第52話「期待の日の始まり」
ライブステージの熱気が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。拍手と歓声に包まれた舞台から降りたエルナは、胸へそっと手を当てながら大きく息を吐いた。
「……終わったぁ」
緊張から解放された途端、全身から力が抜けていく。足は少し震えていた。それでも心の中は、不思議なほど温かい。
歌ってよかった。その想いだけが、静かに胸へ残っていた。舞台袖では、フランが安堵した表情で待っていた。エルナの姿を見つけた瞬間、勢いよく駆け寄る。
「エルナ!」
「……!」
「す、すごかった……!」
言葉を探すように口をぱくぱくと動かし、それでも想いが溢れて止まらない。
「本当に……すごかったよ……その……歌声が……すごく綺麗で……」
フランは胸元をぎゅっと押さえる。自分でも上手く説明できない感情。けれど、それほど心を動かされたことだけは確かだった。
エルナは少し照れくさそうに笑う。
「ほんと? よかったぁ……ちゃんと届いてたんだ」
「うん……いっぱい届いた……!」
フランは何度も頷いた。その様子が可笑しくて、エルナも思わず笑ってしまう。2人の間に流れる空気は、ほんの数時間前に出会ったばかりとは思えないほど自然だった。そして、エルナが笑顔のまま尋ねる。
「ねぇ。このあと、どこ行く? まだ行ってないところ、いっぱいあるよね」
するとフランは少し考え、小さく指を立てた。
「あのね……海の近くに綺麗なお店があるって聞いたの⋯⋯」
「ほんと? 行きたい!」
「じゃあ⋯⋯決まり⋯⋯!」
2人は笑い合う。そして自然と手を繋ぎ、人混みの中を歩き始めた。楽しそうに笑うその姿は、どこにでもいる普通の高校生そのものだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ライブステージを後にしたレッドとレイラは、人で賑わう観光祭の会場をゆっくりと歩いていた。
空は少しずつ茜色へと染まり始め、昼間の強い日差しがやわらいで、どこか落ち着いた空気が辺りを包み込んでいる。
屋台からは焼き物の香ばしい匂いが漂い、遠くでは子どもたちの笑い声が潮風に乗って聞こえてきた。賑やかでありながら、夕方特有の穏やかさも感じられる時間だった。
「そろそろ戻ろっか」
レッドが腕時計に視線を落としながら言う。休憩時間は思っていた以上に短く、気づけばもう戻る時間が近づいていた。
「うん!」
レイラは元気よく返事をしたものの、すぐに少しだけ名残惜しそうに会場の方を振り返った。
「休憩ってあっという間だね〜」
さっきまで見て回っていた屋台や出し物のことを思い出しているのか、彼女の声にはまだ遊び足りないような響きが混じっている。
「もっと見て回りたかったなぁ〜」
「明日もあるだろ」
レッドは肩をすくめながら答えた。観光祭は1日で終わるものではない。まだ楽しむ機会はいくらでも残されている。
「今日はまだ1日目なんだから」
「あ、そっか!」
レイラはぱっと表情を明るくし、納得したように手を打った。
「じゃあ今日は我慢する!」
「偉い偉い」
レッドが優しい口調で言いながら軽く頭を撫でると、レイラは一瞬嬉しそうな顔を見せたが、すぐにむっとした顔になった。
「あぁー! 子ども扱いした!」
「実際そういうところあるだろ」
「ないもーん!」
2人はそんなやり取りを交わしながら、笑い合って屋台の並ぶ通りへ戻っていく。人混みの中を歩く足取りは軽く、先ほどまでのライブの余韻もまだ少し残っていた。
焼きそば屋台では、班員たちが相変わらず慌ただしく注文を受けていた。鉄板の上では麺が焼ける音が響き、ソースの香りが一層強く漂っている。客足はまだ途切れる気配がなく、休憩明けの人手を待っていたところだった。
「あっ!」
レッドたちの姿を見つけた班員の1人が、ほっとしたように声を上げる。
「レッドたち帰ってきた!」
「交代お願い!」
「あぁ、了解!」
レッドはすぐにエプロンを手に取り、手早く身につけると鉄板の前へ立った。慣れた動きでヘラを握り、熱気のこもる調理場に戻る。ジュウッという音とともにソースの香りが立ち上り、再び忙しい時間が始まった。
「焼きそば2つお願いしまーす!」
「はい! 少々お待ちくださーい!」
注文の声が飛び交う中、隣ではレイラが楽しそうに野菜を切っている。包丁を動かす手つきは軽快で、本人もどこか楽しそうだった。
「レッド! キャベツ切れた!」
「ありがと!」
レッドが受け取ったキャベツを鉄板へ流し込むと、また香ばしい匂いがふわりと広がる。
「次はお肉ね!」
「了解!」
自然と息の合ったやり取りに、周囲の班員たちも思わず笑みを浮かべた。忙しいはずなのに、2人の掛け合いにはどこか明るさがあり、見ている側まで少し楽しい気分になる。
「なんだかんだ、この2人って仲いいよな」
「息ぴったりだよね」
そんな声が聞こえるたび、レッドは苦笑いを浮かべるだけだった。否定するほどでもないし、かといって素直に認めるのも少し気恥ずかしい。結局、黙って作業に集中するのが1番だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方その頃。エルナとフランは海沿いの遊歩道をゆっくり歩いていた。
夕陽が水面を黄金色に染め、穏やかな波音が静かに響いている。昼間のにぎわいとは対照的に、こちらは落ち着いた空気が流れていて、歩いているだけで心がゆるんでいくようだった。
「綺麗……」
フランが立ち止まり、海を見つめながら小さく呟く。目の前に広がる景色は、思わず言葉を失うほど美しかった。
「うん」
エルナも隣で足を止め、同じように水平線へ視線を向ける。
「写真で見るよりずっと綺麗だね」
その言葉には、素直な感動がそのまま込められていた。画面越しでは伝わらない、風の匂いや波の音、夕焼けの色の移ろいが、今この瞬間を特別なものにしている。
エルナは嬉しそうに笑った。誰かとこうして景色を共有できることが、ただそれだけで少し心を温かくしてくれる。
2人はその後も、展望デッキへ立ち寄ったり、小さな雑貨店を覗いたりしながら、ゆっくりとリゾート地を巡っていく。店先に並ぶ貝殻の飾りや、海をモチーフにした小物たちを見ては、あれこれと感想を言い合った。
出会ってまだ数時間。それでも不思議なくらい会話は途切れず、歩幅も自然と揃っていた。初対面のぎこちなさはほとんどなく、まるで以前から知り合いだったかのように、2人の間には穏やかな空気が流れている。
「ね、また明日も一緒に回ろ?」
エルナが笑顔で尋ねる。今日だけで終わってしまうには、あまりにも楽しい時間だった。フランは少し照れながらも、小さく頷いた。
「……うん」
「約束ね!」
そう言って2人は指切りを交わした。小さな約束だったが、その仕草には確かな嬉しさが込められている。
夕焼け色の空の下、小さな笑い声が潮風へ溶けていく。海辺を吹き抜ける風はやわらかく、どこまでも穏やかだった。
そしてカラミティアルランドには、今日も変わらぬ静かな時間が流れていた。
――ただ1つ。フランと出会った時、昼間に森林で見かけた白い霧だけは、誰にも気づかれないまま、森の奥で静かに漂い続けていた。
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