を考えたのか、誰にもわからなかった。
「閣下、どれだけ守ればよいのですか?」
デクラスは鼻先の下に手を当て、顔の半ばを覆っていた。その手を下ろす。
「四日。戦いが始まったら、四日間、死守してください」
「四日後には、助けに来てくださるのですね。あいつらは皆、ヤラから帰ってきた者たちです」
「……このデクラス、女神に誓います。必ず、助けに行きます」
第一団の団長の乾いた目が、不意に潤んだ。手で鼻をぎゅっとつまみ、隣の第二団の団長へ向き直る。
「第一連隊はすでに鉄籬堡にいる。私が第二連隊を連れていこう。第二団長、あなたは自分の部下たちと、第三、第四連隊を率いて、ここに残り、総指揮官閣下を補佐してくれ」
第一団の団長はデクラスに一礼すると、踵を返し、大股で天幕を出ていった。
入口が開いた瞬間、折よく夏の風が吹き込んだ。重苦しい空気が、ほんのわずか、息をついた。
「閣下。先ほど、我らと鉄翎軍が勝利をもたらすとおっしゃいましたが、それはどういうことでしょう?」
リュッペルが最初に沈黙を破った。サディスもデクラスを見る。
「ええ、時が来ればお話しします。今は皆様、水源を汚す作業を進めてください。それから、リュッペル殿」
「はい、閣下。何でしょう?」
「聖騎士の鎧を十人分、志願兵に回していただけますか?」
「構いませんが、今度は何のためでしょう?」
「万一、戦いになったときに、城壁の上に、本当にさまざまな兵団の兵士がいると、アイカド軍に思わせたいのです。見せかけだと気づかれぬように」
リュッペルは微笑んだ。
「承知しました、閣下」
「では、これで散会にしましょう。皆様、ご苦労さまでした」
一同は次々に席を立ち、天幕を出てゆく。デクラスは立って見送ることもなく、座ったまま、目の前の低い卓をじっと見つめている。こんな主人の顔を、ファスビンダーは見た覚えがなかった。沈んだ、複雑な表情。その奥で、何かの感情を押し殺しているようにも見える。
「ファスビンダー」
「はい、閣下」
「書記官に、鉄籬堡を守る重歩兵と弓兵、弩兵の名を、一人残らず書き留めさせてくれ。それから、ストムセにある守城用の石やタール、丸太などを、すべて夜のうちに川の南岸から鉄籬堡へ送るんだ」
「はい、閣下。ほかに何かありますか?」
デクラスは少し考え、眉間のしわをわずかに緩める。椅子の肘掛けに両手をついた。
「脚がしびれた。立ち上がるのを手伝ってくれ。まずは川辺で用を足そう……」
重歩兵第一団第二連隊の兵たちは何列かに分かれ、ソーン川のほとりに立ち、順番に川へ小便をしている。夏の夕陽の下、何十もの尻が川辺にひときわ整然と並ぶ。その背後の草地には、外したばかりの腰甲が一列に置かれていた。
「第二列、前へ!」
第二連隊の指揮官が大声で命じる。
「小便するにも号令が要るのかよ」
エドヴォンスが小声でぼやいた。
二列目のサバルトとエドヴォンスは、皆と一緒に腰甲を外して川辺へ進み、ズボンを半ばまで下ろす。何十本もの水の筋が、一斉に川の流れへ放たれる。
「しろって言われたんだから、すりゃいいだろ」
サバルトは全身がすっきりするのを感じながら、エドヴォンスに目をやった。
「いや、今は出ねえんだよ」
サバルトは声を上げて笑い、わざとエドのほうへ少し体を向ける。エドヴォンスがぎょっとして、片足で跳ねた。
「サバ! お前っ!」
「ははははは!」
腰甲を着け直して脇へ退くと、三列目の兵たちが川辺へ進み出る。サバルトたちは川沿いの小道へ戻った。西の下流へ目をやると、ストムセに近い南岸で、軽歩兵が何人か、簡易の便所を組み立てている。
「あのデなんとかスって総指揮官、えげつねえ手を使うよな」
エドヴォンスは遠くの軽歩兵たちを眺め、唇を二度鳴らした。
「何だよ、敵がかわいそうになったのか?」
サバルトが尋ねる。
「そうじゃねえよ。ただ、この手はさ、へへ、きっついよな。そろそろ退くんじゃねえか?」
「だろうな。こんな水、誰が飲めるってんだ」
サバルトはアイカド軍の野営地を遠く望んだ。今ごろ、あの北の蛮族どもも、この光景を見て腹を立てながら、どうすることもできずにいるのだろう。そう思った。
「鉄籬堡へ、行軍再開!」
号令とともに、重歩兵たちは再び進み始めた。教廷国の志願兵は人数が多いため、夜になってから何組かに分かれて泳いで川を渡り、ひそかに鉄籬堡へ入る手はずだった。
その夜、兵たちが皆、食事を終えると、第一団の団長は重歩兵全員を主楼の前の空き地に集めた。団長自身は城壁へ上がり、振り返って、帝国の精鋭たちを見下ろす。
サバルトたちも兵の群れの中に立ち、団長を見上げていた。いったい何を話すのだろう。
「帝国の精鋭諸君。これより、命令を伝える」
城堡の中は静まり返っている。六百人の目が、団長一人に注がれる。
「今から戦が終わるまで、諸君に交代はない。数日のうちに敵が退けば、このくそったれの戦も、我々の勝利で終わる。だが、ここを攻めてきたなら、総指揮官閣下の命令により、四日間、死守せねばならん!」
兵たちのあいだから、一斉にどよめきが上がった。この半年、幾度も攻撃をしのいで守り抜いてきた者たちだ。ここで四日間持ちこたえることが、どれほど危険かはわかっている。
戦慄がサバルトの全身を走り、体がひとりでに、かすかに震える。エドヴォンスは奥歯を食いしばり、頬の筋肉を盛り上がらせている。誰もが疲れ、気を落とし、不安を抱えている。水源の汚染が進み、アイカド軍が一日も早く退いてくれるように。ただ、そう祈るしかない。また城壁での殺し合いに引き戻されぬように。
「諸君の不満も不安も、私にはわかる。敵が退くことを、ともに願おう。だが敵が攻めてきたなら、私も、指揮官全員も、諸君とともに城壁に立つ! そして約束する。これが、勝利を手にする前の最後の戦いだ!」
鬨の声はない。歓声もない。団長も、威勢のいい声が返ってくるとは期待していなかった。ただ、これだけは言わねばならないとわかっていた。言い終えた今は、胸の不安も幾分か和らぐ。
この夜、夜番に当たる重歩兵は一人もいなかった。よく眠るようにと言い渡されている。主楼の大広間に薄く藁を敷いた硬い床は、サバルトにはすっかり寝慣れた場所だった。だが、今夜ばかりは眠れない。大広間は静まり返り、雑談も、ふざけ合う声もない。それでも、サバルトにはわかっていた。そばに横たわる仲間たちは、誰ひとり眠っていない……。
デクラスもまた、眠れずにいた。両手を後ろで組み、あてがわれた部屋を行ったり来たりしている。とうとう声を上げた。
「ファスビンダー! ファスビンダー!」
しばらくして、部屋の扉がゆっくりと開いた。
「閣下、何かご用ですか?」
ファスビンダーは戸口に立ち、口を手で覆ってあくびをしている。
「リュッペルを呼んできてくれ」
デクラスはまだ部屋の中を歩き回っている。
ファスビンダーは理由を聞こうと思ったが、主人の様子を見て、結局「はい」とだけ答えた。
やがて、ファスビンダーがリュッペルを連れて部屋へ戻ってきた。リュッペルは鎧を着けず、教廷の平服を身につけている。
「デクラス閣下、何かご用でしょうか?」
リュッペルも疲れた顔をしていたが、口元にはかすかな笑みがある。
デクラスは椅子を勧め、自分は窓辺に腰を下ろした。
「リュッペル殿、こんな夜更けにお呼びして、申し訳ありません。実は、お聞きしたいのですが……その、そちらの軍には、従軍の神官はいるのでしょうか?」
デクラスが申し訳なさそうに小声で尋ねると、リュッペルは思わず笑った。
「え? 閣下、何をおっしゃるんです。我ら聖騎兵は、皆、神官ですよ」
「いや、違うんです。あなた方のような神官ではなくて、聖堂で教えを説いたり、皆の祈りを導いたりする、そういう神官です」
デクラスは両手で、膝のあたりをしきりにこすっている。
デクラスを見つめるリュッペルの目に光が宿り、表情はいっそう柔らかくなる。
「閣下、ご存じないかもしれませんが、我々聖騎士は皆、まず神官となり、それから選抜を経て騎士になるのです。私の二級神衛という位は、そちらの帝都リンドヒルでいえば、各区の聖堂の大神官にほぼ相当します。女神に祈りを捧げたいのでしたら、私がお導きしてもよろしいでしょうか?」
デクラスの顔に、深い感謝があふれた。
リュッペルがゆっくりと立ち上がる。慈悲に満ちたその顔は、敵陣で剣を振るう、あの無双の戦士のものとはまるで違う。胸の前で両手を合わせると、片方の手で天を、もう片方の手で地を指す。かすかな節を帯びた祈りの言葉が、その唇からゆっくりと流れ出す。
デクラスもゆっくりと頭を垂れ、目を閉じた。胸の前で同じ祈りのしぐさをして、リュッペルに続き、小声で唱える。
ファスビンダーは部屋を出て、そっと扉を閉めた。それが、その夜ファスビンダーが最後に目にした光景だった……。




