第58話「風なき揺れる観覧車」
ゴンドラはゆっくりと高度を上げ続け、やがて観覧車の頂上へ近づいていく。眼下には、カラミティアルランドの全景が広がっていた。
白い砂浜を優しく撫でる波。色鮮やかな屋根が並ぶ観光エリア。豊かな緑に包まれた森林。そして、どこまでも続く青い海。まるで1枚の絵画を見下ろしているかのような景色だった。
「すごい……」
エルナは窓へ額が触れそうなほど身を寄せ、小さく息を漏らす。
「ここまで高いと、街がおもちゃみたいだね〜!」
レイラも目を輝かせながら笑う。つい先先ほど高所を怖がっていたことなど忘れてしまったかのようなはしゃぎぶりだった。
「あれ、さっきまで怖いって言ってたのは誰だったかな」
「そ、それとこれとは別なの!」
頬を膨らませるレイラに、レッドは思わず苦笑する。そんな何気ないやり取りに、ゴンドラの中は穏やかな笑い声で満たされた。――その時だった。
ふいに、風が止んだ。観覧車ほどの高さになれば、常に風が吹き抜けているはずだった。ゴンドラがわずかに揺れるたび、窓の隙間を風が撫でていくはずだ。
それが当たり前だった。しかし今、その風が嘘のように消えた。世界そのものが静止したかのような静寂。人々の歓声も。鳥の鳴き声も。木々を揺らす葉擦れの音さえも。
一瞬だけ遠ざかったような、不思議な感覚が4人を包み込む。
「……あれ、なんか静かじゃない?」
最初に違和感へ気付いたのはレイラだった。そしてレッドも耳を澄ませながら言う。
「……風、止んだみたいだね」
「……なんか、変な感じ」
それに続くように、エルナも落ち着かない様子で窓の外を見回す。それは恐怖とは違う。胸の奥を誰かにそっと撫でられたような、不安とも言えない違和感。
3人が周囲を見回す中、フランだけは何も言わず空を見つめ続けていた。まるで、誰にも見えない何かを探すように。そして、小さく呟く。
「……やっぱり……空が」
「……え?」
レッドが振り向く。フランは瞬きすらせず、ただ空だけを見つめていた。
「さっきまで、空があったのに……今は、ただの上って感じ」
その言葉に、一瞬誰も返事ができなかった。
「なにそれ、こわい〜……!」
レイラは思わずレッドの制服の袖を掴む。フランが冗談で言っているようには見えない。だからこそ余計に不気味だった。
「でも……ほんとかも。「なんか……空が遠くにあるような……」
すると、エルナもゆっくりと空を見上げながらそう言った。レッドも窓へ手を添え、真上を見上げる。空は変わらずそこにある。雲ひとつない、美しい午後の空。それなのに――。
(……なんだ、この感じ)
説明できない。目では何も変わっていない。だが感覚だけが「何かがおかしい」と訴えてくる。まるで世界全体を覆う透明な膜が1枚増えたような。空が少しだけ遠ざかったような。
そんな理解不能な違和感だった。胸の奥が静かにざわめき始める。理由はない。なのに、本能だけが警鐘を鳴らしていた。――その瞬間。
ゴンドラが小さく揺れた。ギシッ、とわずかな軋みとともに、床が揺れる。
「ひゃっ!? な、なに!?」
レイラが思わずレッドの腕へしがみつく。
「いや、たぶん風……だよな?」
そう答えながらも、自分の言葉に確信は持てなかった。風は吹いていない。窓の外の木々も微動だにしていない。それなのに、ゴンドラはもう1度だけ、ゆらりと左右へ揺れた。
誰も声を出さない。静寂だけが狭い空間を満たしていく。そして――再びフランが静かに口を開いた。
「……来てる」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
しばらくして、観覧車がゆっくりと地上へ近づいていく。先ほどまでゴンドラを包んでいた奇妙な静けさは、少しずつ人々の賑わいに溶け込むように薄れていった。
アナウンスの声。遠くで響く子どもたちの笑い声。風に乗って漂う甘い菓子の香り。何もかもが、ほんの数分前まで感じていた異様な空気を「気のせいだった」と思わせるほど穏やかだった。
やがてゴンドラの扉が開き、四人はゆっくりと外へ足を踏み出す。
「ありがとうございましたー!」
係員の明るい声に見送られながら、レイラは大きく背伸びをした。
「はぁ〜! 楽しかったぁ〜!」
「最初はちょっと怖かったけど……景色、本当に綺麗だったね」
エルナも満足そうに笑みを浮かべる。その横でフランだけは、言葉少なに空を見上げていた。長いまつ毛の奥に映る青空は、誰よりも静かだった。
すると、レイラが首をかしげながら言った。
「ねぇ、さっきのなんだったんだろーね。風も止まるし、ゴンドラも揺れるし……ちょっと不思議だったよね〜」
「うーん……気のせい、かな?」
エルナは笑って答えるが、その声には少しだけ自信がなかった。レッドも腕を組みながら空を見上げる。
「……どう、だろう」
言葉ではそう返したものの、胸のざわめきは消えていない。あの違和感は、単なる偶然ではなかった。そう思わせる何かが、確かにあった。
隣を見ると、フランは相変わらず空だけを見つめている。まるで、誰にも見えない何かを追いかけるように。
(……やっぱり気になる)
レッドは無意識に左手を握り締めた。手の甲に刻まれたエレメンターの紋章。普段は意識することなどないその印が、今日は妙に熱を帯びている気がした。
(何かが……動き始めてる)
その確信だけが、胸の奥に静かに残っていた。やがて、4人は再び歩き始める。観覧車を離れ、賑やかなメインストリートへ戻ると、観光祭は相変わらず大勢の人で溢れていた。
大道芸人の歓声。屋台から漂う香ばしい匂い。遠くでは音楽隊の演奏が聞こえ、人々の笑顔が絶えない。どこを見ても平和そのものだった。
だからこそ――レッドの胸に残る違和感だけが、不自然に浮き上がっていた。
「ねぇねぇ! 次どこ行く?」
レイラが元気いっぱいに前へ飛び出す。
「甘いもの食べたい! あとお土産も見たいし!」
「ふふっ、じゃあ一緒に行こう!」
エルナも笑顔で後を追う。
「……うん」
フランも小さく返事をして歩き出した。3人の楽しそうな背中を見ながら、レッドも自然と笑みを浮かべる。
「……まぁ、今は楽しもうか」
そう呟き、足を踏み出した。だが、その瞬間だった。フランだけが、不意に立ち止まる。
「……?」
彼女はゆっくりと振り返り、誰もいないはずの空の彼方を見つめた。その瞳が、わずかに揺れる。
「……裂け目」
誰にも聞こえないほど小さな声が漏れる。青空の遥か向こう。常人には決して見えない場所で、空間が糸1本ほど細く揺らいでいた。
まるで世界そのものに、小さな傷が刻まれたように。しかし次の瞬間には、その揺らぎは何事もなかったかのように消え去る。
「フランちゃん?」
そしてエルナがそう呼ぶと、フランははっと我に返った。
「あ……ううん。なんでもない」
そう微笑み、再び皆の後を追う。その笑顔はいつもと変わらない。けれど胸の奥では、小さな鼓動だけが静かに速さを増していた。
しかし空の遥か彼方では――誰にも気づかれることなく、その裂け目が、ほんのわずかに脈打っていた。
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