第25話「断たれた生、繋ぐ意志」
つい先ほどまで激しい剣戟が鳴り響いていた屋上は、不気味なほどの静けさに包まれている。吹き抜ける風だけが、砕けたコンクリートの破片を転がし、乾いた音を立てていた。
その静寂の中心で、1人の少年が膝をついている。レッドだった。神剣を杖代わりにして辛うじて身体を支えているものの、その瞳からは先ほどまで燃え盛っていた闘志が急速に失われつつあった。
呼吸は浅く、肩は微かに上下している。それなのに、その姿には「生きている」という実感がなかった。
「……レッド?」
恐る恐る名前を呼ぶ。返事はない。レイラは震える足で駆け寄り、その肩へ手を伸ばした。
「レッド! ねぇ、しっかりして!」
何度も肩を揺する。しかし、その身体は力なく揺れるだけだった。
「返事してよ……!」
頬を叩く。呼吸はある。鼓動もかすかに感じる。それなのに、目の前の少年は何も応えない。まるで魂だけが、どこか遠くへ置き去りにされてしまったかのようだった。
胸が締めつけられる。嫌な予感だけが、心の奥で膨れ上がっていく。
「レッド……お願い……」
声が震える。涙がまた1粒、頬を伝って落ちた。その雫は静かに床へ染み込み、誰にも気づかれないまま消えていく。
ミズリーも険しい表情でレッドを見つめていた。
「……やっぱり、おかしい。傷はない。生命反応も消えてはいない。それなのに、この感覚は……」
神獣である彼女でさえ理解できない。フレイもまた腕を組み、普段以上に鋭い眼差しを狂戦士へ向ける。
「……あの一撃は、肉体を斬る技ではないみたいだな」
その一言に、レイラは勢いよく振り返った。
「どういうこと?」
「まだ断定はできん。だが、やつが使った『BURST』は……常識の延長線上にある技ではない」
フレイは静かに目を細める。その視線の先では、漆黒の鎧を纏う狂戦士――クロウ・バーサーカーが微動だにせず立っていた。
まるで1本の古木のように。まるで死そのものが具現化したように。深紅の瞳だけが、静かにレイラを映している。
「……次は、貴様だ。娘」
低く響く声。その声色には怒りも焦りもない。あるのは、ただ揺るぎない事実を告げるだけの冷たさだった。
レイラはゆっくりと立ち上がる。震えていた足は、もう止まっていた。代わりに胸の奥で燃え始めたものがある。それは――怒りという感情だった。
「……レッドに、何をしたの」
静かな問い。だが、その瞳には鋭い光が宿っている。狂戦士は1歩だけ歩み出る。そして、ふっと足を止めた。
「……よかろう。冥土の土産として教えてやる」
低い声が屋上へ響く。重々しく、大剣を肩へ担ぐ。
「我は……外傷を与えたのではない。彼から断ったのは――“生”という概念そのもの」
レイラは息を呑む。狂戦士は深紅の瞳でレッドを見下ろした。その一言だけで、空気が凍りついた。
「……概念?」
理解できない。言葉の意味は分かる。だが、それが戦いとどう結び付くのか分からなかった。クロウは静かに続ける。
「人は、生きるという概念があるからこそ命を繋ぐ。だが、それを断てばどうなる。肉体が無傷であろうと意味はない。今の彼には、生きるという理そのものが存在しない。」
レイラの喉が小さく鳴る。嫌な汗が背中を伝った。
「残るは……死のみ。故に――死んだも同然。」
言葉が耳へ届いた瞬間。レイラの世界から音が消えた。視界の端では、レッドが静かに膝をついたまま動かない。
さっきまで笑っていた。一緒に戦っていた。何度も助けてくれた。そのレッドが、たった一撃で。そんな理不尽があっていいはずがない。
「……そんなの⋯⋯そんなの、おかしいよ」
レイラは小さく呟いた。クロウは何も答えない。ただ静かに立っているだけだった。レイラは拳を強く握り締める。そして、怒鳴るように叫んだ。
「だったら、普通に倒せばいいじゃない! どうしてそんな回りくどいことをするの!」
クロウはゆっくりと首を横へ振った。
「然り。だが、それでは時間を要する。我が使命に、悠長な戦いは不要。この技は……刃が触れた瞬間に成立する。深く斬る必要も、致命傷を与える必要もない。触れたその瞬間に、“生”は断たれる」
淡々と語られる事実。それが余計に恐ろしかった。レイラは震える声で問いかける。その唇は震えていた。
「じゃあ……レッドは……」
クロウは一切迷わず答えた。
「無論。既に――死んだ」
「――っ!」
その一言だけで十分だった。レイラの瞳が大きく揺れる。胸の奥で、何かが切れる音がした。悲しみ。絶望。恐怖。そのすべてを飲み込むほどの激情が、静かに燃え上がる。
レイラは涙を乱暴に拭った。もう泣いている時間はない。今ここで止まれば、レッドの想いまで終わってしまう。そしてゆっくりと神斧を握り直す。柄を握る手は震えていた。それでも、その瞳だけは真っ直ぐ狂戦士を射抜いている。
「……そう、かぁ⋯⋯」
レイラの呟きは実に静かな声だった。彼女は再び神斧を構える。
「だったら、あなたを倒して……」
冷気が足元から広がり始める。白い霜が床を覆い、空気が一気に張り詰めた。
「レッドを、取り返す」
その宣言と同時に、レイラの身体から蒼白い光が溢れ出す。怒りと決意。2つの想いへ応えるように、神斧が静かに共鳴した。
レイラは深く息を吸い込み、力強く叫ぶ。
「――スキル!」
神斧の刃が、蒼白い輝きを帯びる。溢れ出した冷気は瞬く間に周囲へ広がり、屋上の床一面へ霜を咲かせた。怒り、悲しみ。喪失感。
胸の奥で渦巻く感情のすべてが、水氷のエレメントへと変わっていく。レイラは静かに息を吐いた。涙は、もう流さない。今は泣く時ではない。
目の前の敵を越えなければ、レッドの想いも、自分の想いも、何ひとつ届かない。アクレシアを両手で握り直し、1歩踏み出す。その瞳には、先ほどまで宿っていた迷いはなかった。
「――【白零斬】 」
その一言と同時に、レイラの姿がふっと掻き消えた。いや、消えたように見えただけだ。
限界まで無駄を削ぎ落とした1歩。水面を滑る雫のような加速。空気を裂く音すら置き去りにした斬撃が、狂戦士の首筋へ一直線に走る。白銀の軌跡だけが、夜を切り裂いた。だが――
カラン。
乾いた音が響く。狂戦士は身体をほんのわずかに傾けただけだった。紙一重、本当に髪の毛一本分ほどの差で、その斬撃は空を切る。
レイラはすぐに距離を取り、静かに着地した。
「……っ」
思わず舌打ちが漏れる。
(今のを……避ける?)
手応えはあった。速度も、間合いも完璧だった。それでも当たらない。目で見て避けたのではない。もっと別の何かで見切られたような感覚だった。
クロウはゆっくりと身体を戻し、低く呟く。
「……速いな。だが……」
その声には、僅かな感心が混じっていた。深紅の瞳が細められる。
「先ほどとは違う。心が乱れている」
レイラはそれをただ真っ直ぐに睨み返した。
「あっそう」
声は静かだった。静かだからこそ、その奥にある怒りが際立つ。
「今の私、すっごく怒ってるから。だから、あんまり喋らないで」
レイラは神斧を肩へ担ぎ直し、狂戦士は無言のまま大剣を構える。相手の姿勢に、一切の隙はない。
まるで長い年月を戦場だけで生き抜いてきた戦士そのものだった。
「……怒りは視野を狭める。戦士に必要なのは激情ではない。冷徹なる判断だ」
「説教なら間に合ってる」
狂戦士の言葉をレイラは短く言い返した。
「あなたに教わることなんて、1つもない」
言葉と同時に床を蹴った。今度は正面からではない。横へ、後ろへ。死角を縫うように高速で移動する。だが狂戦士は動かない。ただ静かに立ち尽くしている。その姿が逆に不気味だった。
(なら……)
レイラは神斧を掲げ、刃が蒼く輝いた。
「――【雪嵐咆】 」
次の瞬間、轟音とともに白銀の吹雪が解き放たれた。
無数の氷片が竜巻のように渦を巻き、屋上全体を飲み込んでいく。視界は完全な白。数メートル先すら見えない。
吹き荒れる風が校舎の窓ガラスを激しく震わせ、壁という壁を軋ませる。冷気は瞬く間に床を凍らせ、屋上を1つの氷原へ変えていく。
クロウの姿も、その白い嵐の中へ消えた。レイラは静かに目を閉じる。
(――見えなくていい。最初から、そのつもりだから)
すると、吹雪の奥から低い声が響く。
「……目眩ましとは。姿が見えねば、こちらも剣を振るえぬとでも思ったか」
その声に怯みはない。むしろ余裕すら感じられる。
「姿は見えずとも……隙だけは、よく見える」
すると、大剣がゆっくりと構えられる気配がした、次の瞬間。
ゴォォッ!!
大剣が横薙ぎに振るわれる。暴風そのものを切り裂くような一撃。吹雪が左右へ弾け飛び、巨大な空間が生まれる。
その軌道上にいれば、間違いなく真っ二つだった。しかし――
「そんなの……」
レイラの声が吹雪の向こうから聞こえる。
「とっくに分かってるんだよ」
クロウの眉が僅かに動いた。その瞬間。吹雪の中へ、静かな水音が響く。
ぽたり。ぽたり、と。水滴が落ちるような音。レイラは静かに神斧を胸元へ構えた。
「――【水鏡反射】 」
足元へ1枚の水鏡が広がる。揺れる水面、その鏡へ映るのは、今ではない。ほんの僅か先の未来。1秒後、2秒後、3秒後。狂戦士がどこへ剣を振るい、どこへ踏み込むのか。未来の軌跡だけが、水面へ静かに映し出されていく。
レイラは深く息を吸った。――見える。すべてではない。それでも、今の自分には十分だった。
(右に踏み込み、次は左へ薙ぐ。そのあと真上から――)
未来を読み終えた瞬間、レイラは床を蹴る。
「避けて――!」
その身体が残像を残す。直後。
ズガァァン!!
レイラが立っていた場所へ、大剣が振り下ろされた。コンクリートが粉々に砕け、巨大な亀裂が走る。しかしそこに、彼女の姿はない。
すでに狂戦士の懐へ潜り込んでいた。彼の深紅の瞳が大きく見開かれる。
「……なに?」
これまで初めて見せた驚愕。そしてレイラは迷わず神斧を振り抜いた。蒼い斬光が鎧を掠め、火花が夜空へ散る。
狂戦士は後方へ跳び退きながら、その傷跡へ視線を落とした。浅い。だが確かに、鎧へ一筋の傷が刻まれていた。レイラは静かに構え直す。
「――避けて、反射する!」
短く告げる。狂戦士は低く問い返した。
「……どういう意味だ」
「そのまんまだよ」
するとレイラは小さく笑う。そして神斧を肩へ担ぎ直した。
「あなたには分からないと思うけど」
その挑発に、狂戦士の纏う空気が僅かに変わる。静かだった殺気が、ゆっくりと熱を帯び始めた。そして彼は、大剣を静かに正眼へ構える。
深紅の双眸が、これまで以上に鋭くレイラを見据えた。
「……貴様。少々、図に乗ったな」
低い声が響く。屋上の空気が再び凍りつく。そして狂戦士の周囲へ漆黒の粒子が集まり始めた。
それは先ほどレッドへ放たれた、あの禍々しい力と同じ気配だった。レイラの表情から笑みが消える。
(まさか……)
嫌な予感が胸を貫いた。クロウは狂戦士と大剣を掲げる。
「 『BURST』――」
その一言だけで、空間そのものが震え始めた。レイラは息を呑む。
(まだ……あれを使えるの……!?)
握る神斧へ、思わず力が入る。だが狂戦士は静かに言葉を紡ぎ始めた。
このままでは間に合わない。レイラの脳裏に、自分を庇ってくれたレッドの姿が浮かんだ。そして、こんな言葉が頭をよぎる。
――あれを受ければ、 本当に終わる。




