北方戦争編 第十二話 早春
「それで、閣下のお考えは?」
デクラスは銀のフォークで肉を一切れ取り、口へ運んだ。
タイラル伯爵はナプキンで口元を拭い、ゆっくりと答えた。
「今はひとまず、何もせずにおこうということだよ。ヘルグから届く戦報を見るかぎり、アイカド軍はこのひと月あまり、数えるほどしか城を攻めていない。脅してばかりだ。今ごろは守備兵も慣れたのではないかね。ならば、我々は静観していたほうがいい」
「ですが、今日の玉座の間で、閣下もお聞きになったでしょう。サディスの報告には、はっきり書かれていました。敵軍は確かに安定した糧秣の補給を受けている。しかも、補給路は一本ではないと。この件は、もう少し重く見たほうがよくありませんか?」
デクラスはまた杯を取り、グラテン産の葡萄酒をひと口飲む。
デクラスと食卓を囲むのは、タイラルにとっていつも愉快なことだった。肉を噛みながら軍情を語る、この三十代の若い参謀。その姿を眺めるのが好きなのだ。この前デクラスを家に招いたあと、妻はこんなことを言っていた。
「デクラス様の食べっぷりを見ていると、ああ、ちゃんと食事をしているんだな、と思うのよ」
一切れ、また一切れと肉を口へ運ぶデクラスを、タイラルは眺めつづけた。妻の言ったとおりだ。
「閣下?」
黙って自分を見つめつづけるタイラルに、デクラスが声をかけた。
「ああ、すまん。少し気がそれていた。今、何と言ったかな。ああ、そうだ。重く見る、だったな」
タイラルは小さく二度咳払いをして、話を続けた。
「重く見ると言っても、そう簡単には動けんよ。卿がずっと増援を送りたがっているのはわかっている。だが、まだその時期ではないだろう。それに、卿も知っているとおり、新設した二つの重歩兵団には、まるで兵が集まらん。各地から無理やり連れてきた者もいるが、脱走する者がひどく多くてな……」
デクラスは口の中の肉を飲み込み、すっかり空になった皿を見た。腹は満ちた。ようやく椅子の背にもたれ、しばし考え込む。
「あとひと月もすれば、春になって雪が解けます。道がぬかるめば、増援を送りたくても難しくなる。それに、春になっても敵の糧秣がどこから来ているのかつかめなければ、陛下はどうお考えになるでしょう」
デクラスは懸念を口にした。
「陛下? 何を気にしておられるというのかね。今は皇太子のことで頭がいっぱいだよ」
タイラルは、ほっとしたような、困ったような顔で首を振った。
「え? 皇太子が、また何か?」
デクラスが尋ねる。
「皇太子の縁談だよ。陛下は可愛い長男のために、ふさわしい縁組の相手を探しておられる。だが、卿も知っているだろう、あの皇太子だ。自分から娘を差し出そうなどという者がいるかね。陛下はこのところ、そのことで頭を悩ませておられるのさ」
皇太子のことを口にしたタイラルは、何か汚らわしいものの話でもするように、眉をひそめ、唇を鳴らした。
「その話、閣下はどこでお聞きに……」
「先日、宰相閣下から内々に、誰か推薦できる相手はいないかと聞かれてね。そんな役目はごめんだから、断ったよ」
あの参謀院首席閣下の口から出た言葉に、デクラスはたまらず、食卓で声を上げて笑った。それから立ち上がり、礼服の裾と襟を整え、タイラル伯爵に別れを告げようとした。
「ただ、デクラス卿」
タイラルは不意に真顔に戻り、デクラスを呼び止めた。
「来るべきものは、来る。具体的な対策は、早めに用意しておいてくれ」
そこにはまた、あの参謀院首席がいる。
「閣下、ご心配なく。策はもう、考えてあります」
満足げにうなずくタイラルをあとに、デクラスは伯爵邸の食堂を出て、長い廊下を玄関まで歩き、伯爵の用意した馬車に乗り込んだ。
その後の数日、皇帝は玉座の間でいつもの会議を開かなかった。本当に皇太子の縁談に頭を悩ませているのか、デクラスにはわからない。戦報の届く間隔も延びている。初めのころは二、三日に一通。それが今では十日ほどに一通。前線の兵たちも、少しは息をつけているのだろうか。デクラスはそんなことを考えていた……。
帝都リンドヒルでは、屋根を覆っていた雪が溶けはじめていた。軒先の氷柱は日ごとに細く長くなり、屋根にはようやく瓦がのぞく。道に積もった雪は両脇へ掃き寄せられ、日陰の隅に残るばかり。夜ごと地面に薄氷が張り、正午にはまた溶ける。この季節、街路が乾くことはなかった。
デクラスは足早に内城の門をくぐり、群臣とともに玉座の間へ続く大階段を上った。箒で石段の氷を払っていた宮中の召使いたちは、一行に気づくと、自ら両脇へ退いた。
帝国暦460年3月6日、玉座の間。
アデリウス四世の顔色は冴えない。ひと冬を越して頬はいっそうこけ、冷酷な眼差しには、かすかな苛立ちが混じっている。王座の肘掛けに肘をつき、額を揉む。
側近から羊皮紙の巻物を受け取った宰相ゴドフリーは、それを開いて目を通すと、巻き直して群臣に告げる。
「サディス卿からの報告だ。アイカド軍に増援が入った。およそ五千から六千。新兵と思われる。糧秣の供給元は、依然として不明だ」
タイラル伯爵はすぐには列を離れず、まずデクラスに目をやり、視線を交わす。
「タイラルは?」
アデリウス四世が暗い声で問う。
呼ばれて初めて、タイラルはゆっくりと群臣の列を離れ、玉座の間の中央へ進み出る。皇帝に向き直り、言葉を待つ。
アデリウス四世はすぐには口を開かない。王座に身を預けたまま、長いことタイラルを見据えている。やがて口を開き、ひどくゆっくりと言葉を発した。
「参謀院は、春になればアイカド軍は持ちこたえられぬと、そう申していたな」
「はい、陛下」
タイラルは落ち着いて答える。
「ほう。それで今も、同じ考えか?」
「いいえ、陛下」
アデリウス四世はしばし呆気に取られ、やがて一人でくつくつと笑いだす。飴をいくつかつかみ、一度に口へ押し込んだ。目を丸く見開いたまま。
「この老いぼれめ。よくもぬけぬけと申す。余も返す言葉がないわ。ならば、もっと聞かせてみよ」
タイラルの体がわずかにこわばる。それでもうなずき、落ち着いた口調を崩さずに続ける。
「陛下、開戦前の参謀院の見積もりは、誤ってはおりません。アイカド自身の蓄えだけならば、春先までしかもたないはずでした。ところが今、出所の知れぬ補給が加わっております。ほかに供給元があるのでしょう。他国にいる我が方の密偵に、いっそう目を光らせるよう命じてはいかがかと存じます」
「ほう。では、このたびのアイカドの増援を、参謀院はどうするつもりだ?」
「陛下、ご懸念には及びません。参謀院にはすでに策がございます。デクラス卿に、御前で策を申し述べるお許しを」
タイラルが振り返り、デクラスに目配せする。異存はなかったが、デクラスはやはり、仕方なさそうに小さく息をついた。まだ皇帝の許しは出ていない。列を離れてよいものか、ためらう。
そのためらいに気づいたアデリウス四世は、何も言わずに手を伸ばし、来いと招く。デクラスはようやく安心して、玉座の間の中央へ進み出た。
「陛下」
「卿よ。またそなたの知恵か。では、聞かせてみよ」
「はっ、陛下。今回、アイカド軍に加わった五、六千は新兵です。兵の補充も、そろそろ限界に近づいているということです。この増援をもって、本格的な攻城戦に踏み切る可能性があると考えます」
「そんな戯言を聞きたいのではない。余が聞きたいのは、卿の策だ」
アデリウス四世の眼差しが、いっそう鋭くなる。
「陛下、我々も増援を送るべきです。ですが、我が国にも増援に回せる兵が足りません。折しも春、東境の徴集兵を前線へ向かわせたところで、道はぬかるみ、間に合わぬおそれがございます。ただ、一つ策がございます」
アデリウス四世は黙って先を待つ。
「今こそ教廷国に援軍を求め、ジラス川の水路を使って、鉄籬堡へ直接兵を送ってもらうべきかと……」
「もうよい!」
ひとつかみの飴が床に叩きつけられた。アデリウス四世が、突如立ち上がって怒鳴る。
「王国との戦が始まる前にも、そなたは余に、あの教皇の爺に頭を下げよと申したな。今度もまた、あの爺に頼めというのか。大帝国たる我が国が、あの山脈の麓のちっぽけな国に救われねばならぬところまで、落ちぶれたというのか!」
両側に並ぶ群臣はその咆哮に身をすくませ、恐怖に満ちた目をデクラスへ向ける。デクラスも、内心ではかすかに震えている。だが、それを体に出すまいと、平静を装う。ここであと一言でも誤れば、今日のうちに首が落ちるかもしれない。だが、もうここまで口にしてしまった。頭の中では、言葉が目まぐるしく組み替えられてゆく。
「陛下。どうか、最後までお聞きください。そのうえで策が役に立たぬとお思いでしたら、投獄でも斬首でも、お受けいたします」
デクラスは腹に力を込め、硬い声でそれだけを言い切った。
王座の前に立つアデリウス四世は首をねじり、首筋から痩せた顎にかけて、青筋を浮かべている。目を閉じ、歯を食いしばる。その歯の間から、意外なほど細く静かな声で、一言を絞り出した。
「申せ」
「陛下、頭を下げるのではありません。今回は教廷国に懇願する必要はないのです。王国との戦とは、事情が違います」
デクラスは一呼吸置いた。
「前の戦であれば、国と国との争いに介入してくれという話ですから、教皇にも断る余地はあったでしょう。ですが今回は、対アイカド戦に加わらざるを得ません。これは、聖戦だからです。鉄籬堡の防衛線が破られたら、教皇は、信仰を自由に選ぶグラテンの民に、大陸全土の教権を守ってもらうつもりなのでしょうか。ですから陛下、それ相応の身分の者を使節に立て、いくらかの贈り物を添えて送り出しさえすれば、教廷国は必ず旗を掲げ、我々を助けるべく聖騎士を動員するはずです」
アデリウス四世はゆっくりと王座に腰を下ろした。顎をつまみ、目をしきりに動かしている。デクラスにはわかった。言葉は届いている。
「だが、教廷国は国土も狭く、兵も限られている……」
皇帝は独り言のように、小さくつぶやいた。
「陛下、どうか、この一点だけはご理解ください。今の我々の兵力では、アイカドの三万に近い大軍を殲滅することはできません。鉄籬堡とストムセの防衛線を守り抜くのが精いっぱいです。教皇の掲げる大義があれば、戦を長引かせることはできます。たとえ今は糧秣の補給が続いていても、国力にも財力にも限りがある以上、いつまでも続くはずがない。いずれは我々が勝ちます」
デクラスの言葉にはまだ勢いが残っていたが、その先を口にしかけて、ためらった。皇帝はそれを見逃さない。
「続けよ!」
「陛下。それに、教廷国が兵を出せば、死ぬのは彼らの兵です」
アデリウス四世はまた黙り込んだ。だが、その表情は次第に和らいでゆく。親指で顎を支え、残る四本の指を鼻の下に当てている。口の端が、わずかに上へと何度か動いた。
「卿は、誰を使節に立てるのがよいと思う?」
……
翌日、デクラスは早くから礼服に着替え、髪もきちんと整えていた。玄関先に姿勢を正して座り、何かを待っているらしい。ファスビンダーには、その姿がなんともおかしかった。
「閣下、本当に来るんですか?」
「当たり前だ。じきに来るに決まっている」
ファスビンダーはそれ以上何も言わず、家の仕事に戻った。ほどなく玄関の扉が叩かれる。開けると、皇家の衛兵が二人、戸口に立っていた。
「皇后陛下が、デクラス卿をお召しだ」
デクラスは立ち上がり、襟を整え、ファスビンダーにちらりと目をやった。背筋を伸ばして玄関を出ると、馬車に乗って出かけていった。
馬車は内城の東門を抜け、皇城へ入った。この門の内側に入るのは、デクラスには初めてのことだ。内殿の入口で馬車を降りると、皇家の侍従が案内に立つ。石造りの門をくぐり、長い廊下を通って、皇家の庭園へ。まだ春は本格的には訪れていない。それでも、庭の造りや水の景、飾りに置かれた奇石だけで、デクラスは幾度も目を留めずにはいられなかった。春水庭園というのだと、侍従が教えた。
庭園を抜けると、独立してそびえる高い塔に出た。扉をくぐり、階段を上りつづける。いくつもの部屋が並ぶ広い階に着くと、案内の侍従は最も大きな部屋の扉を叩き、声を張った。
「参謀院次席、デクラス男爵がお見えです」
扉が開き、デクラスは侍従に続いて赤い絨毯を踏み、室内へ入った。
かなり広い客間だった。壁には皇家の紋様をあしらった布が掛かり、南の壁際には、さまざまな書物で埋まった大きな書棚。その手前には、上等な木材で作られた書き物机が置かれている。東の壁には大きな窓が二つ。リンドヒルの東区を一望できる。部屋の中央からやや東寄り、絨毯の先には、なかなか華やかな二脚の玉座があり、赤いビロードの敷物が掛けられていた。
そこに座る二人が、デクラスを見ている。皇后コルネリアと、第二皇子エリアン。
デクラスは急いで片膝をつき、頭を下げた。
「皇后陛下、第二皇子殿下。お目にかかれて光栄に存じます」
コルネリアは何も言わず、軽く手を上げて立つよう促す。まだ若いエリアンは、好奇心に満ちた目でデクラスを眺めていた。
「そなたが、参謀院のデクラスですか。このところ、何人かから名を聞きました。帝国の柱となる人物だとか」
皇后コルネリアの声は、決して太くはなかった。だが、不思議と聞き入ってしまう響きがある。
皇后の姿を見たことがないわけではない。祝祭や大きな儀式で、遠くから見かけたことは何度かある。だが、これほど近くに立つのは初めてだった。堂々とした気品と、ゆったりと落ち着いた身のこなしに、デクラスはしばし見入った。
「はい、私がデクラスでございます。帝国の柱などとは、過分なお言葉です」
コルネリアはデクラスを上から下まで眺めると、その背後にいる侍従へ手を振った。侍従はうなずき、部屋を出て扉を閉める。
コルネリアは立ち上がり、東の大窓へゆっくりと歩み寄った。窓の向こうには、リンドヒルの見事な眺めが広がっている。
「卿も、こちらから眺めてごらんなさい」
デクラスは言われたとおりに進み、皇后の数歩後ろで足を止め、窓の外を見た。
この塔から見下ろせば、東区の大きな屋敷の屋根も低く小さく、人影は蟻ほどだ。冬の陽が雲の切れ間から幾筋もの光の柱となって降り、城門と城壁を照らしている。その光の向こうに、リンドヒルの東に広がる原野と、遠くの山々がかすかに見える。
デクラスはその眺めに見入っていた。
「この東の塔が何と呼ばれているか、知っていますか?」
不意に問われ、デクラスはただ、幾度も首を振った。
「雲雀塔」
コルネリアは振り返り、デクラスのすぐ脇を通って、自分の玉座へ戻っていった。デクラスもあとに続き、その前の絨毯の上に立つ。
「では、なぜ私を教廷国への使節に推薦したのか、聞かせてください」
柔らかな声には、芯の強さが感じられた。
「皇后陛下、教皇に参戦の命を下していただくには、宰相では軽く、皇帝陛下では重すぎるかと存じます。落ち着きと威厳をお備えの皇后陛下こそ、今回の使節に最もふさわしいお方と考えた次第です」
コルネリアの口元が上がる。どこか侮るような笑みだった。
「それなら、卿に礼を言わなくてはね?」
「滅相もございません。皇后陛下がお望みでなければ、別の方を考えます」
デクラスは思わず顔を伏せた。
「それには及びません。教皇にどう話せばよいか、教えてもらうために呼んだのです。卿という変わった男にも、一度会ってみたかったので」
「恐れ多いことでございます」
デクラスは、利害をどのように説けばよいか、一つずつコルネリアに説明した。話に退屈したエリアンは、自分で書棚へ行き、本を一冊抜き出す。書き物机の前に腰を下ろすと、そのまま読みはじめた。デクラスは横目で、第二皇子の姿をちらりと見た。
「わかりました。ほかに、特に伝えておくことはありますか?」
デクラスは少し考えた。
「教皇が出兵を承諾なさったら、必ずお伝えください。兵は水路を使い、鉄籬堡から見えない場所に上陸し、ひそかに陣を敷くようにと」
コルネリアは興味をそそられた様子で、顔にかすかな笑みを浮かべる。
「卿にはまた、何か奇策があるのですか?」
「いえ、拙い策にすぎません」
デクラスが一礼して辞去するとき、コルネリアは再び東の大窓へ歩み寄り、遠くを眺めていた。エリアンはまだ本を読んでおり、デクラスへ目を上げることもない。
春水庭園をもう一度抜け、内殿の前から帰りの馬車に乗り込む。これで、前線は守りきれる。デクラスには、もうわかっていた……。




