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北方戦争編 第十七話 着任

「聞いたか? 新しい指揮官、文官(ぶんかん)だってよ!」

「えっ? 戦場の経験もないのか?」

「別にいいだろ。このまま粘ってりゃ勝てるんだ」

「でもよ、今度の戦の計画は、全部そいつが立てたって話だぞ。教廷国(きょうていこく)の援軍を引っ張ってきたのもな」

「なら、教廷の志願兵(しがんへい)連中もなだめられるんじゃねえか?」

「さあな。頼りになるといいけどな」

 新たな指揮官が着任したという話は、たちまち前線に広まった。あちこちで兵たちが二人、三人と集まっては噂している。今は、サバルトたち第二連隊(れんたい)が鉄籬堡(てつりほう)の守備(しゅび)に当たる番だった。暇を持て余していると、自然とその話になる。話が盛り上がっているところへ、第二連隊の指揮官が主楼(しゅろう)の大扉から入ってきた。床に思い思いの格好で寝そべる兵たちを見回す。

「声を落とせ! 指揮官閣下(かっか)がおいでだ」

 そう言うと、第二連隊の指揮官は主楼の入口で、うやうやしく姿勢を正した。続いて先頭に立って入ってきたのは、三十代に見える、普段着姿の男だった。髪は乱れ、無精(ぶしょう)ひげが目立つ。その目には疲れがにじんでいるが、顔に緊張の色はない。すぐ後ろには、茶色の髪の、端正(たんせい)な顔立ちをした男。簡素(かんそ)な板金鎧(ばんきんよろい)をまとい、同じく主楼へ入ってくる。二人の後ろには、サディスと数人の鉄翎軍(てつれいぐん)の兵が続いていた。

「へえ、鉄翎軍まで後ろについて歩くのかよ」

 エドヴォンスがぼそりと言った。

「しっ!」

 サバルトは慌てて振り返り、声を出すなと手で合図した。

 男は主楼の内部を念入りに見回し、休んでいる兵たちにも目を向ける。それからサディスに手で合図し、一行(いっこう)を連れて上階へ続く階段を上がってゆく。

「あれが指揮官だって? ええ?」

 大広間がざわついた。とはいえ、大声を出すわけにもいかない。兵たちはあちらを指さしながら、小声で口々に話している。

 ほどなく、男は一行を連れて階段を下り、主楼を出ていった。サバルトたちも立ち上がり、様子を見ようと主楼の外へ出た。男は今度は一行を率いて、鉄籬堡の城壁(じょうへき)へ上がっている。まず西の城壁に立ち、遠く、アイカド軍の大きな野営地(やえいち)の方角を見やる。それから南の城壁へと歩いてゆく。しばらくすると東の城壁へ回り、最後は北の城壁から下りて、一行とともに北の城門から城外へ出ていった。

「隊長殿(たいちょうどの)」

 エドヴォンスは主楼の入口の壁にもたれ、そばに立っていた第二連隊の指揮官を肘(ひじ)で小突(こづ)いた。

「うちの新しい総指揮官(そうしきかん)、本当に頼りになるんですか?」

 第二連隊の指揮官は拳(こぶし)を上げ、エドヴォンスの頭を、ごつんと強く叩いた。

「余計なことを言うな! あの人がいなけりゃ、俺たちはとっくに死んでたかもしれんぞ」

「ちぇっ……」

 入口の外にひしめいていた兵たちは主楼へ引き返し、また一人、二人と床にだらりと寝転がってゆく。

 デクラスは一行を連れてストムセの城内に戻ると、そのまま新たに設けられた指揮所へ向かった。市庁舎(しちょうしゃ)前の小さな広場に張られた、仮設の天幕(てんまく)だ。もとの指揮所は教廷国(きょうていこく)の志願兵(しがんへい)に襲われた際、家具の多くが壊され、もう使える状態ではなかった。

「閣下(かっか)、ほかにご命令はありますか」

 サディスは硬い表情のまま尋ねた。その声からは、何の感情も読み取れない。

 デクラスは苦笑して答えた。

「サディス殿(どの)、私は爵位(しゃくい)も低い身ですから、そうかしこまらず、これからは名前で呼んでください」

「承知しました、閣下。では、ほかにご命令はありますか」

 サディスは口調を変えず、同じ問いを重ねた。こちらの言葉を聞いていたのかどうかもわからない。

 鉄翎軍(てつれいぐん)は、こういう人間ばかり選んでいるのか? デクラスはひそかに思った。

「サディス殿、敵がどこで水を汲(く)んでいるか、ご存じですか?」

「閣下、先の偵察兵(ていさつへい)の報告では、川を数里(すうり)下ったところで取水(しゅすい)しているとのことです」

「では、サディス殿、お手数ですが、今夜、兵を連れて、夜陰(やいん)に紛れて敵兵を何人か捕らえてきてください。話を聞きたいので」

「はっ、閣下。では、失礼いたします」

 サディスはそう言うと、厳しい顔つきのまま鉄翎軍の兵を連れて天幕を出ていった。デクラスはファスビンダーと顔を見合わせ、肩をすくめた。

「皇帝直筆(じきひつ)の命令書は、やはりよく効くな……さて、次はいちばん厄介(やっかい)なのを片づけるか」

 デクラスは天幕の上座(かみざ)まで歩いてゆき、椅子にどさりと腰を下ろした。何度か座り直す。

「なんだ、この椅子、尻が痛いぞ。ファスビンダー、すまないが、聖騎士(せいきし)の指揮官と、教廷国の志願兵の代表を呼んできてくれ」

「はい、閣下」

 ファスビンダーはうなずいて踵(きびす)を返し、天幕を出ていった。

 デクラスは先ほど鉄籬堡(てつりほう)で見てきたことを、一つひとつ丹念(たんねん)に思い返した。細部まで、すべての情報が頭の中で少しずつ組み直され、一枚の図面となって輪郭(りんかく)を現してゆく。二か月という期限を念頭に、敵を破る手立てを考える。前線へ向かう道中の数日間にも、すでにいくつもの策を練っていた。ただ、今日実際に現地を見たことで、すぐに捨てた案もあれば、さらに確かめる必要のある案もある。

 振り向いて、背後の二本の支柱の間に掛けられた前線の地図を見据えた。もとは砂盤(さばん)もあったが、教廷国の志願兵の騒乱(そうらん)でひっくり返され、壊されてしまっていた。

 あといくつか。肝心な情報が、あといくつか。それさえ揃えば、どれか一つの策が形になり、この賭けに勝てるかもしれない。何としても、生き延びねばならない。デクラスは顎(あご)をつまみ、思案していた。

 しばらくすると、天幕(てんまく)の外から騒がしい声が聞こえてきた。声は次第に近づき、やがて入口の垂れ布(たれぬの)が持ち上げられ、数人が入ってくる。デクラスが顔を上げると、その向こうには、不満げな顔の教廷国(きょうていこく)の志願兵(しがんへい)がすでにひしめいていた。

 先頭に立つファスビンダーの後ろには、銀白(ぎんぱく)の鎧(よろい)をまとった金髪の若者がいた。白いマントとサーコートには、女神教の印があしらわれている。ほかに、普通の鎧を着た男が三人。年齢はまちまちだった。

「閣下(かっか)、教廷国の皆様をお連れしました」

 ファスビンダーが言うと、デクラスは急いで立ち上がり、笑顔で迎えた。

「皆様! このたび帝国の前線総指揮官に任じられました、デクラスと申します。皆様に女神のご加護(かご)がありますように」

 そう言いながら、胸の前で女神教の祈りのしぐさをする。険しい顔で乗り込んできた教廷国の一行も、その柔らかな口調と穏やかな物腰に、いくらか表情を緩めた。

「デクラス殿。私は教廷国の二級神衛(にきゅうしんえい)、騎兵隊(きへいたい)指揮官のリュッペルと申します。こちらの三人は教廷国志願兵の分隊長(ぶんたいちょう)です。あなたにも女神のご加護がありますように」

 金髪の指揮官も挨拶を返した。

「皆様、どうぞお掛けください。座ってお話ししましょう」

 デクラスがにこやかに促すと、一行は顔を見合わせ、天幕の両側にある椅子に腰を下ろした。

 デクラスも上座(かみざ)へ戻って腰を下ろす。四人が揃って自分を見ている。そこで、あらかじめ考えておいた台詞(せりふ)を口にした。

「皆様、実を申しますと、教廷国に援軍を求めるよう進言(しんげん)したのは、私なのです」

 四人の顔にかすかな驚きが浮かんだ。誰も口を挟まず、続きを待っている。

「皆様には教廷国からはるばるお越しいただき、窮地(きゅうち)にあった我が帝国軍を救い、北方の異教徒(いきょうと)の侵略にともに立ち向かっていただきました。帝国を挙げて、皆様に感謝しております。ところが、前線の戦況が緊迫する中、前任の指揮官ヘルグがあのような不祥事(ふしょうじ)を引き起こしてしまいました。皇帝陛下も臣下(しんか)一同も、まことに残念に思っております。私の出立(しゅったつ)前に、帝国から教皇に事情を説明する書簡(しょかん)をお送りしました。ヘルグが皆様の配下(はいか)を数名斬(き)ったのは事実ですが、皆様も彼に重傷を負わせておられます。皇帝陛下も、ヘルグの傷が癒(い)え次第、改めて処罰すると仰(おお)せです」

 志願兵の隊長の一人が口を挟みかけたところで、デクラスは不意に立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばした。

「我が皇帝陛下を代表するなどとは申せませんが、私個人として、またヘルグに代わり、教廷国の皆様に謹(つつし)んでお詫び申し上げます」

 デクラスは天幕の外にも聞こえるよう、ことさらに声を張った。言い終えると、深々と頭を下げた。

 教廷国の四人は、かえってどう応じればよいかわからなくなった。外の志願兵たちまで、ぴたりと静まる。

 傍(かたわ)らに立つファスビンダーは、主人のこんな姿を見ながら、思わず考える。閣下は、政務(せいむ)の場ではいつもこんなに芝居がうまいのか?

 デクラスは身を起こし、笑みを浮かべて四人を見た。四人は、言おうとしていたことをすっかりのみ込んでしまったかのように、しばらく返す言葉を探していた。

 しばらくして、志願兵(しがんへい)の隊長の一人がようやく口を開いた。

「閣下(かっか)が我々に親切にしてくださるのですから、こちらも無礼(ぶれい)な真似はできません。そもそも、悪いのは閣下ではありません。ですが、我々は皆、神聖な信仰のために身を捧(ささ)げ、敵を討つためにここへ来たのです。それなのに、そちらはいつまでも出撃しようとせず、我々に城の守りを手伝わせるばかり。その結果、あの仲間たちは戦場で命を捧げることもかなわず、味方である帝国軍の刃にかかって死んだ。せめて、ご説明いただけませんか。我々も戻って、仲間たちに説明しなければなりません」

 話し終えると、ほかの二人の隊長も何度もうなずき、同意を示した。

「まず、このデクラスがお約束します。亡くなった方々のご遺族(いぞく)には、帝国が必ず補償(ほしょう)いたします。その方々のお名前を、私の書記官(しょきかん)にお伝えいただけますか。帝国の史書(ししょ)にその名を残し、リンドヒルの街角でも語り継がれるようにいたします。戦についても、お約束しましょう。敵を討つ機会は、必ずあります。皇帝陛下が私をここへお遣(つか)わしになったのは、敵を滅ぼすためです。どうか、もうしばらくご辛抱(しんぼう)ください。必勝(ひっしょう)の策を立ててみせます!」

 デクラスの言葉に、三人の隊長の表情もようやく和らいだ。三人は顔を寄せて短くささやき合うと、立ち上がり、デクラスと騎兵隊(きへいたい)指揮官のリュッペルに向かって祈りのしぐさをした。

「そこまでおっしゃってくださるのなら、我々も安心です。志願兵の仲間たちには、我々から話しておきます。それでは、これで失礼します。閣下に女神のご加護(かご)がありますように」

 三人は身を翻(ひるがえ)して天幕(てんまく)を出ていった。外から、大勢が立ち去る足音が聞こえてくる。その音がすっかり消えてから、リュッペルはようやく立ち上がった。顔にはもう笑みが浮かんでいる。

「デクラス殿、帝国はなぜ、もっと早くあなたを遣わしてくれなかったのでしょうね」

「リュッペル殿、買いかぶりです。私は身分も低く、本来なら軍の指揮など任される立場にはありません」

「ご謙遜(けんそん)を。我らを船で運び、鉄籬堡(てつりほう)から見えない場所に密かに上陸させる。その後、鉄翎軍(てつれいぐん)に戦場の様子を見させ、我らを迎えに来させて、ともに異教徒(いきょうと)の側面を突く。あの策をお考えになったのも、あなたでしょう?」

「お恥ずかしい。確かに、私です」

 リュッペルの笑みが、いっそう深くなる。

「もともと、帝国軍と協力して戦うようにとの教皇のご命令です。デクラス殿にお会いして、私もようやく安心しました。我ら聖騎兵(せいきへい)は、あなたのご命令に従いましょう」

 リュッペルは敬意を込めて、軽くうなずいた。

 デクラスは内心、嬉しくてたまらなかった。だが、顔には出さず、平静を保つ。

「ありがとうございます、リュッペル殿! 聖騎士(せいきし)の皆様にも、感謝いたします!」

「では、デクラス殿。すでに戦の策はおありですか?」

「リュッペル殿には、率直(そっちょく)に申し上げましょう。私は今日、ここへ着いたばかりです。道中(どうちゅう)、いくつか作戦を考えはしましたが、どれにするかを決めるには、もう少し詳しい情報が要ります。数日のうちには決められると思います」

 リュッペルはその率直な答えに、いたく満足したようだった。祈りのしぐさをして言った。

「では、ご妙策(みょうさく)をお待ちするとしましょうか。私はこれで失礼します。女神のご加護がありますように」

 デクラスもすぐに同じしぐさで応じた。

 リュッペルは背を向け、天幕の入口まで歩いたところで足を止める。しばらく思案(しあん)してから振り返り、言葉を添えた。

「デクラス殿。志願兵の仲間たちは、戦う力こそ限られていますが、死を恐れる者たちではありません。信仰のためなら命を捧げられる、愛すべき者たちなのです。ですから、彼らが死ぬのなら、どうか、ふさわしい戦場で死なせてやってください」

「このデクラス、リュッペル殿のお言葉を肝(きも)に銘(めい)じます」

 リュッペルはそれ以上何も言わず、微笑んで天幕を出ていった。

 その遠ざかる背を見送ってから、ファスビンダーがゆっくりと天幕の中央へ歩み出る。

「閣下、本当にもう作戦を考えてあるんですか?」

「ああ、いくつかは考えてある。それは本当だ。彼に嘘はついていないよ」

 ファスビンダーはデクラスを見つめ、さらに尋ねた。

「では……閣下は本当に、タイラル伯爵がおっしゃったように、慈悲(じひ)も良心(りょうしん)も、その一部を売り渡すんですか?」

 デクラスは頭をかき、何も答えなかった……。

 夜になり、第二連隊の兵たちは鉄籬堡(てつりほう)の城壁で見張りに立っていた。初夏とはいえ、帝国北部の夜はまだ少し肌寒い。

「聞いてきたぞ」

 隣で見張りに立つサバルトに、エドヴォンスが得意げに小声で言った。

「今度は何を聞いてきたんだ?」

 サバルトは振り向かない。遠くに目を凝(こ)らしたままだ。

「あの新しい総指揮官のことだよ。聞き込んできたんだ」

 エドヴォンスは得意満面だ。

 サバルトはようやく笑みを浮かべ、少し呆(あき)れたように振り返ってエドヴォンスを見た。

「いったい、どこでそんなに話を仕入れてくるんだ?」

「そんなことはいいだろ。聞きたいのか、聞きたくないのか、どっちだよ」

 サバルトはもう一度、横目でエドヴォンスを見た。夜中の見張りがこんなに退屈でなければ、こんな噂話(うわさばなし)につき合う気にもならない。

「じゃあ、聞かせてくれ」

 エドヴォンスは軽く咳払(せきばら)いをすると、サバルトのほうへ二歩寄った。

「あの指揮官、参謀院(さんぼういん)の次席(じせき)なんだと。デなんとかスっていう男爵(だんしゃく)でさ。今回のアイカドとの戦いじゃ、作戦は全部そいつが考えたらしいぜ」

 サバルトは笑った。昼間、ほかの兵たちがあれこれ言っていたのと、何が違うんだ。

「俺が知らない話をしろよ」

「まあ待てって。今から話すところだろ。去年のヤラの会戦の前にな、皇帝に、正面から戦うのは絶対に駄目だって進言(しんげん)したらしい。兵を惑(まど)わせたって皇帝が怒って、そいつを地下牢(ちかろう)に放り込んだんだと。戦に勝ったら処刑(しょけい)するつもりだったらしい。ところが、何もかもそいつの言ったとおりになっちまって、皇帝もまた使うしかなくなったってわけだ」

「へえ。じゃあ、そいつはなかなかやるんだな」

 ヤラの会戦にまつわることは、何ひとつ思い出すまいと、サバルトは努めていた。

「だろ? だから、ヘルグよりはましなんじゃないかと思うんだ。去年、グラテンへ出征(しゅっせい)する前に、皇帝がそいつの話を聞いてりゃなあ……」

 エドヴォンスはため息をつき、それ以上は言わなかった。

 サバルトには、その先に続く言葉がわかっていた。だが、もしもの話に意味などない。動かしようのない事実は、ただ一つ。いま、彼ら十五人は鉄籬堡の城壁に立ち、遠くのアイカド軍の大きな野営地(やえいち)と、ソーン川の南岸で松明(たいまつ)の灯るストムセを見つめている。

 天幕(てんまく)の中で、ファスビンダーはどこからか調達(ちょうたつ)してきた温かい麦粥(むぎがゆ)の椀(わん)を、デクラスの前の卓に置いた。

「閣下(かっか)、粥(かゆ)を食べたら、早めに休んでくださいよ」

 目の下の隈(くま)がますます目立つ主人を、ファスビンダーは見ていた。

「もう少し待つよ。今夜はここで寝るさ」

 デクラスはまだ地図を読み込んでいる。

「閣下、それは駄目ですよ! 指揮官用の宿舎が用意されているでしょう?」

「そう心配するな、ファスビンダー。サディスたちがまだ戻っていないんだ。私を捜して、ここへ来るかもしれないだろ」

 言い終えた途端、天幕の外で物音がした。入口の垂(た)れ布を片手で持ち上げ、鉄翎軍(てつれいぐん)の兵が一人、顔をのぞかせる。

「デクラス閣下? サディス閣下たちがお戻りです。来ていただきたいとのことです」

「ん? どこへ?」

 デクラスは一瞬、戸惑った。

「牢(ろう)です。閣下、こちらへ」

 そう言って、兵は入口で待つ。

 デクラスはすぐに外套(がいとう)を羽織(はお)り、出口へ向かいかけた。ファスビンダーもついて来ようとしている。

「ファスビンダー、お前は来なくていい。ここを片づけてくれ。それが済んだら、先に宿舎へ戻って待っていてくれ。あとで私も、そっちで寝るよ」

「えっ、閣下、ちょっと……」

 ファスビンダーは慌(あわ)ただしく去ってゆく主人の背を見送り、首を振ってから向き直り、天幕の中を片づけ始めた。

 ストムセの牢(ろう)は暗く湿り、腐ったものと黴(かび)の臭いがこもっていた。足を踏み入れた途端、嫌な記憶がデクラスの胸に押し寄せ、思わず身震(みぶる)いした。

 広めの尋問(じんもん)室に、サディスと数人の鉄翎軍(てつれいぐん)の兵が立っている。その前には、アイカドの大男が三人。上半身の衣服を剥(は)ぎ取られ、両手を天井から垂れた鉄の鎖(くさり)につながれたまま、血まみれの顔で吊(つ)られている。すでに一通り殴(なぐ)られたらしい。

 デクラスは鼻をつまんで尋問室に入った。サディスは相変わらず、硬い表情でこちらを見ている。

「閣下(かっか)、何をお聞きになりますか。こいつら、なかなか口を割りません」

 デクラスは目の前の三人をじっくりと見た。濃い髭(ひげ)。長く編まれた髪。顔には顔料(がんりょう)が塗られている。

「この三人、西大陸の言葉は話せるんだな?」

「話せます。先ほどまで悪態(あくたい)をついていました。ご心配なく」

 デクラスはもう一度、三人をよく見た。サディスの言うとおり、簡単には口を割らないらしい。一人は歯を何本も折られていた。

「お前たちの軍を率(ひき)いているのは、王族の誰だ?」

 ……。

「野営地(やえいち)には、井戸がいくつある?」

 ……。

 どうにもならず、デクラスはサディスと鉄翎軍の兵たちを振り返った。

「お前たち鉄翎軍のやり方で、何とかならないのか?」

 兵たちは首を横に振った。

「へえ。去年、私を殴ったときには、ずいぶんいろんな手を使ってくれたのにな……」

 デクラスは小声でぼやいた。

 聞こえたのだろう。サディスは少し気まずそうにうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「閣下、手足を切り落とすことならできます。ですが、死なせてしまっては、何も聞き出せません」

「ははははは! ぺっ!」

 アイカド人の一人が突然笑い出し、デクラスめがけて勢いよく唾(つば)を吐いた。デクラスはさっと身をかわす。

「腰抜けども、屑(くず)どもめ。俺たちアイカドの男が、手足を切られるのを怖がるとでも思ってるのか? ははははは!」

 男は不明瞭(ふめいりょう)な声で言い、血の泡を吐き散らす。北の獣のような獰猛(どうもう)な目で、デクラスをにらみ据えている。

「お前らの土地を奪い、女どもを犯(おか)してやる。お前らの首を杭(くい)に刺して、都へ続く道の両側に並べてやる! 烏(からす)についばませてやる! おおおっ!」

 男の表情は、デクラスには理解しがたいものだった。その咆哮(ほうこう)に、吊られた残りの二人も恐ろしい笑い声を上げ、続いて吠(ほ)え出す。

 デクラスの眼差(まなざ)しも鋭くなった。表情を変えず、三人の獣じみた吠え声がやむまで、ただ見つめていた。

「そうか、男の気概(きがい)というわけか。いいだろう。サディス殿(どの)、こいつらのあれを切り落として、血を止めてから野営地(やえいち)へ送り返してくれ」

 三人のアイカド人は、目を見開いて固まった。サディスも一瞬、呆気(あっけ)に取られた。デクラスの眼差(まなざ)しは鋭いまま、冗談を言っているようには見えない。やむなく、背後の兵たちに目配せする。

 兵たちは何とも答えず、誰も前に出ない。デクラスは振り返り、背後の鉄翎軍(てつれいぐん)を見据えた。

「ん? どうした。切るのが怖いのか?」

 兵の一人が口ごもる。

「いえ……閣下(かっか)……この剣では……」

「そうか。なら、小刀(こがたな)を探してこい。刃の鈍(にぶ)いやつをな」

「はっ、閣下!」

 兵はきっぱりと答え、踵(きびす)を返して小走りに出ていった。

 デクラスは再び、三人のアイカド人を見る。

「話すか?」

「お前ら……南の腰抜けども……」

「そうか、そうか。なら、待っていろ」

 ほどなく、兵がどこからか小刀を見つけて戻ってきた。デクラスが受け取って刃を見ると、何か所か欠けている。小刀を持ち上げ、欠けた刃を三人に見せつけてから、その兵に返した。

「話すか?」

「お、お前に……そんなことができるものか……」

「まず、隣のこいつのズボンを脱がせろ」

 デクラスが命じると、鉄翎軍の兵が二人進み出て、口を割らない男の隣にいるアイカド人のズボンを手早く脱がせた。二人の俘虜(ふりょ)は何度か目を見合わせる。ズボンを脱がされた男の目には、すでに怯(おび)えの色が浮かんでいた。

「大丈夫だ。こいつらにできるものか」

 口を割らない男は、なおも仲間を安心させようとしていた。

「切れ!」

 デクラスはとうとう、怒気(どき)を帯びた声で怒鳴った。鉄翎軍の兵が一人、鈍い小刀で、ズボンを脱がされた男の股間(こかん)を切り始める。たちまち、凄(すさ)まじい絶叫(ぜっきょう)が牢(ろう)全体を満たした。口を割らなかった男は、隣の仲間の惨状(さんじょう)を見つめていた。次第に顔を歪(ゆが)め、複雑な表情を浮かべてゆく。

 ほどなく、ぼろぼろになった肉の塊(かたまり)が床に落ちた。切られた男は気を失っていた。

「教廷国(きょうていこく)の者に言って、聖職者(せいしょくしゃ)を一人呼んでこい。こいつの血を止めさせろ」

 デクラスが命じる。

「はっ!」

 別の兵が牢を駆け出していった。

 デクラスは進み出て、口を割らずにいる男に顔を寄せた。硬い表情のまま、歯の間から言葉を絞り出す。

「話すか?」

 男の顎(あご)の筋肉が盛り上がっている。歯の欠けたところから血の泡がぶくぶくとあふれ、髭(ひげ)へ流れ落ちる。目は大きく見開いたまま、ひと言も発しない。

「切れ!」

 二人の兵が男のズボンを脱がせ、鈍い刃がその股間に押し当てられた。

「話す! 話す! 話すから!」

 デクラスは口の端をわずかに上げ、二歩下がった。

「よし。話すならそれでいい。野営地には、井戸が全部でいくつある?」

「三十」

「切れ!」

「三つ! 井戸は三つだ!」

「軍を率いている王族は誰だ?」

「それは……王太子(おうたいし)殿下だ」

「軍糧(ぐんりょう)は、あとどれくらいもつ?」

「三か月ほど」

「切れ!」

「本当に三か月だ! 本当に三か月なんだ! 嘘じゃない!」

「兵はあと何人いる?」

「二万もいない……」

 男はとうとう、がっくりとうなだれた。獣が、従順(じゅうじゅん)な家畜(かちく)に戻ったかのようだった。

 欲しかった情報はすべて手に入った。デクラスはサディスを振り返る。

「サディス殿、聞きたいことはもうない。この三人の処置は任せる。私は先に休む」

「はっ、閣下。我々で処置いたします」

 アイカドの言葉が交じる罵声(ばせい)と呪(のろ)いの言葉が、背後から聞こえてくる。デクラスは振り返らず、落ち着いた足取りで一人、牢を出た。

 宿舎(しゅくしゃ)へ向かって数十歩進み、振り返って背後を確かめる。誰もついてきていない。とたん、壁に手をつき、体を預けた。両脚が震える。口と鼻から、帝国北部の涼しい夜風を荒く吸い込んでいた。

 その夜、ファスビンダーもよく眠れなかった。主人は一晩じゅう、悪夢を見ていたようだった……。

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