第2話「2人のエレメンター」
昨日の出来事――。レッドは、常識では説明のつかない存在と遭遇した。炎を纏った狐。眩い光。そして左手の甲に刻まれた見覚えのない紋章。
どれだけ考えても答えは出ない。夢だったと片付けるには紋章が残っているし、現実だったと認めるには出来事そのものが非現実的すぎた。
そしてその頃、世界の何処かではレッドと同じように3人の人間が運命的な邂逅を果たしていた。それが偶然なのか必然なのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば――その全ての始まりには、神獣が関わっているということだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そらは雲ひとつない快晴に包まれていた。街路樹の葉を揺らす風は穏やかで、通学路には朝特有の爽やかな空気が流れている。
しかし、その心地良い景色とは対照的に、レッドの表情は冴えなかった。
「⋯⋯ふぅ」
欠伸混じりのため息を吐きながら歩く。理由はもちろん、あの出来事からある左手の紋章である。
何度見ても消える気配はなく、むしろ時間が経つほど存在感を増しているようにさえ感じられた。今この登校中でも何度も確認したが、これは現実のようだ。
「あぁ〜、やっぱり夜ふかしはするもんじゃないな」
青空を見上げながらぼやく。普段から朝に強い方ではない。そんな彼にとって睡眠不足は致命的だった。もっとも、眠いからといって学校を休むわけにもいかない。
そのままふと時計を見る。そして顔を引きつらせた。
「やっべ、このままだと遅刻する⋯⋯!」
慌てて足を速める。その時、不意に視線が左手へ落ちた。制服の袖口から覗く紋章は、昨日と変わらずそこにある。炎を思わせる複雑な紋様は、まるで皮膚そのものに刻み込まれているようだった。
「この模様⋯⋯結局なんなんだろ」
独り言のように呟く。傷ではない。インクでもない。当然、自分で描いた覚えもない。
「何かのタトゥーだったら完全に校則アウトだろ」
思わず苦笑する。だが冗談を言っていても状況は変わらない。あの狐は何だったのか。何故自分の前に現れたのか。そして、この紋章にはどんな意味があるのか。考えれば考えるほど疑問は増えるばかりだった。
「いや、それより今は学校だ⋯!」
頭を振って思考を切り替える。そうして地面を蹴った瞬間だった。
ふっと視界が揺らいだ。それは本当に一瞬の出来事だった。まばたきにも満たない僅かな時間。だが次の瞬間、レッドは反射的に足を止めることになる。
目の前には巨大な校門があった。見慣れた校舎。見慣れた景色。毎日通っている学校。しかし、そこに辿り着くまでの過程がごっそり抜け落ちている。
「⋯⋯は?」
思わず声が漏れた。ついさっきまで住宅街を走っていたはずだった。学校まではまだ数分かかる距離があったはずだ。なのに今、自分は学校の正門前に立っている。
理解が追いつかない。周囲を見回しても異常はない。誰かに見られた様子もない。時計を確認すると、むしろ普段より早く到着していた。
「一体、何が起きてるの⋯?」
朝から不可解な出来事ばかり続いている。炎の狐。謎の紋章。そして今の現象。もはや何が起きても驚かない自信が付き始めていた。
「⋯⋯まぁ、いいか」
数秒悩んだ末、レッドは考えることを放棄した。分からないものを考え続けても仕方がない。とりあえず教室へ向かおう。
そう思い、校舎の中へ足を踏み入れた。そして自分の教室の扉を開いた瞬間、レッドは思わず足を止めた。
「今日も一番乗り――って、ん?」
朝日が差し込む静かな教室。その窓際の席に、一人の少女が腰掛けていた。頬杖をつきながら外を眺める姿はどこか絵になっていて、一瞬だけ見慣れない人物かと思ってしまう。しかし次の瞬間、その正体に気付いたレッドは思わず声を上げた。
「誰……ってあっ! レイラ!?」
目の前にいる少女――『レイラ・アクランド』は、不思議そうな顔で振り返る。彼女はこのクラスのムードメーカーで、レッドの幼馴染だ。そして、みんなのアイドルと呼ばれる人気者でもある。
「へ? だって同じクラスじゃん〜!」
「いや、そうじゃなくて!」
レッドは即座にツッコミを入れた。
「なんでこんな早いんだって聞いてるんだよ。いつもはもっと遅いだろ?」
「あぁ~、そゆこと?」
レイラは納得したように頷くと、椅子の背もたれに身体を預けた。
「実はさ、今朝ちょっと変なことがあって」
その言葉に、レッドの胸がわずかにざわつく。昨日から続く不可解な出来事のせいだろうか。嫌な予感にも似た感覚が背筋を走った。
「家を出たら狐さんみたいなのがいたんだよね~」
「……は?」
レッドの思考が一瞬止まる。しかしレイラは気付いた様子もなく話を続けた。
「それで目の前がピカーッ! って光ってさ。気付いたら学校の近くにいたの!」
まるで面白い出来事でも話しているかのような気軽な口調だった。普通なら笑い話で終わる。冗談だと思って聞き流すだろう。だが、レッドには笑えなかった。昨日、自分も炎を纏った狐と遭遇している。そして今朝は、瞬きをした次の瞬間に学校へ到着していた。状況があまりにも似通っている。
「そ、そんなわけ――」
否定しようとして言葉が止まる。あり得ない。だが、自分自身があり得ない体験をしている以上、頭ごなしに否定することもできなかった。
「……いや、あったわ」
「でしょ~?」
「でしょ~? じゃないんだよ?!」
レッドは思わず頭を抱えた。レイラは楽しそうに笑っている。昔からこうだった。本人に悪気はないのだろうが、時々とんでもないことを平然と言ってのける。
「も~。レッド変な顔してる」
「誰のせいだと思ってる」
「レッドって昔からリアクション大きいよね」
「ど・つ・き・回・す・ぞ・?」
「ごめんっ☆」
まるで反省していない。だが、その軽いやり取りのおかげで少しだけ頭が整理された。偶然ではない。レイラもまた、自分と同じ現象を経験している。そう考えるのが自然だった。そして、確かめたいことが一つある。
「なぁ、レイラ」
「ん?」
「左手見せてくれないか」
「左手?」
レイラは首を傾げながら左手を持ち上げた。その瞬間、レッドの目が見開かれる。そこには見覚えのある紋章が刻まれていた。もちろん自分のものとは違う。しかし、昨日自分の手に現れた紋章と同じ種類のものだと直感で理解できた。淡い蒼色の紋様。水や氷を連想させるその印は、まるで皮膚そのものに刻み込まれているかのように自然に存在していた。
「え、なにこれ……」
レイラは目を瞬かせながら、自分の左手をまじまじと見つめた。どうやら本当に今まで気付いていなかったらしい。指先でそっと紋章に触れてみるが、消える様子はない。
その反応を見て、レッドは胸の内で確信を深める。やはり自分だけではない。昨日の出来事も、この紋章も、全てが何らかの形で繋がっている。
「やっぱりか……」
思わず漏れた呟きに、レイラが顔を上げた。
「やっぱり?」
「いや、まだ分からない。でも調べたいことができた」
レッドは慎重に言葉を選ぶ。確信には至っていない。だが、昨日から頭の片隅に引っ掛かっているものがあった。
昔、興味本位で調べたことのある伝承。――神獣。そして、ある存在の名前。もし自分の予想が正しいのだとしたら、この紋章にも意味があるはずだ。
「放課後、俺んち来れるか?」
そう切り出すと、レイラは一瞬きょとんとした後、ぱっと表情を明るくした。
「ほおおっ!!」
「レッドの家久しぶりじゃん!」
「そこじゃない」
「行く行く!」
返事だけは驚くほど早かった。もっとも、断られるとは最初から思っていなかったが、今の笑う彼女の表情は、何故か非常に眩しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その後の学校生活は、レッドにとって異常なほど長く感じられた。授業を受けていても集中できない。ノートを取っていても頭の中を占めるのは左手の紋章のことばかりだった。休み時間になるたびに無意識に手の甲へ視線を落とし、そのたびに昨日の出来事が現実だったことを思い知らされる。
レイラも同じだった。いつも通りに明るく元気でいるものの、ふとした瞬間に自分の左手を見つめている。気にならないはずがない。昨日までは存在しなかったものが、今は確かにそこにあるのだから。
そして放課後。2人はそのままレッドの家へ向かった。
「おじゃましまーす!」
元気な声が玄関に響く。レイラがレッドの家を訪れるのは久しぶりだった。幼い頃は頻繁に遊びに来ていたが、お互い成長するにつれて自然と機会は減っていた。
「いらっしゃい。適当に上がってね」
「はーい!」
階段を上り、自室へ向かう。部屋に入った途端、レイラは辺りを見回した。
「久しぶりに来たけど、やっぱりレッドの部屋汚いね~」
「……っ」
「おぉ、無言だ」
「それ以上言ったらぶちのめす」
「ごめんっ☆」
反省の色は皆無だった。先程も見たような流れ――このやり取りも昔から変わらない。
レッドは深いため息を吐きながら机へ向かう。部屋に両親の姿はない。海外出張で家を空けているため、今は一人暮らし同然の状態だった。椅子に腰掛けると、パソコンの電源を入れる。
「で、何を調べるのー??」
レイラが後ろからレッドにしがみつきながら画面を覗き込んだ。レッドは少しだけ考えを巡らせた後、検索窓にある単語を入力する。そしてエンターキーを押した。
「エレメンター……?」
レイラが画面を見ながら読み上げる。
「聞いたことないなぁ〜」
「だろうね」
レッドも頷いた。
「俺も詳しく知ってるわけじゃない。ただ、昔からこういう都市伝説とか未確認現象とか好きだったんだよ」
検索結果が表示される。そこには断片的な情報がいくつも並んでいた。神獣。4つのエレメント。選ばれし者。そして――エレメンター。
レッドの表情が徐々に真剣なものへ変わっていく。左手の紋章と酷似した図形。炎や水氷を示す記述。そして神獣に選ばれた者たちの伝承。あまりにも条件が一致しすぎていた。
「まさか……」
思わず呟く。レイラもいつの間にか笑顔を消していた。画面を見つめる瞳には、先ほどまでの軽さはない。そして数分後。レッドの手が止まった。見つけてしまったのだ。探していた答えを。
「まさかとは思ったが……」
小さく息を吐く。そして静かに続けた。
「本当に、そのまさかだったとはな……」
部屋の空気が静まり返る。窓の外から聞こえる街の喧騒さえ、どこか遠く感じられた。レッドとレイラは互いに顔を見合わせる。そこに浮かんでいたのは驚きだった。
そして、ほんの少しの不安。昨日まで当たり前だった日常が、確実に変わり始めている。そんな予感が、2人の胸の中に静かに芽生えていた。




