第5話「厄災の日」
春の陽射しが、教室の窓から柔らかく差し込んでいた。雲ひとつない青空。
校庭では風に揺れる木々がさらさらと葉を鳴らし、その向こうでは体育の授業だろうか、生徒たちの楽しげな声が微かに聞こえてくる。
平和だった。どこまでも平和な昼前の学校。誰もが当たり前だと思っている日常。だからこそ、その裏で静かに近づいている異変に気づく者はいない。もちろん、レッドもその一人だった。
窓際の席に頬杖をつきながら、ぼんやりと校庭を眺める。昨日の夜はほとんど眠れなかった。神獣たちとの出会い。そして、最後に残された言葉。
――嫌な予感がする。
あの言葉が頭から離れなかったのだ。何度も寝返りを打ち、ようやく眠れたと思えばすぐ朝が来た。その反動が今になって押し寄せている。
「⋯⋯睡眠を促進するポカポカ日和」
思わず漏れた本音。レッドは軽く自分の頬を叩いた。しかし睡魔はしぶとい。むしろ春の日差しが追い打ちをかけてくる。
「ほら、やっぱり眠いんじゃ〜ん」
聞き慣れた声が横から飛んできた。レイラだった。すでに授業の準備を終えているらしく、机の横に立ちながら呆れたように笑っている。
「次、歴史だよ?」
「うわっ眠くなる教科第2位じゃん」
「でしょ?」
レイラは楽しそうに笑った。
「数学じゃなくてよかったね〜!」
「ほんとだよ⋯⋯」
レッドは天井を見上げる。
「寝ちゃったらどうしよ⋯⋯」
「私が先生にチクってあげよっか!」
「俺のこと嫌いなの?」
「てへっ☆ 嫌いじゃないよっ!」
「絶対好きじゃない人にする対応だろ、それ」
「じゃあ好きな人にはどうするの?」
「――知らねぇよ」
「ふふっ」
レイラは舌を出しながら満足そうに笑った。その笑顔を見ていると、不思議と気持ちが軽くなる。昨日から胸に残っていた重苦しい感覚も、少しだけ薄れた気がした。
レッドは小さく息を吐く。レイラは本当に変わらない。どんな時でも明るい。どんな時でも笑っている。まるで太陽みたいだ。彼女が近くにいるだけで、周囲の空気まで明るくなる。気づけば、無意識に視線を向けてしまうほどに。
――そんな人間を、レッドは他に知らなかった。
「ん?」
すると視線に気づいたレイラが首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、別に」
「怪しい〜」
「怪しくない」
「じゃあなんでじっと見てたの?」
「なんでもないって」
「むっすー」
レイラは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。その様子が妙に面白くて、レッドは思わず吹き出してしまう。
「ははっ、なにそれ」
「あぁー!! 今笑った!!」
「⋯⋯笑ってない笑ってない」
「笑ってた!」
「⋯⋯笑ってない!」
そんな他愛ないやり取り。いつもと変わらない朝。変わらないはずだった。――だが。
「ねぇ」
ふいにレイラの声が少しだけ静かになった。
「昨日のこと、まだ考えてる?」
レッドの表情が僅かに固まる。神獣たちのことだ。おそらくレイラも同じことを考えていたのだろう。
「まぁ⋯⋯少しな」
「だよね」
レイラも小さく頷く。普段ならすぐ笑う彼女が、この時だけは少し真面目な顔をしていた。
「私も。ちょっと気になる」
「レイラも?」
「うん」
窓の外へ視線を向ける。青空は変わらず穏やかだった。それなのに――そのはずなのに。
「なんか変な感じしない?」
「⋯⋯」
レッドは答えなかった。いや、答えられなかった。なぜなら、自分も同じことを思っていたからだ。説明はできない。証拠もない。だが、胸の奥がざわつく。まるで何かが近づいているような。――そんな感覚。
「やっぱり、気のせいだろ」
結局、そう言うしかなかった。
「そうかなぁ」
「きっとそうだって」
レッドは無理やり笑顔を作る。このときの笑顔は、きっとぎこちないものだったと思う。
「神獣もたまには外れるときもあるさ」
「それ、神獣に失礼じゃない?」
「⋯⋯確かに」
二人は顔を見合わせる。そして同時に吹き出した。不安を振り払うように。――その時だった。
ガラリ、と教室の扉が開く。歴史教師が入ってきたのだ。
「席につけー」
生徒たちが慌てて自席へ戻る。レイラも自分の席へ駆けていった。いつもの授業が始まる。誰もがそう思っていた。だが、その日の歴史は少し違った。
「よーし。それじゃ授業を始めるぞ」
「お願いします!」
教室中に声が響く。教師は出席簿を机へ置き、生徒たちを見回した。
「さて。ちゃんと勉強してきたか?」
「してまーす!」
「してませーん!」
「正直者がいるな」
教室に笑いが起こる。教師も苦笑した。だが次の瞬間、その表情が少しだけ真面目になる。
「本当は今日、古代文明の続きだったんだがな⋯⋯予定を変更する」
ざわり、と教室が揺れた。
「えっ?」
「なんで?」
「テスト?」
「やだぁ!」
「違う違う。今日は特別な日だからだ」
教師は手を振り、静かにそう言った。その声音には妙な重みがあり、レッドは自然と背筋を伸ばしていた。
「お前たち、今日は何の日か知ってるか?」
そして教師は振り返る。教室は静まり返った。その問いに、誰も答えられない。しばらくすると、教師は小さく頷く。
「まぁ、知らないだろうな」
そして――。
「今日は、“厄災の日”だ」
その言葉が教室へ落ちた瞬間。なぜかレッドの胸が大きく脈打った。まるで、その言葉を聞くことを身体が拒んでいるかのように。教室の空気が僅かに変わった。
つい先ほどまで笑い声が飛び交っていたというのに、「厄災の日」という言葉が落とされた瞬間、その場にいた誰もが教師の次の言葉を待っていた。
歴史教師は教卓に手を置き、静かに教室を見渡す。
「厄災の日って何ですか?」
最初に手を挙げたのは前列の男子生徒だった。教師はその質問を待っていたかのように頷く。
「当然の疑問だな」
そして黒板へ向かう。カツ、カツ、とチョークの音だけが響いた。
「今から話すのは、1000年前に起きた出来事だ」
生徒たちは自然と姿勢を正し始めた。そのまま教師は続ける。
「昔話だと思って聞いても構わん。だが、この世界に生きる者なら知っておくべき歴史でもある」
レッドは窓際の席で頬杖をやめた。さっきまで襲っていた眠気は、もうどこかへ消えている。代わりに胸の奥に妙なざわつきがあった。
「1000年前。この世界は滅びかけた」
「え?」
「滅びかけた?」
その一言で教室は静まり返る。そして小さな声があちこちから漏れ始めた。しかし、教師は構わず続ける。
「まず最初に異変が起きたのは大地だった」
黒板に一本の線を描く。
「豊かだった大地が、ある夜を境に枯れ始めた。草木は枯れ、森は朽ちた。作物は育たず、多くの命が失われた。当時の人々は最初、それをただの異常気象だと思ったらしい」
教室にいる全員が教師を見つめている。しばらくすると、教師は一度言葉を切り、これで終わったのかと、思えば――それは違った。
「それは始まりに過ぎなかった。次に現れたのは炎だ」
教師の声が低くなる。そして、黒板に炎を模した線が描かれる。誰かが息を呑んだ。
「消えない炎――。水をかけても消えない。砂をかけても消えない。燃えるものがなくなっても消えない。街を焼き、人を焼き、山を焼き尽くした」
教師は静かに言う。レイラも真剣な表情で聞いていた。普段の明るい様子はない。そして教師は黒板に波を描く始めた。そしていつしか、生徒たちは完全に話へ引き込まれていた。
「さらに海と川が暴走したんだ。巨大な津波が都市を飲み込み、人々を連れ去った。当然、逃げた者もいる」
そうして、教師はゆっくり首を振る。
「だが、次は氷が襲った。凍てつく吹雪が世界を覆う。海は凍り、川は凍り、人々は眠るように命を落とした」
段々と教室が静まり返り、教師は振り返る。すると、黒板へ雷を描いた。
「そして最後に空が狂う。突風が街を吹き飛ばし、落雷が大地を裂いた。そしていつしか昼と夜の境界が曖昧になり、空そのものが暴れ始めたんだ」
そこまで話して、教師はチョークを置いた。その音だけが妙に大きく響く。
「ここまで聞いて、お前たちはどう思う?」
誰も答えられない。あまりにも現実離れしていたからだ。教師は静かに頷いた。
「そうだろうな。だが世界中の文献に、この出来事が記録されている。それも1つや2つじゃない」
そう言い、教室がざわつく。しかし教師の表情は真剣そのものだった。
「地域も違う。言語も違う。文化も違う。――それでも、同じ記録が残っている。そして当時の人々はこう記した」
レッドは無意識に拳を握っていた。なぜだろう。聞けば聞くほど胸騒ぎが強くなる。続けて教師は黒板へ大きく文字を書くと、やがて振り返った。
「“世界そのものが人類に牙を剥いた”と」
――教室に沈黙が落ちた。
「いや、正確には違うな」
教師は首を横に振る。その声に重みが宿る。
「それは人類どころか――星そのものが滅びかけた、“厄災”だな」
その瞬間。教室の空気が凍りついた気がした。レッドの背筋に冷たいものが走る。神獣たちの言葉が脳裏をよぎった。嫌な予感がする。まるでその言葉と今の話が繋がっているかのようだった。教師はゆっくり黒板へ向かう。そして、一文字ずつ丁寧に記した。
――やがて、黒板に書かれた文字は、《Code 0.0 ZERO》。
「その厄災の名は――」
一拍。教室中が固唾を呑む。誰も息をする間も惜しんでいた。
「コードゼロ」
黒板の文字が異様な存在感を放っていた。レッドはその名前を見つめる。
(コードゼロ……)
初めて聞くはずの名前。それなのに。なぜか胸の奥がざわつく。説明できない不快感。まるで本能が警鐘を鳴らしているようだった。
教師の話が終わった後も、その感覚は消えなかった。授業は続いている。周囲では生徒たちが感想を言い合っていた。
「怖すぎない?」
「でも、昔話だろ?」
「本当にあったのかな」
様々な声が聞こえる。だがレッドは窓の外を見つめていた。青空。穏やかな風。変わらない景色。
(……なんだ、この空気)
――それなのに。胸の奥が落ち着かない。そして、理由のわからないまま、不安だけが膨らんでいく。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方その頃。学校の屋上。そこには誰もいないはずだった。少なくとも普通ならば。――しかし。
「へへへ……」
不気味な笑い声が風に乗る。あの男だった。フェンスの近くに立ちながら、校庭を見下ろしている。眼下では生徒たちが平和な日常を過ごしている。笑い声。雑談。何気ない日常。
男はそれらを見下ろしながら口元を歪めた。
「平和だなぁ」
その声には嘲りが混じっていた。
「ああ、本当に平和だ」
まるで壊れることを前提にしたような言い方だった。男はゆっくり空を見上げる。
「この世のためにも――しっかり働かないとな?」
その目が怪しく光り、足元に黒い影が広がる。それはまるで生き物のように蠢いていた。異常だった。普通の人間なら見るだけで逃げ出すだろう。だが、男は楽しそうに笑っている。
「さて」
両腕を広げる。黒い気配が周囲へ広がり始めた。風が止まる。空気が重くなる。
「一体どんなショーが始まるのか……」
男は呟く。そして詠唱を始めた。
「静寂を破りて今ここに――。闇より暗き闇に在り――。我が声に応え顕現せよ――」
黒い影が集まり、空気が震える。――次の瞬間。屋上全体を覆うほどの闇が噴き出した。黒い奔流が渦を巻き、その中心から巨大な影が姿を現す。
人型。だが人ではない。全身を覆う漆黒の鎧。獣のような爪。赤黒く光る瞳。そして見る者を圧倒する狂気。まるで戦うためだけに生み出された怪物だった。男は満足そうに笑う。
「ようこそ」
そして闇が晴れる。その姿が完全に現れた。
「 『獄闇の狂戦士』 」
怪物は静かに頭を上げた。ギロリ、と赤い瞳が校舎を見つめる。それだけで周囲の空気が震えた。男は愉快そうに肩を震わせる。その笑みは深まり続ける一方だった。
「さぁ、どう対処する? 我が闇の脅威……受けきってみるがいい」
その言葉に応えるように。狂戦士はゆっくりと校舎の方角へ身体を向けた。まるで獲物を見定める捕食者のように。静かに。確実に。異変は始まろうとしていた。
それは誰も気づいていない。教師も、生徒も、レッドも、レイラも――この学校の誰一人として。すでに屋上に異変が存在していることを。そして数時間後、この平穏な日常が音を立てて崩れ去ることを。
――まだ誰も知らなかった。




