第1話「エレメント授与」
この世界には、4体の神獣が存在する。炎、水氷、風、雷。それぞれが自然の根源たるエレメントを司る存在であり、遥か昔から神話や伝承の中で語り継がれてきた。しかし、その姿を実際に見た者はほとんどおらず、多くの人々にとって神獣とは物語の中だけに存在する幻想と大差ないものだった。
それでも、神獣は確かに存在する。人知れず世界の何処かで生き続け、時に人へ力を授ける。その力を与えられた者は『エレメンター』と呼ばれ、ごく限られた者たちの間でのみその存在が知られていた。
一般社会においてエレメンターは都市伝説や噂話の域を出ず、その実在を証明できる者はほとんどいない。
また、エレメンターたちの間では、実力を示す指標としてランクが用いられている。最低ランクは〈F〉、最高ランクは〈A〉。ランクが高いほど戦闘能力やエレメントの運用技術に優れ、より強大な力を扱えるとされているが、これらは一般社会に関係がない。
では、どうすればエレメンターになれるのか。答えは単純だ。神獣の気まぐれ。それ以外に説明する言葉は存在しない。
生まれや家柄、才能や努力、善悪の別さえ関係ない。ただ神獣が選ぶ。それだけである。だからこそ、選ばれた者が必ずしも善人とは限らないし、世界を救う英雄になるとも限らない。
神獣は何故人を選ぶのか。何故力を与えるのか。何故4つのエレメントしか存在しないのか。その答えを知る者はいない。
だが、確かなことが1つだけあった。世界の何処かで、平穏を脅かす何かが静かに動き始めているということだ。
そして今――4人の運命が大きく変わろうとしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この世界の名は【アルカディア】。その中央都市区にて。
朝の柔らかな日差しが住宅街を照らし始めた頃、1軒の家の中からけたたましい電子音が鳴り響いていた。
ピピピピピッ!
ピピピピピッ!
「うぅ⋯⋯」
布団の中から伸びた手が枕元の端末を探り当てる。寝ぼけたまま画面を叩くとアラームは止まった。しかし静寂が訪いたのも束の間、数秒後には再び電子音が鳴り始める。
「⋯⋯あと5分」
そう呟きながら布団を頭まで被る。しかし願いが叶うことはなかった。3回目のアラームが鳴り響く頃には、さすがに意識も覚醒し始めていた。
「はぁ〜⋯」
深いため息を吐きながら身体を起こす。朝日を受けた赤髪は寝癖で好き放題に跳ねていた。
『レッド・フレイア』――それが少年の名前だった。
勉強が飛び抜けてできるわけでもなければ、スポーツも世界レベルを目指しているわけでもない。ごく普通の、高校生だ。
だが明るく活発な性格で、困っている人を放っておけない。気付けば周囲の中心にいることも多く、友人たちからの信頼は厚かった。
もっとも――朝だけは話が別である。
「学校かぁ⋯⋯」
ベッドから降りる足取りは重い。とにかく重い。あと3時間は眠れる自信があった。
「面倒くさいなぁ〜」
誰に聞かせるでもなく愚痴を零しながら部屋を出る。静かな廊下を歩き、階段を下りてキッチンへ向かった。家の中に人の気配はない。それもいつものことだった。
レッドの両親は仕事の都合で海外へ出張することが多い。数カ月帰らない程度なら珍しくもなく、長ければ年単位で家を空けることもある。そのため、朝食の準備や洗濯といった最低限の家事は自然と身についていた。
冷蔵庫から食パンを取り出してトースターへ放り込み、その間に牛乳をコップへ注ぐ。慣れた手つきで朝食を用意しながら、レッドは何気なく窓の外へ目を向けた。
今日も良い天気だった。雲ひとつない青空。絶好の登校日和。だからこそ、なおさら学校へ行きたくなくなる。
「まぁ、行くんだけどさ」
トーストを齧りながらぼやく。
幼い頃は家に誰もいないことを寂しく感じたこともあった。しかし今では慣れている。連絡を取ろうと思えばいつでも取れるし、帰ってこないわけでもない。それに、自分のことくらい自分でできる年齢だ。
朝食を終えたレッドは制服へ着替え、鞄を肩に掛けた。時計を見ると時刻は登校時間ぎりぎり。危機感を覚えるべきなのだろうが、本人は慣れ切っている。
「よし、行くか」
玄関で靴を履き、ドアノブを握る。いつもと変わらない朝。いつもと変わらない1日が始まるはずだった。
しかし、その予想は扉を開いた瞬間に裏切られる。熱を帯びた風が頬を撫でた。
「⋯⋯ん?」
思わず足を止める。まだ朝だというのに、真夏の昼間のような熱気が流れ込んできた。目の前の景色も僅かに揺らいで見える。まるで陽炎のように、空気そのものが歪んでいるようだった。
「なんだ⋯⋯?」
レッドが眉をひそめた、その時。歪みの中心から赤い火の粉が舞い上がった。ぱちり、と小さな火花が弾ける。1つ、また1つと火の粉は増えていき、やがて何かの輪郭を形作り始める。
周囲の温度がさらに上がる。だが、不思議なことに熱くはない。恐ろしいはずなのに、何故か目を離せなかった。
そして次の瞬間――炎を纏った狐が、レッドの目の前に姿を現した。
思わず息を呑む。狐は宙に浮かんでいた。燃え盛る炎を纏っているにもかかわらず、周囲の建物や植木に燃え移る様子はない。その毛並みは赤金色の光を帯び、黄金の瞳は静かにレッドを見つめていた。
神々しい。そんな言葉が自然と脳裏に浮かぶ。しかし、それ以上に理解が追いつかなかった。
「⋯⋯え?」
夢でも見ているのだろうか。そう思いたくなる光景だった。だが頬をつねるまでもなく、目の前の存在はあまりにも鮮明だった。
「え、いや⋯⋯待て待て待て」
レッドは思わず後ずさる。狐は動かない。ただ静かにそこにいる。
「なんなんだよ、お前⋯⋯」
返事はない。当然だ。狐なのだから。しかし、その瞳には不思議な知性が宿っているようにも見えた。まるで何かを確かめるように。まるで誰かを選ぶように。じっとレッドを見つめ続けている。
奇妙な沈黙が流れた。住宅街には朝の風景が広がっているはずなのに、その瞬間だけ世界から音が消えたような感覚に包まれる。
そして――狐がゆっくりと目を細めた。次の瞬間、世界が赤く染まった。
「うわっ!?」
眩い光が弾ける。反射的に腕で顔を庇うが意味はない。光は容赦なく全身を包み込み、身体の奥深くへ流れ込んでくる。
熱くない。痛くもない。それなのに心臓が激しく脈打った。
――ドクン。ドクン。ドクン。
鼓動が大きく響くたび、身体の中に新たな何かが生まれていくような感覚が広がっていく。
「な、なんだこれ⋯⋯!」
声を上げても誰も答えない。ただ光だけが周囲を埋め尽くしていた。やがて、永遠にも思えた数秒が過ぎる。突然、光が消えた。
静寂が戻る。レッドは恐る恐る目を開いた。身体に異常はない。火傷もない。怪我もない。だが、確かに何かが変わっていた。
「⋯⋯?」
左手に違和感を覚える。視線を落とした瞬間、レッドは息を呑んだ。手の甲に見覚えのない紋章が刻まれていたのである。
炎を思わせる赤い紋様。複雑な線が絡み合いながらも、不思議な統一感を持った印だった。
「なんだよ、これ⋯⋯」
指先で触れてみる。痛みはない。消える様子もない。まるで生まれた時からそこにあったかのように自然に存在している。しかし、そんなはずはない。つい数分前まで、こんなものは確実になかった。
慌てて顔を上げる。だが、そこに狐の姿はなかった。
「⋯⋯消えた?」
辺りを見回す。道路の向こう。住宅の屋根。電柱の上。何処にもいない。最初から存在していなかったかのように、跡形もなく姿を消していた。
「いやいやいや⋯⋯」
レッドは額を押さえる。理解が追いつかない。炎の狐。謎の光。そして手の甲の紋章。どれも現実離れしすぎていた。
だが、紋章だけは確かに残っている。夢ではない。幻覚でもない。現実だ。
「なんか、学校どころじゃない気がするんだけど」
思わず本音が漏れた。もちろん、だからといって休む理由にはならない。むしろ学校へ行けば誰かがこの状況を説明してくれるかもしれない――そんな期待すら抱いてしまう。
もっとも、その期待が叶うことはないのだが。
この時のレッドはまだ知らない。自分と同じように、今まさに運命を変えられた者たちが存在することを。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
同じ頃。レッドの家からそう遠くない場所でも、異変は静かに始まっていた。
「よし! じゃ、行ってきます!」
元気な声とともに玄関を飛び出した少女は、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
その瞬間だった。目の前の空間が静かに揺らぐ。水面へ小石を落としたような波紋が広がり、透明な水膜が空中に浮かび上がった。
「えっ?」
驚く間もない。水膜が弾け、無数の水滴が陽光を反射する。その中心から現れたのは、水と氷を纏った狐だった。
淡い蒼色の毛並み。透き通るような瞳。周囲には小さな氷晶が舞い、朝日に照らされて幻想的な輝きを放っている。
少女が言葉を失う中、狐はゆっくりと尾を揺らした。次の瞬間、蒼い光が弾ける。
「きゃっ!!」
冷たい風が頬を撫でた。だが不思議と恐怖はなかった。どこか優しく包み込まれるような感覚。光が収まった時、少女の左手の甲には、水と氷を思わせる紋章が刻まれていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
さらに別の場所。
「今日もいい天気ね」
穏やかな朝の空を見上げながら歩いていた少女の足元で、突然風が渦を巻いた。落ち葉がふわりと舞い上がる。空気が集まり、一つの形を作り始める。
「な、なによ!?」
思わず立ち止まった少女の前に現れたのは、風を纏った狐だった。その身体は半透明で、風そのものが生命を得たかのような神秘的な姿をしている。
狐は軽やかに跳ねる。その瞬間、柔らかな突風が吹き抜けた。風鈴にも似た澄んだ音が響く。そして光が弾けた。
少女が思わず目を閉じる。次に目を開いた時には、左手の甲に見知らぬ紋章が浮かび上がっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そしてまた別の場所。
「今日は朝から色々と早いな」
そう呟きながら家を出た少年は、ふと異変に気付いた。空気が焦げるような匂いがする。直後、空に細い稲光が走った。雷光は一直線に収束し、目の前へ降り立つ。
そこにいたのは、雷を纏った狐だった。銀紫色の毛並みの隙間を、小さな電流が絶えず駆け巡っている。
ぱちり。ぱちり。
静かな放電音が朝の空気に響く。狐は少年を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。その瞬間――世界が白く染まる。
「――っ!」
轟音は聞こえなかった。ただ眩い光だけが視界を埋め尽くす。やがて耳鳴りが収まった時、少年の左手の甲には力強い紋章が刻まれていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
4体の神獣。4つのエレメント。4人の選ばれし者。まだ誰も知らない。この日が、世界の運命を変える始まりになることを。
そして彼ら自身もまた、知る由はなかった。自分たちがこれから、想像を超える戦いと運命に巻き込まれていくことを――。




