北方戦争編 第十話 探察
「ファスビンダー!」
デクラスが自宅の書斎で、不意に声を張り上げた。ファスビンダーはそっと扉を開けて入り、部屋の中に立った。
「閣下、何かご用ですか」
デクラスは立ち上がり、顎をつまんで書斎を行ったり来たりする。
「ファスビンダー、誰か頼りになる者を探してくれ」
「はい、閣下。それで?」
「ああ。いくらか金を渡して、鉄籬堡とストムセへ行かせたい」
「おや。閣下、まずは理由を聞かせてもらえませんか」
目の前を左から右へ、また右から左へと歩き回る主の姿が、ファスビンダーにはどうにもおかしい。
デクラスはファスビンダーを一瞥すると、その腕を引き、書斎の椅子に強引に座らせた。自分はまた部屋の中を歩き回る。
「ファスビンダー、こういうことだ。最近、前線から届く戦報が、どれも似たような文面なんだ。アイカド軍がまた何度か攻めてきて、それを撃退した。敵を何人討ち取った、こちらの損害は軽微だった――何通も続けて、そんな話ばかりだ」
「閣下、それの何がいけないんです?」
ファスビンダーはきょとんとした顔で、歩き回るデクラスを見る。
「いやいや、いいんだ。よすぎるんだよ。よすぎるから、かえってどこか不安になる。私のほうでも人を遣って、確かめておきたいんだ」
ファスビンダーは少し考えた。
「ああ、わかりました。前線の指揮官が信用できないから、誰かにじかに確かめてきてもらいたいんですね」
「そうだ! そういうことだ」
デクラスは勢いよくファスビンダーのほうへ向き直った。
「それなら、私が行きましょうか、閣下」
ファスビンダーはにこにこと笑いながら、すかさずそう申し出た。まるで、初めから自分が行くと決めていたかのように。
「お前が? 駄目だ、駄目だ、駄目だ。駄目だ」
デクラスは即座に断ると、立ち止まったのも束の間、また部屋の中を歩き回りはじめた。
「閣下、私ではどうして駄目なんです?」
ファスビンダーは相変わらず笑みを浮かべたまま尋ねる。
デクラスはファスビンダーをちらりと見た。
「駄目だ。危険すぎる。お前を行かせるわけにはいかない」
「閣下、こう考えてみてください。誰かにこんなことを頼むなら、銀貨を何十枚も積まないと、引き受けてくれないと思いますよ。下手をすると、金貨が要ります」
金貨という言葉を聞くなり、デクラスはぴたりと足を止めた。横目でファスビンダーを見る。
「それに、こういうことは、本当に信用できる人でないと任せられませんよね。行ってきた人の話が間違っていたら、お金を払ったうえに、閣下の仕事にも支障が出ます。ですから、私が行くのがいちばんです」
ファスビンダーはなおもにこにこと笑っている。まるで、何の重圧も感じていないかのようだ。
デクラスはファスビンダーの顔を見つめ、長いこと顎をこすった末に、ようやく口を開いた。
「本当にいいんだな?」
「はい、閣下。行かせてください。これでも、閣下の侍従騎士ですから」
デクラスは少し考え、改まった様子でファスビンダーの肩に両手を置いた。
「なら、馬を飛ばして行け。鉄籬堡とストムセを遠くから見渡せる場所を探すんだ。決して近づくな。敵が城を攻めていたら、三日間見てから戻れ。最初の三日で両軍に動きがなければ、もう何日か待ってもいい。ただし、現地にいるのは長くても十日。そこまで待ったら、すぐに戻ってこい。それから、アイカド軍がどう攻めているのか、何人いて、どれほどの損害が出ているのか。おおよそでいいから、よく見て覚えて、戻ったら私に教えてくれ」
ファスビンダーが、一言一句違えずに復唱する。二人は顔を見合わせ、うなずき合った。
翌朝、空がようやく白みはじめたころ、ファスビンダーは借りてきた駿馬にまたがっていた。デクラスは戸口に立ち、見送っている。
「くれぐれも気をつけろ。さあ、行ってこい」
そう言って、デクラスは馬の首を軽く叩いた。
ファスビンダーは両脚で馬の腹を軽く叩き、数歩進んだところで振り返る。
「閣下、ちゃんとご自分で洗濯してくださいね」
「ああ、わかっている」
デクラスが答えた。
また数歩進んでから、ファスビンダーが気がかりそうに振り返った。
「閣下、しばらくは夜食を作る者がいませんから、夕飯は多めに食べてくださいね」
「わかった、わかった! 早く行け」
デクラスは苦笑して首を振り、手を振った。
ようやく気がかりのなくなったファスビンダーが、鞭を振り上げる。駿馬は軽やかな足取りで西へ向かい、一人と一頭の姿は通りの果てに消えていった。
帝都には、繰り返し雪が降った。地面の雪がようやく泥水になったかと思うと、また厚い白雪がその上を覆う。ファスビンダーを送り出してから、もう十数日になる。窓の外の雪景色を眺めながら、デクラスは不安を覚えはじめていた。胸の内で、日数を数える。早馬なら、ソーン川の前線まで片道五日。大雪に遭えば、さらに一日か二日はかかるかもしれない。ファスビンダーが前線の後方へ着いてすぐに戦闘があったのなら、あと二日ほどで帰ってくるはずだ。デクラスは努めて気を落ち着け、ぱさついたパンを一口かじった。
戦報は相変わらず、たびたび届いていた。内容はどれも似たり寄ったり。タイラル伯爵は毎日、戦報を読み終えるとそのまま列へ戻る。皇帝も次第に興奮を見せなくなり、臣下たちもこの戦争の進み方に慣れはじめていた。ただ一人、デクラスだけが、そのつど敵の投入兵力や双方の損害を、黙って胸の内で計算していた。
帝国暦459年12月16日。
玉座の間での会議が終わると、デクラスはひとまず帝国参謀院に顔を出した。タイラル伯爵は悠々と茶を飲み、ほかの者もそれぞれ、いつもの仕事を進めている。デクラスは早々に家へ戻った。二階の窓から半身を乗り出し、軒下にずらりと下がった氷柱を箒で叩き落としていると、不意に、遠くから蹄の音が近づいてきた。
茶色の髪の騎士がデクラスを見上げ、身軽に馬を降りる。凍った道に足を下ろしたとたん、つるりと滑るが、手綱を握ったままどうにか体勢を立て直し、戸口の柵に馬をつなぐと、家の中へ駆け込んでくる。
「閣下!」
階段からファスビンダーの声がして、やがて部屋の扉が開く。デクラスは振り返らず、なおも箒で氷柱を叩き落としている。
「戻ったか」
「はい、閣下。行きも帰りも大雪で、何日か遅くなってしまいました。さっそくご報告を……」
床に積み上がった汚れた服の山を目にして、ファスビンダーの眉間にたちまち深い皺が寄る。
言葉が途切れたのを聞いて、デクラスは窓から身を引っ込め、ファスビンダーを振り返る。その視線の先を追い、ばつが悪そうに笑った。
「ああ、すまない。まあ、先に報告を聞こう」
ファスビンダーはため息をつくと、気を取り直し、真顔で報告を始めた。
「閣下、十二月六日に前線の後方へ着きました。ソーン川の南岸に、鉄籬堡とストムセを同時に見渡せる低い丘を見つけたのですが、私が着いたときには、アイカド軍が両方を攻めていました。その後、三日間見ていましたが、攻撃は毎日少なくとも一度、多い日には二度。毎回、攻める人数はさほど多くなく、しばらく戦っては引き揚げていました。遠すぎて、敵の死傷者が毎回何人出ているか、正確にはわかりませんでしたが、多くても三、四百人ほどに見えました」
デクラスは頭をかいて尋ねた。
「それで、アイカド軍は毎回両方を同時に攻めていたのか。それとも、攻撃の回数に違いがあったのか?」
「閣下、私が見ていた三日間では、ストムセが二度、鉄籬堡が五度、攻められていました」
「攻城兵器は使っていたか?」
「使っていたのは巨大な攻城弩だけです。投石機や破城槌は見かけませんでした」
デクラスは椅子に腰を下ろし、顎をつまんでしばらく考えたあと、さらに尋ねた。
「では、ストムセから鉄籬堡へ兵や糧秣を送るところは見たか?」
「閣下、鉄籬堡が繰り返し攻められているので、ストムセからは、大量の物資や兵を送り込めないようでした。糧秣を運ぶ小さな隊を二度見かけただけです。アイカド軍の攻撃の合間に、ごくわずかな糧秣を鉄籬堡へ運んでいました」
デクラスはかすかに眉を動かし、椅子の背にもたれて窓の外へ目を向けた。帝都に連なる屋根は、どれも真っ白な雪に覆われている。照り返す陽の光が、いくらか目に痛い。デクラスは目をこすった。
「こんな戦い方はしないはずだが……おかしいな……」
デクラスはさっと立ち上がり、ファスビンダーには構わず、足早に階段へ向かった。ファスビンダーが反応する間もなく、階段から声だけが飛んでくる。
「参謀院へ行ってくる! 洗濯は頼んだぞ!」
「閣下!」
ファスビンダーは呆れたように首を振った。窓から見ると、デクラスが、道端につないであった馬の手綱をほどき、背にまたがって勢いよく駆け去ってゆく……。
参謀院で、ちょうど帰ろうとしていたタイラル伯爵は、馬をつなぎ終えたばかりのデクラスと鉢合わせた。
「伯爵閣下、少しこちらへ。お話があります」
デクラスは伯爵の服をつかみ、会議室へ引っ張ってゆく。
会議室の大きな椅子に強引に座らされ、タイラル伯爵は戸惑うばかり。デクラスが何をするつもりなのか、まるでわからない。
「伯爵閣下、実は、前線の様子を探らせるために人を遣っていました。今しがた戻ってきたところです」
デクラスは単刀直入に打ち明けた。
「ほう? デクラス卿、それは……」
タイラル伯爵は少し驚いた顔をした。
デクラスは、ファスビンダーが見てきたことを残らず語った。注意深く話を聞いていた伯爵も、考え込みはじめる。
「伯爵閣下、今のアイカド軍の戦い方は、少し妙だと思いませんか」
「デクラス卿、そう言われてみると、たしかに少し……」
「まず、ヘルグの報告は戦果を誇張しています。それに、今のアイカド軍の戦い方は、冬のうちに勝利を収めようと急いでいるようには見えません」
デクラスは卓に両手をつき、そのまま話を続ける。
「こちらを疲弊させてから、不意に総攻撃をかけるつもりなのかもしれません。ですが、私の遣った者は、投石機や破城槌といった兵器を見ていません。あるいは……我々を消耗させること自体が狙いなのかもしれません」
「デクラス卿、もし卿の見立てが正しければ、それはつまり……」
「敵は、糧秣の補給に困っていない」
デクラスとタイラル伯爵の声が重なり、二人はそろって身震いした。これが事実なら何を意味するのか、どちらもわかっている。
「では、どうすべきだと卿は考える?」
「伯爵閣下、敵が連日両方を攻めているため、ストムセから鉄籬堡への補給はほぼ途絶えています。ソーン川の上流から、流れに乗せて糧秣や守城用の石、丸太、タールなどを鉄籬堡へ送るべきだと思います。鉄籬堡が落ちれば、ストムセは孤立し、あちらも必ず陥落します」
タイラルは黙ってうなずいた。デクラスは間を置かず、さらに尋ねる。
「それから、予備兵力は今、どれほど残っていますか」
タイラルは少し考えた。
「東境の徴集兵が、まだ二、三千いる」
「閣下、その兵も前線へ回すべきだと思います」
「駄目だ」
今度のタイラル伯爵の拒絶には、ためらいがなかった。デクラスは不意を突かれ、続けかけた言葉をのみ込む。
「断じて駄目だ!」
タイラルは重ねて言った。デクラスは口を挟まず、黙って聞いている。
「デクラス卿、考えてもみたまえ。今届いている戦報は、どれも捷報だ。それに、今話したことは、あくまで我々二人の推測にすぎん。まだ裏づける証拠はない。この状況で増援を求めれば、陛下はどうお考えになる?」
デクラスも椅子に腰を下ろし、額を何度もこすりながら、伯爵の言葉を考えていた。
「捷報ばかりで、負けてもいない。それなのに、なぜ増援が要る? 陛下がお疑いになるのではないか。誰かが陛下を欺いているのではないか、何かを隠して報告しているのではないか、と」
タイラルの顔は厳しかった。指で卓を強く叩く音が、ごん、ごんと響く。
「ヘルグの戦報には、たしかに戦果を誇張している疑いがある。だが、それでも毎回守りきっている。卿の遣った者も、我が軍の損害は実際に軽微だと言っているではないか。軽々しく増援を送れば、ヘルグは首をはねられかねん。卿も私も、戦略上の見落としで責任を問われるかもしれんのだ」
デクラスは深く眉根を寄せ、長いため息をついた。やるせなさのすべてを吐き出すかのように。
「伯爵閣下、では、どういたしましょう。私はご指示に従います」
タイラル伯爵も努めて気を静めた。会議室はしばらく静まり返り、やがて伯爵がゆっくりと口を開いた。
「ソーン川の上流から流れを利用して補給する件は、私が手配しよう。だが、増援の話はもう互いに口にせぬことだ。しばらく様子を見る。我々が二人とも読み違えているのかもしれん。あの蛮族どもの戦い方も、それほど巧みではないのかもしれんからな。次にサディスから陛下へ報告が届いたら、敵の後方で糧秣の量や動きに注意するようサディスに命じてはどうかと、陛下に進言することはできる」
タイラル伯爵は立ち上がり、疲れた目をデクラスに向けた。
「今日はここまでにしよう」
デクラス一人を残し、伯爵はそのまま会議室を出ていった。
夕刻、デクラスが家へ戻ると、ファスビンダーはせっせと洗濯をしていた。かまどでは、小鍋で肉のスープが煮えている。煙は壁沿いの煙道へ吸い込まれ、家の中には香りだけが満ちている。
「閣下、うまくいきましたか?」
ファスビンダーは洗い終えた服を木のたらいから取り上げ、両手で絞って脇へ置くと、またたらいの中の衣服をもみ洗いしはじめた。
「はあ……私の考えが外れていればいいがな。ファスビンダー、飯はいつできる?」
デクラスはごく当たり前のように食卓についた。ファスビンダーが振り返ると、もう木の匙まで手にしている……。
翌日の玉座の間でも、デクラスとタイラル伯爵は、どちらも増援の話を持ち出さなかった。アデリウス四世は最新の戦報について尋ねることもなく、サディスもまだ皇帝に書状を送っていない。このとき、緊張の解けぬ二人以外には、戦の煙は遥かな別世界にしかないかのようだった……。




