北方戦争編 第十四話 一息
「陛下は、ずいぶんご機嫌でしたね」
デクラスとタイラル伯爵は石の階段を下り、ゆっくりと内城の南門へ向かった。昨日届いた戦報がアデリウス四世を大いに喜ばせ、今日の玉座の間には、ようやくくつろいだ空気が流れていた。
「それはそうだろう。アイカド軍の攻撃を退けて、敵を九千も討ち取った。こちらの損害は千余りだ。ご機嫌にならぬはずがないさ」
タイラル伯爵は、笑みを浮かべて歩きながら言った。
内城の外は、春の盛り。ルキウス大通りの両側に植えられた桜が咲き競い、そよ風に散った数枚の花びらが宙を舞っている。通りは行き交う人々で賑わい、春を前に塗り直された店の看板が、陽射しの下で鮮やかな色を見せている。カジノの隣のホテルには、さまざまな身なりの客が出入りする。金持ちたちもようやく金貨や銀貨を持ち出し、豪華な品々が並ぶ店を渡り歩いている。
「デクラス卿、少し一緒に歩かんか?」
「ええ。伯爵閣下も、今日はずいぶんご機嫌ですね」
二人は両手を後ろで組み、言葉を交わしながら、遠くのルキウス像へ向かってぶらぶらと歩いていった。
「卿、戦はまだ終わっておらんが、これで我々の勝ちと言ってよいのではないかね?」
「ええ、閣下。私もそう言いたいところですが、アイカド軍はまだ兵を退いていません」
「退かずとも、このまま膠着が続くだけだろう。もう、まともな攻勢をかける度胸もあるまいよ」
「そうですね。もう城を攻めることもなく、糧秣が尽きて引き揚げてくれる。それがいちばんです。それなら、誰も苦労せずに済みます。ただ、どうも……」
「ほう。卿は、まだ何か気になるのかね?」
「戦いの前に兵を補充したばかりの第二団が、大きな損害を受けました。第一団も三分の一を失っています。聖騎士は戦力になりますが、籠城戦ではその力を十分に生かせません。教廷国の志願兵千数百人に至っては、とても頼りにはできません。閣下、何か飲みますか?」
デクラスは、道端の飲み物の屋台を指さした。
「ふふふ、私は遠慮しておくよ。ああいうものは、卿たち若い者が飲むものだ」
タイラルは微笑みながら手を振った。
「では、少し待っていてください」
デクラスが屋台でフルーツティーを一杯頼むと、店主は色鮮やかな飲み物を、薄い木でできたカップへ注いだ。代金を渡し、カップを手にタイラルの隣へ戻る。甘いフルーツティーをひと口飲んで唇を鳴らし、また二人で歩きながら話を続ける。
「どこまで話しましたっけ。ああ、こちらもかなり兵を失ったという話でしたね。アイカド軍が最後に、死に物狂いで打って出ないとも限りません」
「卿は、そうすると思うかね?」
「何とも言えません。閣下がアイカド軍の総帥だったら、どうします? 国を挙げて半年も戦い、ほとんど戦果がない。それで、そのまま兵を退きますか?」
通り沿いの家々の間に、小さな庭園があった。タイラル伯爵はそこへ入り、長椅子を見つけて腰を下ろすと、年寄りらしく、少し喘ぐような息を漏らした。デクラスも飲み物を持ったまま、その隣に腰を下ろした。
「では、もし敵が死に物狂いで来たら、危ういと思うかね?」
「率直に言えば、閣下、守りきれると思います。ただ、どれだけの損害が出るかは、現場の指揮官がどう判断するか次第です」
「まあ、守りきれるなら、それでよいさ。このリンドヒルを見てごらん……」
庭園を駆けてゆく子供たちを、タイラルは優しい目で眺めていた。親たちが心配そうに、そのあとを追っている。木の幹からリスが一匹跳び下り、デクラスの足もとにちょこんと座った。じっとこちらを見上げていたが、やがて跳ねて去ってゆく。
「そういえば、閣下。正直なところ、皇后陛下が教廷国で、これほど見事に話をまとめてこられるとは思っていませんでした。皇后陛下と皇帝陛下は……」
デクラスは言いかけて、口をつぐんだ。
タイラルがデクラスを見る。その顔には、そこらの年寄りが噂話に乗り出すときのような表情が浮かんでいた。へっへっへ、と笑いを漏らす。
「何だ、卿は皇后陛下のことを知らんのか?」
デクラスは急に気恥ずかしくなり、思わず頭をかいた。
「閣下、私は東の辺境から来た小領主にすぎません。帝都のことは、本当に知らないことが多くて……」
タイラルはこらえきれず、声を上げて笑った。ひとしきり笑うと、わざと声をひそめる。
「皇后陛下はな、モドレイ元侯爵の一人娘なのだよ」
「おや。あの、何年も前に罪を犯して流されたモドレイですか?」
デクラスは少し驚いた。
「声が大きい! そう、そのモドレイの娘だ。子は彼女一人だったからな。幼いころから剣や槍を仕込まれ、気性もおおらかだった。のちに先帝の目に留まり、今の皇帝陛下の妃にと定められたのだ。陛下が即位してから、モドレイの汚職が露見した。そのとき皇后陛下は第二皇子を身ごもっておられたのでな。陛下もそこを汲んで、モドレイの爵位を取り上げて流罪にするだけにとどめ、命までは取らなかった。第二皇子を産んだあとは、皇后陛下を東の塔へ移らせたというわけだ」
タイラルは物語でも聞かせるように、昔のことを語った。この小さな庭園から、皇城の東の塔は見えない。それでもデクラスは、ついそちらへ目をやる。
「なるほど、そういうことでしたか……」
「先日、皇后陛下に召されたそうだな。第二皇子にもお会いしたかね?」
「ええ。ずっと本を読んでおられました」
「そうなのだよ。皇太子殿下と第二皇子で、どうしてこうも……」
タイラルは急に口を閉じ、探るようにデクラスを見つめた。
「大丈夫ですよ、閣下。私も同じように思っています」
デクラスが穏やかに笑うと、タイラルもようやく安心したように笑みを戻し、うなずいた。
二人は示し合わせたように立ち上がり、またルキウス像へ向かって歩いていった……。
いつしか五月の初め。桜はもう散り、代わってほかの花々が次々と咲いている。ヘルレン帝国の建国記念日もやって来た。
例年なら、この日は盛大な建国の祝典が催される。だが、昨年の大敗に加え、北方の戦もいまだ終わらず、今年は何事も簡素に済ませることになった。それでも、帝都の貴族をすべて招く皇家の宴は残された。
ファスビンダーがデクラスの礼服の襟を整え、皺の寄ったところを手で撫で伸ばすと、デクラスは表で待つ馬車に乗り、皇城の内殿へ向かった。
内殿の前で馬が足を止め、衛兵が馬車の扉を開ける。デクラスはゆっくりと降り、脇にそびえる東の塔を見上げてから、敷かれた赤い絨毯を踏んで、内殿の広大な宴会場へと入っていった。
中は、話し声で沸き返っている。文官も武官も互いに談笑し、タイラル伯爵も何人かの官僚と話に花を咲かせていた。遠くからデクラスが入ってくるのに気づくと、うなずいてみせ、参謀院の者たちが座る長卓を指さして、先に席につくよう促した。
長卓の両側は、すでに参謀院の若手たちで埋まっていた。次席のために空けてある席へ、デクラスも同僚たちに会釈して腰を下ろす。
参謀たちの話題は、ほとんどが北方の戦だ。その一方、ほかの貴族たちは、取りとめのない話や色恋沙汰の噂で盛り上がっている。デクラスは、目の前の豚すね肉のローストを眺めた。口の中に唾がたまる。だが、宴はまだ始まっていない。手をつけるわけにはいかない。
「北方の戦もまだ終わっていないのに、こんな盛大な宴を開いていて、いいんでしょうか」
同僚と話していた若い参謀の一人が、少し声を大きくした。
デクラスはすぐに笑いかけ、唇に指を当ててみせた。若い参謀はさっと口をつぐみ、肩をすくめる。
「声は小さくな。誰が聞いているかわからんぞ。戦がどうなろうと、陛下や貴族の皆様にも食事くらいはしてもらわんとな」
デクラスは、その若者に小声で言った。
「男爵閣下……どうして、いつもそんなに楽観的でいられるんですか?」
若者も声をひそめて尋ねた。
なかなかいい問いだ。デクラスは顎をつまんでしばらく考え、それから若者を見て、笑みを浮かべて答えた。
「悲観も行き着くところまで行くと、楽観になるんだよ」
若い参謀は、まだよくわからない様子だった。何か言いかけたところで、内侍官が突然、声高らかに告げた。
「皇帝陛下、皇后陛下、皇太子殿下、第二皇子殿下のお成りです!」
居合わせた貴族も官吏も一斉に立ち上がり、宴会場の正面、主卓に並ぶ四脚の椅子へと顔を向けた。
先頭に立って入ってきたのは、アデリウス四世だった。広間の群臣を見渡し、中央のひときわ大きな、赤いビロード張りの王座に腰を下ろす。痩せた頬には赤みが差し、ここのところ本当に機嫌がよいらしい。
次に皇太子ヴィルザスが、皇帝の右隣の椅子につく。何ともいえない眼差しで群臣をちらりと見やり、それから目の前のご馳走へと関心を移す。続いて皇后コルネリアが、第二皇子エリアンを連れて入ってくる。皇帝の左隣の玉座についた皇后は、変わらず華やかで端然としている。その左隣に座る第二皇子は、硬い表情で、群臣と目を合わせられずにいる。
「諸卿、今日は帝国建国四百六十年の記念日である。北方の戦も勝利を目前にしており、余も喜ばしく思う。卿らも、そうかしこまることはない。座って食べるがよい」
アデリウス四世がくつろいでいるのは、見ていてもわかった。意外にも長々と話すことはなく、グラテン産の葡萄をひと房取り上げ、一粒もいで口に入れた。もう一粒もぐと、無造作にヴィルザスの皿へ放る。
それを見て、群臣も笑みを浮かべて席についた。タイラル伯爵も参謀院の長卓の上座へ戻ってきた。
ようやく食べられる。デクラスはナイフとフォークで豚すね肉のローストを切り取り、口へ運ぶ。肉の香りが口いっぱいに広がり、歯の間から脂が唇へにじみ出る。慌ててナプキンを取り、口を拭う。
横目で皇帝の卓をうかがう。皇帝はゆっくりと食べ物を口へ運びながら、興味深げな目で絶えず群臣を見回している。ヴィルザスは杯を重ね、存分に美酒を楽しんでいる。皇后は切り分けた肉を第二皇子の皿に置きながら、群臣の間に視線を漂わせている。やがて、その目がデクラスと合った。
デクラスは慌てて視線を戻し、食事を楽しむことに専念した。
「先ほどは、次席殿と何を話していたのかね?」
タイラル伯爵が、食べながら部下たちをからかった。
「伯爵閣下、別に何も」
一人がそう答えた。
「では、課題を一つ出そう。昨年十二月の両軍の配置をもとに、一人ずつ作戦を考えてくるように」
一人がナイフとフォークを置き、げんなりした顔でタイラルを見ながら、少し恨めしそうに言った。
「伯爵閣下、また軍事学院のやり方ですか」
「早く一人前になってもらわねばな。いつまでも私と次席殿にばかり、苦労をさせるものではないぞ」
タイラルは半ば本気で、半ば冗談めかして言った。
「伯爵閣下のおっしゃるとおりだ。次に戦になったら、君たちにも、もっと重い役目を担ってもらわないとな。わかるだろう?」
デクラスもにこにこしながら、タイラルの言葉を引き取った。
参謀院の面々はそろって口をつぐんだ。それでも、ほどなく二、三人ずつで、また身の回りの話を取りとめもなく交わしていた。
宴も半ばを過ぎ、酔いの回った者も出てきて、宴会場はいよいよ騒がしくなっていた。デクラスは礼服の内ポケットから四角い布をそっと取り出し、膝の上に広げる。目の前の皿に残っていた豚すね肉のローストや焼き魚、果物を、少しずつその上へ載せてゆく。
「おや、デクラス。何をしているのかね?」
タイラル伯爵はすかさず、焼き魚を持つデクラスの手をつかんだ。目を細め、へっへっへ、と笑っている。
「いや、閣下、お恥ずかしい。少し持ち帰って食べようと思いまして」
「参謀院次席ともあろう男爵閣下が、はははは!」
タイラルが大笑いする横で、デクラスも少し顔を赤くした。ふと気づくと、同じ卓の同僚たちが、どこか怯えた顔で二人の背後を見ている。デクラスにも、背後からの視線と圧迫感がかすかに伝わってきた。二人ははっと振り返った。
アデリウス四世が立っていた。両手を後ろで組み、うつむいて、デクラスの膝の上、食べ物を載せた布をしげしげと眺めている。その表情は、何とも意味ありげだった。
「陛下!」
デクラスとタイラルの声が重なった。二人が立ち上がろうとしたところへ、皇帝の大きく細長い手が伸び、それぞれの肩を押さえた。
「立たずともよい。そのまま座っておれ」
アデリウス四世は二人の肩をぽんぽんと叩き、今度はタイラルの肩に片肘を預け、その手で顎を支える。
「デクラス卿、これは?」
「陛下、皇家の宴の料理があまりにおいしいもので、少し持ち帰って、ゆっくりいただこうかと」
デクラスはきまり悪そうに答えた。
アデリウスは頬をかいた。上等な葡萄酒に染まった顔が、広間いっぱいに揺れる蝋燭の光の下で、いっそう赤みを増している。狡猾そうな細長い目が、デクラスの顔と布の上とを行き来し、口の端がわずかに持ち上がる。
「皇家の食べ物を盗んだとして、余に罪を問われるのは怖くないのか?」
皇帝は、ふふ、と笑った。
デクラスの頭がめまぐるしく働く。すぐさま哀れっぽい顔を作り、皇帝に言った。
「陛下、持ち帰ったところで、この料理が入るのは私の腹です。ここで食べても、やはり私の腹に入ります。どのみち、この腹が盗むことになるのですから、いっそ今ここで、私を罪に問われてはいかがでしょう」
ははははは。
アデリウス四世が大声で笑い出す。体を前後に揺らし、デクラスの肩を二度、強く叩いた。
「陛下、陛下。デクラスは少し飲みすぎたようでございます。どうか、お気になさらず」
タイラルは慌てて取りなした。
「タイラル卿、案ずるな。余は怒っておらぬ。誰かある!」
アデリウス四世の大声に、鉄翎軍の侍衛が四人、参謀院の卓へやって来た。それを見た参謀たちは、心臓が喉までせり上がる思いだった。誰一人、声を出せない。
「お前たち、厨房にどんな肉や魚が残っているか見てこい。布で包んで、みなデクラス卿に持たせてやれ!」
「はっ!」
四人の侍衛は命を受け、厨房へ向かった。
アデリウス四世は向き直り、席にいる参謀たちをぐるりと見渡す。それからタイラルの肩をもう一度叩いた。
「諸卿、ゆっくり食べるがよい」
そう言うと、笑いながら、ぶらぶらとほかの卓へ歩いていった。
タイラルはようやく、大きく息をついた。胸を何度も強くさすり、それからデクラスを見る。膝に置かれたデクラスの両手は、激しく震えている。
そのあと、この卓では誰一人、食事が喉を通らなかった。
宴のあと、デクラスは脂の染み出した大きな布包みを三つ抱えて馬車を降り、家の扉を叩いた。ファスビンダーが不思議そうな顔で扉を開け、青ざめたデクラスを見ると、そのまま大きな包みを受け取った。
「閣下、これは?」
デクラスは構わず家へ入り、玄関にある、靴を履き替えるための腰掛けにどさりと座った。
「早く食べてしまってくれ……宴のうまいものを少し持ち帰ろうとしただけで、危うく命まであそこに置いてくるところだった……」
デクラスはため息をついて立ち上がり、重い足取りでゆっくりと二階の寝室へ向かった。あとには、ご馳走の詰まった大きな包みを三つ抱えたファスビンダーが、呆然と立ち尽くしていた。
帝国暦460年5月13日。
参謀院に、一通の軍報が届いた。
タイラル伯爵は読み終えると、デクラスへ回した。
「先頃、我が帝国海軍は沈暮海の沿岸海域で、不審な商船団を停船させた。船には大量の食糧が積まれており、調査の結果、いずれもティバラおよびヌリシアからアイカドへ向けて運ばれていたものと判明。以上、報告する」
デクラスは軍報をほかの同僚へ回し、タイラル伯爵を見た。二人は顔を見合わせ、笑みを交わす。
「金に目のくらんだ、南のろくでなしどもめ。海軍には引き続き、厳しく調べさせましょう」
デクラスはそう言い、それからひと言、付け加えた。
「アイカド軍は、もう長くはもちません」




