北方戦争編 第十六話 任命
「馬鹿者め! ヘルグの馬鹿者め!」
参謀院の会議室で、タイラル伯爵は急報を卓に叩きつけた。歯を食いしばり、額に青筋を浮かべ、卓上を睨みつけている。デクラスは、伯爵がこれほど激しく怒るのを見たことがなかった。
誰も、何と言ってなだめればよいのかわからない。事態は、誰の予想をも超えてしまっていた。
「教廷国のあの能なしどもなど、どうにか懐柔すれば済んだのだ。手はいくらでもあったろうに、わざわざ首を斬りおって! その挙げ句、自分まで殴られて怪我をしたではないか!」
タイラルは指で卓を強く叩きつづける。
「伯爵閣下、どうか落ち着いてください。起きてしまったことですから……」
デクラスも眉をひそめ、激昂する伯爵をなだめようとした。教廷国の兵と帝国兵の間に不和が生じることは、考えていたかもしれない。だが、こんな結果を招くとは思いもしなかった。
「どうするのだ。今や前線の指揮系統は混乱しきっている。アイカドの連中にこれを知られて、不意に攻め込まれたらどうする!」
タイラルが問い詰める。
「閣下、まずはすぐに教廷国へ書状を送り、事情を説明して理解を求めるべきだと思います。新しい指揮官については、改めて候補の名簿を作ればよいでしょう」
タイラルはどさりと椅子に腰を下ろした。眉根は固く寄せたままだが、もう声を荒らげてはいない。伯爵も、後任の指揮官を誰にするか考え始めた。
「なあ、デクラス卿。レヴィン子爵を指揮官として送ってはどうか?」
「そうですね。才はありますが、まだ若い。これまで一部隊の指揮しか執ったことがなく、全軍を統べた経験はありません」
デクラスは少し考えてから答えた。
「では、ロベッツ伯爵は?」
「戦には強いですが、向こう見ずです。守城戦には、あまり向かないでしょう」
「はあ……どこにそんな非の打ちどころのない指揮官がいる。有能な者は去年、みな始末されてしまった」
タイラルが愚痴をこぼした。
「閣下、焦らずに。私が慎重に考えすぎていたのかもしれません。今の状況なら、誰かが現地の混乱を収め、数か月持ちこたえればいい。ですから、レヴィン子爵でもロベッツ伯爵でも、城を固く守って出撃せずにいられるなら、任せられるかもしれません」
デクラスはそこでひと呼吸置き、言葉を継いだ。
「閣下、いっそ新たに人を送らず、現地のサディス卿に指揮を引き継がせてはどうでしょう。鉄翎軍の指揮官なのですから、力量はあるでしょう。人を送り込む手間も省けますし、余計な波乱を招かずに済みます」
タイラルは、ふんと鼻を鳴らした。
「あの男か? 指揮の才は多少あるかもしれん。だが、鉄翎軍のあの尊大さで、教廷国の連中をなだめられると思うか? 容易なことではあるまい」
「ええ。ただ、陛下が直接、懐柔策を取るようお命じになれば、彼にもできないことはないと思います」
二人は、そのまま長く黙り込んだ。どれほどの時が過ぎただろう。先に口を開いたのは、タイラル伯爵だった。
「こうしよう、デクラス卿。今挙がった者を全員、名簿にまとめるよう皆に言ってくれ。明日、皇帝に決めていただこう。私も卿も、もうここで頭を悩ませるのはやめよう」
「はい、閣下」
タイラル伯爵は憤然と席を立ち、そのまま部屋を出ていった。デクラスは参謀院の執務室に入り、同僚たちとともに、後任の指揮官の候補者名簿を作り始めた。
翌日、玉座の間での会議。
意外にも、アデリウス四世はヘルグ伯爵が殴られて重傷を負ったと聞いても、怒りを見せなかった。タイラル伯爵もデクラスも、いくらか気が楽になった。
「陛下、こちらは参謀院でまとめた、ヘルグ伯爵の後任の候補者名簿でございます。お目通しのうえ、ご裁定をお願いいたします」
タイラルが両手で名簿を内侍官に差し出すと、内侍官は階段を上がり、アデリウス四世に渡した。皇帝は名簿を開いてちらりと目をやっただけで、宰相ゴドフリーへ放り投げる。
「ゴドフリー卿、そなたらで話し合ってはどうだ?」
アデリウス四世の声は落ち着いていた。黄金の王座に斜めに身を預け、いかにも退屈そうにしている。
ゴドフリーは名簿を開いて確かめ、群臣にも回した。それから、長い議論が始まった。
アデリウス四世は欠伸をし、片手で頬を支えると、目を閉じてうとうとし始める。ゴドフリーと群臣がようやく話し合いを終えたころには、もう規則正しい寝息を立てていた。
「おや、これは……」
結論を奏上しようとしたゴドフリーは、皇帝が眠っていることに気づいた。起こすのもはばかられ、その傍らに立って黙って待つしかない。
高い壁の窓から差し込む陽の光が、わずかに角度を変えていた。しばらくして、皇帝の頭が、頬を支えていた手からかくりと滑り落ちる。ようやく目を覚ましたアデリウス四世は、薄く目を開けて玉座の間の中央を見た。
「陛下……先ほど、話し合いを終えました」
ゴドフリーが報告した。
「ん? ああ、そうだった……指揮官の人選だったな。申してみよ」
アデリウス四世には、まだ眠気が残っている。
「陛下、ロベッツ伯爵なら、能力も経験も十分でございます。城を固く守り、出撃せぬようお命じになれば、前線の指揮官を十分に務められると、私どもは考えております」
ゴドフリーはゆっくりと言った。
「うむ、あれは駄目だ……」
アデリウス四世はまた欠伸をした。
「では……南部国境を守るノリス伯爵を向かわせてはいかがでしょう。長年、グラテンとの国境付近を守っており、守りの戦には長けております」
ゴドフリーが二人目の候補を挙げた。
「いや、いや。あれも駄目だ。北西の前線へやってしまえば、南を守る者がおらぬではないか。偽国のあの小僧どもに、またつけ入る隙を与えることになろう?」
重ねて退けられ、ゴドフリーも困り果てた。
「では……陛下は、どなたをお考えでしょうか」
皇帝は眠たげな目をどうにか開け、右手を無造作に持ち上げた。手首をくいと返し、群臣の中を指す。
「デクラス卿」
デクラスはぎくりとした。呼び出しに応じるよりなく、列を離れて玉座の間の中央へ進み出た。
「陛下」
「教廷国に援軍を求めようと提案したのは卿であったな。こうして厄介事が起きたのだから、卿が自ら片づけにゆくのが筋ではないか?」
タイラルは目を見開き、はっとデクラスのほうを振り向いた。群臣も一斉に、この参謀院の次席を見つめている。
「恐れながら、陛下。それは、兵同士の対立を収めるために私を遣わされるということでしょうか。それとも、指揮権を引き継げとの仰せでしょうか」
デクラスは慎重な口調で確かめた。答えは、すでに察している。
「卿にはそれほどの才があるのだから、もちろん、前線で指揮を引き継いでもらうのだよ」
アデリウス四世は、何でもない提案をするように、ゆっくりと言った。
「陛下、私は身分も低く、戦場に出たこともございません。私が指揮を執っては、将兵が従わぬのではないかと存じます」
アデリウス四世は頬を何度か手でこすり、少し身を起こした。眠気がいくらか薄れたようだ。
「構わぬ。余が直筆の命令書を与えよう。それをサディスに持ってゆけば、そなたの指揮権を疑う者などおらぬ。誰か、紙とペンを持て」
ほどなく、内侍官が金めっきの盆を運んできた。上にはペンとインク、紙が揃えてある。アデリウス四世はペンを取り、紙にさっと書きつけると、内侍官に目配せしてデクラスへ届けさせた。
デクラスは紙を受け取って目を落とした。傲慢なまでに奔放な筆跡で、こうあった。
『余はデクラスに指揮の全権を委ねる。そなたは全力をもってこれに仕えよ。デクラスに従わぬ者あらば、殺せ。』
デクラスはかすかに震える両手で、その命令書を恭しく巻き、礼服の内ポケットへしまった。
「おお、そうだ。帝国の才人が自ら指揮を執るのだから、少しは難しくしてやらねばな」
アデリウス四世は、また指で小鼻をこすった。
デクラスは顔を上げられない。うつむいたまま、目だけを上げて皇帝を凝視している。
「卿は今日、出立せよ。二か月以内に、この戦に勝て。勝てぬなら、戻ることは許さぬ」
アデリウス四世は、事もなげにそう言った。
群臣は再び驚きの目で皇帝を見つめ、次いでデクラスへ目を向けた。デクラスは内心、激しく動揺している。こんな事態は、これまでの想定のどこにもなかった。
「陛下! アイカド軍の海上の糧道は、すでに断たれております。これ以上戦わずとも、守りに徹すれば、遅くとも秋までにはアイカド軍は必ず退き、勝利は帝国のものとなります。それなのに、なぜ私に、二か月以内に勝てとお命じになるのですか。どうかお聞かせください」
デクラスは語気を抑え、聞きたかったことを正面から問いただした。玉座の間は、静まり返っている。
アデリウス四世は悠然としていた。面と向かって問いただされても、怒る気配はない。ただ口の端をわずかに上げている。その笑みの意味は、読み取れない。
「秋まで粘るだと? 何を言っておる。我が帝国にも、箔がつくような見事な勝利が一つは要るではないか。よし、午後には発ってもらおうか。ゴドフリー卿を凱旋門で待たせておく」
デクラスは背中に回した両手を固く握りしめた。爪が掌の肉に食い込まんばかりだ。しばらく堪えた末、歯の間からようやく言葉を絞り出した。
「はい、陛下」
玉座の間での会議が終わると、デクラスは群臣のさまざまな視線を浴びながら、大股で出ていった。タイラル伯爵にも構わず、まっすぐ家へ帰った。
「ファスビンダー! 急いで荷をまとめてくれ。午後には出発する」
「閣下、どこへ行くんですか?」
「ストムセ。北西の前線だ」
それを聞くと、ファスビンダーはそれ以上何も尋ねず、手早く荷をまとめ始めた。
午後、荷造りを終えて、いざ出発しようとしたところで、玄関の扉を叩く音がした。ファスビンダーが出てみると、戸口にはタイラル伯爵が立っている。
「ご主人と少し話がしたい」
デクラスは硬い表情のままタイラル伯爵を迎え入れた。二人は一階の客間の椅子に腰を下ろす。
「伯爵閣下、狭い家でお恥ずかしい。ご用は何でしょうか」
タイラルは、目の前の、三十を少し過ぎた若い部下を見て、ため息をついた。
「はあ……卿はわかっているか。今日、皇帝がなぜ卿に前線へ行けと命じたのか」
「だいたいは、わかっています」
「ほう? では、聞かせてくれ」
「皇帝は、他人の手で私を殺すつもりです。我が軍が城を出て野戦に臨めるはずもないとわかっていながら、私に二か月以内に兵を率いて決戦を挑めと命じる。アイカド人に私を始末させたいのです。なぜそこまでして私を殺したいのかは、わかりませんが」
デクラスは再び拳を握りしめた。その言葉に、傍らのファスビンダーは愕然とした顔を見せたが、すぐに不安の色が浮かぶ。
「デクラス、卿の言うとおりだ。だが、もう一歩深く考えてみたらどうだ」
タイラルは低い声で言った。
「閣下、どういう意味ですか。はっきり言ってもらえませんか」
タイラルは、いささか頭に血が上っている若い俊才を見つめ、もう一度ため息をついた。それから、ゆっくりと口を開く。
「私が思うに、皇帝は、卿が自分の対局相手にふさわしいかどうかを見たいのだ」
デクラスは一瞬、呆気に取られた。
「伯爵閣下、どういうことですか」
タイラルは答える代わりに、問いを重ねた。
「デクラス。今の皇帝を、卿はどのような人物だと思う?」
これには、デクラスもすぐには答えられない。顎をつまみ、長いこと考えてから言った。
「閣下、正直に言えば、陛下という方は、私にはつかみきれません。猜疑心が強く、残忍です。ですが、国を治める力のない暗君などでは、決してありません」
その答えに、タイラルは軽くうなずき、話を続けた。
「今の陛下が即位されたのは、帝国暦442年だ。この十八年、経済は空前の繁栄を遂げ、帝国は強大な国力を誇るに至った。去年、ヤラで敗れたのは確かだ。卿の進言を容れなかったにせよ、あの戦いの勝敗は紙一重だった。それは私も卿も知っている。結局敗れはしたが、その責めは皇帝にはない。だが、戦死と粛清で、帝国は有能な者を大勢失った。そんな中で、卿が頭角を現したのだ。皇帝も、ほかの誰もが、卿の才を目にした。だから私は、皇帝が一局の勝負を仕掛け、卿が自分と対局できるかどうか見ようとしているのではないかと思う」
タイラルは椅子の上でかすかに身を揺らしながら、窓の外を眺めていた。デクラスが口を開きかけると、手を差し出し、下へ軽く押すような仕草でそれを制した。ひと呼吸置いて、再び口を開く。
「今日の一局は、どう転んでも皇帝が勝つ。卿に与えた期限は二か月。卿が兵を動かさなければ、帝国は消耗戦で勝つ。皇帝は卿を殺す。卿が兵を率いて出撃し、アイカド人に殺されれば、皇帝は新たに訓練した兵団を送り、また消耗戦を続ける。やはり帝国は勝つ。この一局がどう進もうと、皇帝の勝ちは揺るがない。それはもう、決まっているのだ」
「では、私はどうすれば……」
「最後まで聞け!」
デクラスは言いかけた言葉をのみ込み、黙って話の続きを聞く。
「この十数年、陛下は群臣に対して、気分一つで態度を変えてきた。殺したい者を、殺したいときに殺してきた。だが、陛下も退屈することはないだろうか? 自分と対局できる相手が欲しくなることも、あるのではないか? モドレイか? 相手にはならぬ。ゴドフリーか? なおさらだ。今日、陛下はまた卿に賭けた。それでも、ただ卿を殺したいだけだと思うか? なら、なぜあのとき卿を地下牢から出した? なぜ官位も爵位も上げた?」
「閣下……つまり、陛下は……」
「こうは考えられぬか。皇帝は卿の才を買っている。だが、それが本物かどうかも試したい。卿が自分と対局できる相手なのか、殺したくても殺せぬ相手なのかを、見極めようとしているのではないか?」
デクラスは長いこと考え込んでいた。傍らのファスビンダーまで、思案に暮れているようだ。タイラルは急かさず、何も言わない。ただ、目の前で眉間に皺を寄せ、先ほどの話を考え続けるデクラスを見ている。十五分ほどたって、デクラスはようやく顔を上げた。
「伯爵閣下、至らぬ私に、どうかお教えください。今、私はどうすればよいのでしょうか」
タイラルは小さく二度笑い、額の皺を緩めた。
「私には、卿ほど軍略の才はない。だが、皇帝が何より望んでいるのは、皇帝自身も卿も勝つことに違いない。だから肝心なのは、この一局で卿がどうすれば負けずに済むかだ」
「それは私もわかっています。生き延びるには、この二か月で戦に勝つしかない。ですが、そんなことが可能でしょうか。私でさえ、何一つ策が浮かびません。そんな策があるなら、とっくに勝っていたはずです」
タイラルはデクラスの目をまっすぐに見つめた。乱れた前髪の下、その双眸には焦りが浮かび、かすかな光が宿っている。
「デクラス、卿と、軍を率いるあの将たちとの違いがわかるか?」
デクラスに反応はない。
「これまで卿が立ててきた策は、どれも実に巧みだった。だが、どれも他人のことを考えすぎている。私には、あの策の一つひとつに、卿の善良さや慈悲、民や兵の命を大切に思う心が見える。だが、卿の軍略の才を縛っているのは、まさにそれなのだ。そして、あの皇帝陛下が何よりも弄びたいのも、その心なのかもしれぬ。デクラス、生き延びたいのなら、もっと大きな勝負に加わりたいのなら、しばらくは慈悲も良心も、その一部を捨てるべきなのかもしれぬ。もっと自分のことを考えるのだ」
タイラルは立ち上がり、デクラスの目から視線を外した。
「覚えておけ。善人には、何ひとつ変えられぬ」
そのまま戸口へ向かい、扉を開ける。まだ客間に呆然と座っているデクラスに、ひと言。
「酒宴を用意して、卿の凱旋を待っていよう」
五月末の午後。陽射しを浴びた大地には、もう乾いた熱気がうっすらと漂っていた。二頭の馬がリンドヒルの西門を出て、帝国の北西へと続く道を進んでゆく……。




