北方戦争編 第十五話 亀裂
鉄籬堡の城壁の下で、サバルトは第二連隊のほかの兵たちと、積まれた石材と練った泥を前に休んでいた。腰に下げた革の水袋を手に取り、栓を抜いて何口か飲む。栓を戻すと、少し離れたところにいるエドヴォンスへ放った。
あの激戦から、ひと月半が過ぎていた。第二団の兵力不足を補うため、重歩兵第一団と第二団は一時的に統合され、あらためて二手に分かれて、鉄籬堡とストムセの守備を交代で受け持っていた。
エドヴォンスは水を二口あおる。北の晩春はまだ暑くはないが、陽射しはしだいにきつくなっている。雲ひとつない空の下、城壁を直す兵たちに、陽が頭上からまっすぐ照りつける。
「サバ、あのアイカドの連中、攻めても来ねえし、引き揚げもしねえ。いったい何やってんだ?」
「さあな。でも、これでいいじゃないか。こっちに騎兵がいるとわかって、もう嫌がらせにも出てこられないんだ。このまま、戦が終わるまでやり過ごせればいいさ」
サバルトは目を閉じ、顔を上げた。顔全体に、陽が当たる。
「はあ……」
エドヴォンスは長く息を吐き、そのまま後ろの石材にもたれかかった。
「運がよかったって言うべきなのかね。あの戦いのとき、鉄籬堡を守る番だったのが、俺たちじゃなくて」
サバルトは何も答えなかった。ほかの者たちも。
「休憩は終わりだ! さっさと働け! 終わったらストムセへ戻るぞ!」
第二連隊の指揮官が叫んだ。
サバルトもエドヴォンスも、ほかの兵たちも、しぶしぶ立ち上がり、城壁の修復作業に戻った。
夕刻、ストムセへ戻る数百人の一行は、途中、入れ替わりに鉄籬堡へ向かう兵たちとすれ違った。サバルトは、数か月前、初めて交代したときのことを思い出した。重い鎧をまとって、河原を死にもの狂いで走った。今はただ、ゆっくり歩いてゆけばいい。アイカド兵も、橋を奪いに来ることも、襲撃を仕掛けることもなくなった。遠くにあの大きな野営地が見えていなければ、平時のありふれた守備交代と何も変わらない。
ストムセの北門を無事にくぐった途端、激しい怒号が耳を打った。門の内側には教廷国の志願歩兵が数百人も集まり、大声でわめいている。
「なぜこっちから攻めない!」
「俺たちは異教徒を殺しに来たんだ! 帝国のために城を守りに来たんじゃない!」
「そうだ! 俺たちを出せ! 攻めさせろ!」
ストムセの軽歩兵団は城門を塞ぐように隊列を組み、どうにか秩序を保とうとしていた。指揮官らしい人物が、教廷国の志願兵たちに命令に従うよう、懸命に声を張り上げている。
サバルトたちはどうにか軽歩兵の列をすり抜けた。エドヴォンスが両手で耳を塞ぐ。
「ああ……また始まった。うるせえな、こいつら。毎日毎日、わめきやがって」
サバルトは振り返り、道の両側にひしめく志願兵たちを見た。着ているものは粗末で、持っている武器もてんでばらばらだ。制式の剣や盾もあれば、稲を刈る鎌や薪を割る鉈まである。
烏合の衆だ。こんな連中が出ていってアイカド兵を攻めるなんて、身の程知らずにもほどがある。
サバルトは、やれやれと首を振った。
少し進むと、ヘルグ伯爵が困り果てた様子で、数人の衛兵とともに、あの金髪の聖騎士の指揮官のあとを追ってきた。サバルトたちとすれ違いざま、伯爵の大声が聞こえた。
「閣下! どうにかしてください!」
張り上げた声には、懇願がにじんでいた。
「だから、今から城門へ行って、騒ぎを鎮めようとしているんじゃないか」
聖騎士の指揮官は、苛立たしげに答えた。
「せめて部下を抑えていただきたい。こんな騒ぎは、もう何度目ですか!」
「言ったはずだ。あれは臨時に集めた志願兵だ。私の部下ではないし、私にも指揮はできん!」
「またこんな騒ぎを起こすなら、軍法で処罰するしかありません!」
ヘルグは怒りをにじませて警告した。
「やれるものならやってみろ! 女神の信徒に手を出してみろ!」
二人はそのまま、通りで激しく言い争い始めた。サバルトはもう振り返らず、前を向いて駐屯地へ歩きつづけた。
兵舎の中は、前よりずっと空いていた。藁の上を右へ左へ転がっても、ほかの兵にぶつからない。サバルトたちの寝泊まりも、急にいくらか楽になっていた。アイカド兵がもううかつに襲ってこられなくなり、ストムセでも夜の見張りに割く人数がかなり減っている。今夜の夜番は第一連隊。第二連隊の兵たちは、久しぶりに休める。
「おい、行こうぜ。ちょっと外でもぶらつかねえか」
エドヴォンスがサバルトとほかの数人を誘った。サバルトたちは顔を見合わせ、それから起き上がって、一緒に兵舎を出た。
狭い通りには、灯がまばらにともっている。数か月前に北部国境から退いてきた住民の多くは、さらに南へと移り、城内も以前ほど混み合ってはいない。教廷国から派遣された四百人の聖騎士には、比較的よい宿舎があてがわれていた。一方、集められた千人余りの志願兵に割り当てられたのは、穀倉や貨物倉といった倉庫ばかりだ。
サバルトたちは、あてもなく通りを歩いてゆく。女神教の印をつけた志願兵たちが、あちらこちらで地面に座り、携帯食をかじっている。だが、酒場の中にはその姿がまるでない。時おり、光り輝く上等な鎧をまとった鉄翎軍の兵が二、三人、通りを行く。規律は厳しく、顔にはいつも高慢な表情が張りついている。生きた人間というより、どれも石像のようだ。
銀白の月明かりが星々をかき消し、城内の路地という路地に降り注いでいた。酒の匂いをたどって、サバルトたちは路地にある酒を出す半露天の屋台に行き着き、空いている卓についた。
「エド、飲みすぎるなよ。ちょっと味わうくらいにしとけ」
サバルトが念を押す。
「心配すんな、サバ。わかってるって」
何杯かの麦酒と、ごくありふれた塩ゆでの肉を頼むと、ほどなく店の者が肉の大皿と陶器の杯を運んできた。それぞれ肉を一切れ手に取り、細く裂いて口へ放り込み、酒をあおる。笑いながら、取りとめもなく話す。戦が終わって帝都へ帰ったら何をするか、話が弾んでいたところへ、横から突然、声が割り込んだ。
「ほう、俺たちに助けを求めるわけだ。帝国の兵は敵を討つことも考えず、戦が終わったあとの自分の欲ばかり。低俗な連中なんだな」
声のほうへ振り向くと、教廷国の志願兵が五人、一卓を囲んでいた。酒は飲んでいない。卓の上には、こちらと同じように、ゆでた肉の大皿がある。
エドヴォンスが言い返しかけたところを、サバルトともう一人の兵が軽く叩いて止めた。エドヴォンスは、出かかった言葉を飲み込むしかなかった。
「なんだ、帝国の兵には言い返す度胸もないのか? どうりで、俺たちと城の外へ出て敵を討つ勇気もないわけだ」
志願兵はなおも言い募り、同じ卓の仲間たちもせせら笑う。
「ええ、まったく。俺たちじゃ、教廷国からいらした援軍の皆様ほどの度胸はありませんよ」
とうとう我慢できず、エドヴォンスが皮肉を返した。
だが、皮肉に気づかなかったのか、それとも、すっかり自分に酔っていたのか。男はエドヴォンスやサバルトたちをまじまじと見て、こう言った。
「お前たち、ずいぶん若いな。戦場に出るのは初めてか?」
サバルトたちは顔を見合わせ、危うく吹き出しかけた。たしかに、今は誰も鎧を着ていない。ただの若者が一卓を囲んでいるようにしか見えないだろう。もう一度、互いに目配せをする。もう少しからかってやれ。エドヴォンスにはすぐに通じた。
「さすが、よくおわかりで。俺たち、みんな初陣なんです。怖くて仕方なくて。何か心得でも教えてもらえませんか?」
サバルトは顔を背けた。笑いをこらえているのを、男に見られたくなかった。
男はいよいよ得意になり、顎を上げてエドヴォンスを横目で見る。
「徴集兵か? 軽歩兵だろう?」
「ええ、そのとおりです。よくおわかりですね。俺たち、畑仕事をしていたところを引っ張ってこられたんです。ほら、こいつの家はカボチャを作ってまして」
エドヴォンスがサバルトを指さす。笑いをこらえるのが苦しくて、サバルトの肩が震え始めた。続いて、エドヴォンスは別の一人を適当に指した。
「こいつの家は桃を。ご覧のとおり、みんな農民なんです」
指された兵は麦酒をぐいとあおり、顔を伏せて、そっと自分の太腿を叩いている。
得意げな志願兵は、もう一度、一同を品定めするように眺めた。
「農民だって構わんさ。俺も農民だ。戦なんてものは、そう難しくない。肝心なのは、いつでも心に女神への信仰を持つことだ! 女神のためなら、いつでもすべてを投げ出す覚悟がなくてはならん! たとえば、何年か前に俺が山賊退治に加わったときの話だが……」
男はそのまま、自分の経験した「戦」を、とうとうと語り始めた。サバルトたちはそろって戸惑い、真面目に聞いているふりを続けるほかない。
この人、酒も飲んでないのに、どうして酔っ払いみたいなんだ。
サバルトがそんなことを考えている間も、エドヴォンスは時おり口を挟み、男を持ち上げていた。
皆が話に聞き入っていると、すぐそばで、また別の声が突然響いた。
「お前ら、何をやってる!」
一同は振り向くなり、さっと立ち上がって背筋を伸ばした。
「隊長殿、志願兵の兄さんに、戦のやり方を教わっております!」
第二連隊の指揮官は、すっかり面食らった。教廷国の志願兵たちの卓を見、それからまた部下たちの卓へ目を戻す。何と言えばいいのか、すぐには言葉が出てこない。
一方、エドヴォンスたちは、指揮官も鎧を着ておらず、身軽な服装なのに気づいた。そろって取り囲み、卓へ引っ張ってゆく。
「隊長殿もお休みですか? まあ一杯。一緒に飲みましょうよ」
指揮官は訳もわからぬまま席につかされ、兵の一人が店の者に麦酒をもう一杯頼んだ。話を遮られた志願兵は、少し不満そうに指揮官を横目で見た。
「お前が、こいつらの軽歩兵隊の指揮官か? その様子じゃ、戦が始まる前は、お前も農民だったんだろう?」
「は? 俺が? 何を言って……」
指揮官が答えかけたところで、
「隊長殿、しっ。黙って聞いてやってください、あいつの自慢話を」
エドヴォンスたちは慌てて、指揮官に向かってこっそり唇に指を当てた。
指揮官はむっとしたまま、大皿の肉を一切れ取ってかじり、続けて麦酒を飲んだ。男の話が大げさになるほど、指揮官の顔はいよいよ険しくなる。
やっと自慢話が終わると、男は残る四人と勘定を済ませ、席を立った。帰り際に、サバルトたちへもうひと言。
「忘れるな! 信仰を持て! いつでも女神に身を捧げる覚悟をしておけ! そうすれば女神がお前たちを守ってくださる!」
エドヴォンスは胸の前で祈りのしぐさをし、五人に大声で呼びかけた。
「女神のご加護を!」
五人が遠ざかって、ようやく皆がどっと笑った。サバルトは涙まで流している。
指揮官の手のひらが、エドヴォンスの頭をぱんと叩いた。
「お前ら、俺たちはもう勝ったのか? ああ? そんなに気を抜いてどうする!」
「隊長殿、ちょっと教えてくださいよ。アイカドの連中、このところ何もしてこないでしょう。もう戦が終わるんですか?」
一人が酒の勢いを借りて、親しげに尋ねた。
指揮官はその兵を横目で見て、酒を一口飲んだ。
「わかった、わかった。さっき作戦会議が終わったところでな。確かに、いい知らせはある」
皆が一斉に身を寄せ、続きを待つ。指揮官は少し間を置いた。
「帝都からの知らせでは、海軍がアイカドへ食糧を運ぶ海路を見つけたそうだ。これから船の検査を厳しくする。アイカドの連中も、もうじき食糧が尽きるぞ」
「じゃあ、あいつらが攻めてこられないなら、このまま引き延ばせば、もうすぐ退いていくってことですか?」
一人が少し興奮した様子で尋ねた。
「そういうことだろうな。だが、お前ら! 油断するな。戦はまだ終わってないんだぞ」
「はっ、隊長殿!」
座はしだいに賑やかになり、兵たちが代わる代わる酒を勧めるうち、第二連隊の指揮官も、初めの堅苦しい態度を崩していった。結局、エドヴォンスたちに飲まされ、先にすっかり酔ってしまったのは指揮官のほうだった。
だが、数日もたたぬうちに、事態は急変した。その日は第二連隊が北の城壁の見張りに当たっていた。下から騒ぐ声がする。気になってサバルトが見下ろすと、大勢の軽歩兵が数人の者を引き立て、北門へ向かってくる。数人の聖騎士に率いられた教廷国の志願兵の大群が、その列のすぐ後ろをついてきて、軽歩兵との押し合いにまでなっている。
軽歩兵たちは、捕らえた者たちを北門の内側の開けた場所へ引き立てると、すばやく道の交わるところに一列に並び、道を塞いだ。指揮官か参謀らしい身なりの男が、膝をつかされた者たちの前に立ち、後ろの群衆を振り返って叫ぶ。
「この者たちは、幾度となく軍令に背き、志願兵を煽り立て、これを率いて城門に押しかけた! 軍紀を著しく乱し、兵たちを動揺させた! ヘルグ伯爵の命により、この者たちを斬首に処す!」
男は聖騎士や志願兵たちの抗議と罵声を意に介さず、処刑人たちに執行を命じる。
刃が振り下ろされる。首が地に落ちる。
怒り狂った志願兵たちが、軽歩兵の警戒線に殺到する。群衆に揉まれながら、数人の聖騎士が叫んでいる。
「武器を使うな! 絶対に武器を使うな!」
騒ぎを聞きつけた鉄翎軍の兵が数人、駆けつけ、乱闘する群衆の中へ割って入る。力ずくで、両者を引き離そうとしている。
サバルトもほかの重歩兵たちも、城壁の上に立ったまま、呆然とそれを見ていた。
「なあ……俺たち、手を貸しに行ったほうがいいのか?」
サバルトは下を指さし、そばの兵たちに尋ねた。誰も返事をせず、下の騒ぎを見ている。
「見張りを怠るな!」
第二連隊の指揮官が、城壁の上で一喝した。
皆が一斉に城外へ向き直った。サバルトは時おり後ろを振り返る。あの数人の聖騎士が、大勢を引き連れ、城内のヘルグ伯爵の指揮所のあるほうへと押し寄せてゆくのが見えた……。




