第2話 弱虫と泣き虫の約束
翌朝。俺は村の採集隊に混じって、東の涸れ谷へ向かっていた。
天職を授かった翌日から、村の子どもは大人の仕事を手伝う。〈剣聖〉のガルドは村長に連れられて剣の稽古だ。俺は——まあ、〈蒐集家〉に振られる仕事なんて荷物持ちくらいのものだった。
でも、それでよかった。谷の草でも眺めていれば、あの“力”をこっそり試せる。
思えば昨日の礼拝堂もそうだった。ガルドは真っ先に俺の隣に戻ってきた。困っている俺を放っておけない。前世で俺が心底ほしかったものを、あいつはいつも当たり前みたいに差し出してくる。
*
八歳の頃だ。
俺とガルドは大人に隠れて森の奥へ入り込み、角ウサギを追いかけていた。子どもの遊びだ。けれど巣穴の先には、飢えた牙猪が寝ていた。逃げ遅れたのは俺だった。足がすくんで動けなかった。
牙猪が突進してくる。もう駄目だと目をつぶった瞬間、ガルドが木の枝一本で間に割って入った。「レイには、指一本触れさせねえ!」。枝はへし折られ、あいつの腕から血が噴いた。それでも俺を背中にかばって、大人が駆けつけるまで一歩も引かなかった。
だがその夜。ガルドの腕は赤黒く腫れ上がった。牙猪の牙には毒がある。
村の薬師は解毒の苔を知っていた。だがそれが生えるのは川向こうの崩れやすい崖。よりによって豪雨だった。「この雨で、あの崖は無理だ。増水したら、大人でも流される」。薬師は唇を噛んだ。
けれど俺は覚えていた。同じ苔がもっと近くの涸れ沢の岩陰にも生えているのを。前に遊びで通りかかって見たのだ。薬師も知らない場所だった。
俺は泣きながら雨の中を走り、薬師の腕を掴んでその岩陰まで引っ張っていった。薬師の目が「確かにこれだ」と見分ける。二人で震える手で苔をむしり取った。
「……レイ、お前、泣き虫だなあ」。翌朝、熱の引いたガルドが笑った。俺は「うるさい、弱虫のくせに」と言い返した。目の縁がまだ赤かった。
あいつは剣が強い。だが頭を使うのは苦手だ。俺は剣は握れない。だが覚えたことは忘れない。あの牙猪の一件で俺たちはそれを思い知った。ガルドの剣が俺を守る。俺の知恵がガルドを生かす。片方だけじゃ、あの森は越えられなかった。
だから決めたんだ。ガルドは剣で、レイは知恵で。二人でなら、どんな森でも越えていける、と。ガルドの腕の傷が塞がった頃、俺たちは河原へ行った。平たい木を拾って、小刀で誓いの札を彫った。「どんな職でも一緒に外の世界を見る」。下手くそな一枚の札に二人の名を並べて刻んだ。それをガルドが宝物みたいに、ずっと持っていた。
*
涸れ谷は名前の通りからからに乾いていた。数年前まで細い川が流れていたが、今は白茶けた石ころばかり。採るべき薬草もほとんど枯れている。
隊を率いる村の熟練薬師が渋い顔をした。「今日は外れだな。水がない土地に、薬草は残らねえ。引き上げるぞ」。
水がない土地。——その言葉に、俺の足が止まった。
谷の奥、一番乾いた岩場に一株だけ妙な草が生えていた。枯れかけて茶色く縮れている。誰の目にも死にかけの雑草だ。
「あの草、なんて名です」
俺が指すと、薬師は目を細めた。長年草を見てきた男の目だ。「……乾き苔草だな。根元の湿りを逃がさず抱え込む草だ。だが、それだけの草さ。自分から水を探しには行けん。地面の水が絶えりゃ、抱える湿りもなくなって三日で枯れる」。
根元の湿りを抱え込む。——その説明が、頭の中でかちりと嵌まった。
由来と働きの理解を確認。〈蒐集〉――候補、《保水》。
頭の隅に候補が浮かんだ。だが俺の足を止めたのはそこじゃない。
この草は、水を探しに行けない。根元にある湿りを抱え込むだけだ。なのにこの涸れ谷で生きている。三日で枯れるはずが枯れていない。——つまりこの草の根元には、今も湿りを補い続ける“何か”がある。地下の浅いところに。
俺はしゃがんで草の根元の土に触れた。ひんやりと湿っている。かすかに鉄気の匂い。根が下へ下へと真っすぐ伸びた跡。……水だ。この真下に水がある。
「薬師さん。この岩場、掘ってみてもいいですか。浅いところに、水が残ってる気がします」
薬師が鼻で笑った。「坊主。この谷が涸れて何年になると思ってる」。「はい。でも、この草がまだ生きてます。水を探しに行けない草が。だから、すぐ下に水源があるはずだ」。
「まあ、坊主がそこまで言うなら」。薬師が渋々うなずいた。半信半疑の隊員たちがそれでも岩を掘り返す。「どうせ涸れ谷だ」「無駄骨だろうよ」。そんな声も聞こえた。
だが俺には確信があった。あの草が嘘をつくはずがない。乾き苔草は、根元の湿りを抱えるだけで、水を探しには行けない。それが生きている以上、水は必ずそこにある。
しばらくして、乾いた岩の底からじわりと黒い染みが広がった。細い湧き水だ。派手なものじゃない。だが渇きかけた採集隊が、一人二口ずつ口を湿らせるには十分だった。帰り道の脱水をこれで免れる。水がなければこの隊は、真夏の峠で動けなくなっていたかもしれない。
「嘘だろ……」。誰かが呆然と呟いた。乾ききった谷底に確かに水が滲んでいる。皆が順に水袋を濡らした。誰の顔にも行き倒れの恐怖が消えた安堵があった。
「……坊主。お前、いい目を持ってるな」。薬師が頭に手をぽんと置いた。「いい目」。それくらいの認識でちょうどいい。誰も俺が“草の性質そのもの”を読んだとは気づいていない。ただ勘のいい子どもが水を見つけた。この場では、それで十分だ。
*
引き上げる前、俺は薬師に頼んで枯れかけた乾き苔草を、一株だけ分けてもらった。「そんな雑草、持ち帰ってどうする」と薬師は笑ったが、許してくれた。
その夜。寝床で俺はその草にそっと指を触れた。
採録。〈蒐集〉――《保水》を、写し取る。
その瞬間、草の緑がすうっと色を失った。乾いた灰になって指の間で崩れる。あとには、ひとつまみの灰だけ。
俺はその灰をしばらく見つめていた。
……集めるとは、失わせることだ。この草はもう二度と生えない。俺が写し取った、その代わりに。手に入れるということは、何かをこの世から消すこと。この力はそんなに軽いものじゃないらしい。
前世の俺は集めてばかりだった。他人の仕事を。他人の期待を。他人の感情を。断れずに全部抱え込んで——最後はその重みに潰された。会社の冷たい床で。
でも今度は違う。今度集めるのは他人の荷物じゃない。俺が俺の足で立つための力だ。何を集めて、何を集めないか。それを初めて自分で選べる。
窓の外、稽古から帰ったガルドの上機嫌な鼻歌が聞こえた。俺は少し笑って目を閉じた。
——追放まで、あと三日。




